亡命民主主義なんちゃって
はじめに
トランプさん。大統領就任で大騒ぎだ。まったく「アメリカファースト」を第一に掲げながらこれほどの逆風を受けるとは。
民主主義の正規のルールに則って誕生したトランプ大統領。選挙で決定したのですから、その決定に従わないというのは、民主主義のルールに反しています。 自分達に都合のよいように、民主主義をこねくりまわしてはいけません。 民主主義のルールにのっとって、リコールするとか考えましょう。そして、次のトランプ大統領を産まないように、大統領選挙の方法を見直しましょう。
ハリウッド的国家主義
国家の富と尊厳よりも、個人の権利を優先すべきというアメリカ的個人主義がわかりやすく噴出している感じでしょうか。
この個人主義の根底にある「愛国心」が、「アメリカ」をハリウッド映画的に支えていたわけですが、移民、難民、有色人種、女性、性的マイノリティーなどの皆様が「国家よりもまず今日の暮らし」にしかリソースをさけない状況にあって、「アメリカ? 国が何してくれるんだ?」という空気が広まって、愛国心は希薄になりました。
国に帰らせていただきます
「国民」は国に守られているという実感を得られなければ、国家への忠誠など誓いません。あくまでも「個人」と「国」とは対等であれねばならないのです。それが「国民主権」だと思います。
「前は、あんなに優しかったのに。あなたはすっかり変わってしまって、パワハラだし、金の亡者だし、私のことを一番には考えてくれない。もう、あなたとはやっていられません」
では、国民として国にNOを突きつけたい場合、具体的にどういう行動が考えられるでしょうか?
意見が合わなければ、話し合い、合意点を見出す。話し合いが決裂したら、別れる。
結婚などの場合は、こうした手順が(犯罪をともなわない)一般的な流れでしょう。
三行半
リコール、デモ、無血革命。このあたりまでは許されると思いますが、暴徒化したら、警察につかまるのは当然です。国家はいくら暴力的になってもつかまりませんが、国民はつかまってしまいます。
だから、交渉決裂の場合に唯一とりう手段は、「別れる」という行為です。
お前が出て行け
国家はその場を離れることができないので、出て行くのは個人の方ということになります。
三行半をつきつけて、国を出る。自分の主義主張にマッチした国を求めての国外脱出です。これは、政治的理由に基づく出向なので、亡命ということになりますね。すこし、大げさな気もしますが、完全に縁を切りたいのなら、こうするしかないのです。
亡命者=難民規定ということでもあるらしいので、なんだかきこえが悪いですが、ここは結婚相手を選ぶように、国家を選べる仕組みを整備する必要があるのではないでしょうか?
国家民主主義
民主主義というのは、常に、多数に対しての民主主義でしかありません。
全国民の意思が完全に統一されている国家というものは、もはや民主主義とはいえないと思います。したがって民主主義の社会には様々な相反する意見が表面に乱立していて、それらの最大公約数を国民が求める国家施策とするしかありません。
だから、少数にとっては国家福祉的社会主義的でこそあれ、民主主義を謳歌することはできません。
人は、親を選んで生まれることができない、とよく言います。では、国はどうでしょうか?
許してあげる
民主主義は、別に平等主義でも公平主義でもないのです。
ただ、個人がある程度の勝手をする権利を認めてあげます。というだけのものなのです。この「ある程度」というところが、重要なのですが、おおまかにいって、「他人の権利を害しないこと」と「国にたてつかないこと」という枷がはめられていると考えられます。
そして、国家と個人とが争った場合、国家が優先することになります。
そうしないと、他の国民に対して示しがつかないからです。国民がつけあがるからです。「国民主権」とかいっていますが、まず「国民」であるという条件が優先されていることに留意しておきましょう。
アイマスク少々
「アラブの春」が結局失敗に終わっていることから考えて、民主主義を運用するためにはある種の目隠しが必要だったのだと思います。それで少数派の眼を塞ぐのです。(それとも、政府が少数派から眼を塞ぐのかな?)
だいたい、民主化=資本主義化というゴリ押しで、「現在の不平不満は一挙に解決するよ!」って謳った資本主義陣営が無責任すぎました。
今ここにある不満
しかしこの「自由」が意味するものはどんどん膨らんで、一人一人異なったものとなってしまいます。
圧政下では、大多数が一致した望みを、抱いていたかもしれません。せめて一人一個のパンが食べたいとか。厳しい制限下において、意思は統一されやすいでしょう。囚われた人々の第一の望みは、牢獄を出ることです。
しかし、牢獄を出た後はどうでしょう?
囚われていたときには、三日に一回はパンが食べられたのに、外にでたら、仕事をしなければ何も食べられないぞ!
といって、民主主義のせいでより悪くなった。民主主義が悪い。ってことになるのです。
ユートピア論
そもそも、異なる要望や希望を持った人々が、一つの国家に住んでいるから、軋轢が生じるのです。
だったら、自らにあった国家を選べるようにすればいいのです。
亡命試験(一芸)
人は親を選ぶことはできません。ならばせめて、国家を学校のように選べるような仕組みを整えればいいのです。
貨幣的価値観に縛られた現在では、大小の集落が点在する世界の実現は困難でしょうが、「移動する個人(定住しない個人)」は、国家、資本、民族、という三角形(柄谷さんの)をなし崩しにする力をもっています。
国家にとって国民とな何か? 国家にとって国民とは何なのか?
自由とは
憲法においてまず第一に保証すべき国民の権利は、「移動の自由」です。
その他に「自由」とよべるものなど一つもないとさえ思います。その他の権利は、人々をこの国に呼び寄せ、引き止めるための、特典、売り、PR材料にすぎないといっても過言ではないでしょう。
どこにもいかないで
より自分にあった国家へ移動する自由を保障すること。これは、国家の存続の危機を招くことになるので、おいそれと認められるはずはありません。現状では、なんらかの異常事態から逃げる場合だけ、亡命は認められる可能性がある、という状況です。ここを替えていくにはどうすればいいか? 現在、世界的課題問題となっている難民への対応が、「亡命民主主義」への大きなきっかけとなるかもしれないと思っています。
余談(ノマドと互酬制)
ノマドなんて、もはや懐かしい概念ですが、これから重要な指針になるものと、思っています。
また、「互酬制の社会」の可能性がクローズアップされている現在、このタイプの社会で問題となりそうなのが、(貨幣というものに慣れきった価値体系の変革という最大の問題はおいといて)「村社会への逆行」と「宗教的共同体の乱立」です。
お互い様は、ギブアンドテイクではないの!
「互」という語ことからも明らかなように、このタイプの社会では他者にとって有用な行為ができない人は生きてゆけません。共同体への寄与が、個人に優先する社会です。こうした社会にもセイフティーネットは存在するのでしょうが、土着を基本とし、不文律としきたりによって機能し、村八分が最大のペナルティとなりうる閉鎖的で濃い社会が再現がしてしまう懸念があります。
「宗教的共同体のタイプ」では、「互」という言葉は「神-神民」を示します。この社会では、神の意思を具現する生活を送るという点で、村的共同体ほど直接的な摩擦は起こらないでしょう。
しかし、こうした共同体では、教祖や幹部が私腹を肥やそうとする、という問題が必ず発生します。それ以前に、そもそも、信仰をもたない者にとっては、ひじょうに入り込みにくい共同体です。
なので、さまざまな信仰をする共同体が乱立することになり、共同体間における通商と覇権争いが問題となるでしょう。宗教というものは本質的に、排他的なものですから。
居座ることないの
こうした問題点に共通するのは、「定住」です。
不平があるなら移動する。民が常に流動的であること。流浪する民を受け入れるさまざまなタイプのコミュニテーが乱立すること。ポリス。連邦制。帝国。緩い緩い支配?
移動する民こそが、世界を変えるものと考えます。ただ、どのように組織するのかは、全然、わかりません。いやなら、とどまらなければいいいよ。いじめ問題でも、社会問題でも。って感じですね、いまのところ。
さいごに
国家間をがんじがらめにしている重要なピースであるところの、通商問題。
トランプさんがこのしがらみをぐらぐらと揺さぶろうとしています。
アメリカのみのためのゴリ押しになるのでしょうが、それでもどんな世界が現われるのか、楽しみでもありますね。