望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

あなたのためにならば。あなたの物語のためにでさえなければ。

君が君を君の君に君は君で君と
僕は僕に僕を僕の僕が僕で僕と
幸せになれるよ
愛の物語さえ、なけりゃ
イッセー尾形 大好きマイルームより(1)
(うろ覚えだけどね)

 事後的に見出された関係性

博士の愛した数式(2)』をBSでやってて、松岡クンが、思い出語りの形式で、寺尾聡扮する博士のエピソードを語ってたんだ黒板の前で。その瞬間に「アッ 小林製薬」って思って消した。

 事故かなにかで、新しい記憶が80分しか持続しない数学者と、そこに家政婦として派遣された未亡人とその10歳の息子との心温まる感動エピソードであるらしい(10分も見てないのでwikiで補完)

 本当に? 原作もそうなのか? 
 wikiによれば、ほぼ原作に忠実であるらしい。じゃ、読まなくてもいいや。

「筋のない小説」支持者としては、アニエス.b監督のドキュメンタリーが好きだし、浅井慎平の『キッドナップブルース』は良かった。先日の、復刊.comのメルマガを読んだら、アンドレ・ジィド『贋金づくり』岩波文庫が復刊の運びとかや。その紹介文に愚息も興奮!!

ジイド(1869-1951)が贋金使用事件と少年のピストル自殺という二つの新聞記事に着想を得て、実験的手法で描いた作品。

 「実験的」というのがいい。ATG(3)のモットーも「神は初めに『実験的であれ』と言った。そこに前衛が生じた」だと勝手にシンドバット。新聞の適当な三面記事を選んで小説を仕立てるというのは、非常に小説鍛錬っぽい(4)。だからすぐ、絶版前の岩波版を求めて図書館へ。でも無かった。田舎の図書館め呪われろ(5)。

 なので、『河出世界文学全集16 ジィド 狭き門/贋金づかい/アンドレ・ワルテルの手記/他』ってのを借り出して読んでみると、あっれ? ちゃんとプロッちゃってるし。当時としては画期的? といっても、小説はその出自で既に『トリストラム、シャンディ(6)」を持っているわけだし…… 愚息もしょんぼり(吐息)

 むしろ、『アンドレ・ワルテルの手記』これはほとんど彼の処女作で、

 「事件一つない、つねに内面の生活――でもじつには表にあらわれない、こういう生活をどのように書いたらいいだろうか?」

 と途方に暮れているあたり。19歳で計画し21歳に完成したこの作品当時、彼は山ほどある言いたいことの速度に言葉が追いつかず、散文を書くための十分な客観性も確保できないまま、日記という形式でしか書けなかったのだと、解説の若林真氏は書いている。うんうん。日記はいいね。小説の入れ物としてはなかなかのものではないかしら。だが、我々は、そこより数段の高みにおわす、漱石の「門」を持っている。これも小説の極みだ。

 筋の無い小説を成立させるためのいくつかの方法。

 我々が読みうる最良の小説の一つ『挟み撃ち』のすばらしさは、この小説が、「交代級数(7)」である点にある。∞の空(ここでは過去)を見てきた男が結局0の丘に立ち尽くしているところが(8)。また、『不思議な国のアリス』における、膨大な脱線によるプロットの妨害。『白鯨』における過剰なまでの百科全書的記述。『ガリヴァー旅行記』は、旅行記への擬態が巧すぎちゃって、つまんない。『枯木灘』における、build and scrapの豪腕。『フィネガンズ・ウェイク』という極北。ただこれはちょっともう、アートだね『台湾誌』や、『ボイニッチ写本』みたいな域? さらにまた、そもそも物語自体をもたない、『檸檬』『歯車』『晩年』など。こちらは、個人の資質によるところ大で、早死にするくらいの才能がないと書けないものね。『風の歌を聴け』なんかも好きだったな。そうそう。『存在の耐えられない軽さ』もね。主題と筋立てははっきりしているけど、cut-up技法によってさらに別のことを論じてしまうすばらしい技術。切り取り入れ替え貼り付ける。小説ってポストモダンなのね。

 物語の支配から逃れたいのはなぜ?それは物語が「たかが物語」だから。「物語=我」だから。「物語=記憶=共同体=我=物語」だから。このエターナルリングは、つらいぞ、苦しいぞ。解脱にいたる筏は、しかし、あるぞよ。

 それこそは、癌であり、自己矛盾であり、革命者であり、布施であるところの、小説なのです。(May.JでKieする5秒前(9))

「偶然という必然の一回性に全存在賭けて蒸発を図れ」

 小説とは、つまり、小説創作ノートではあるまいか。『贋金づかい』とはまさにそのノートを擬態していたはずだった(10)が、あまりに行き届きすぎ、書き込みすぎた。ジィドは読者を信じていない。いや、誤配(11)を怖れすぎていた。

 小説創作ノート。だが何の? それらは瓢箪に吸い込まれないように(12)名前を無視する(13)断片の集積でなければならないが、それでいて、そこには、ひとまとめにされたなんらかの理由が求められる。語らず、語らせず、ただ愚直に左から小さく、常に身体を振って的を絞らせないように踏み込んでいき、その懐に飛び込むことこそが小説なのではないのか(基本、基本)(14) スクラップブック、切抜き帳。ピーター・ビアード(15)は、少々こけおどしだが、私のTraveler's Notebookも、もっと無法に広がる可能性を秘めている。お。「アナとデジの両方 波のまにまに」につながってきたよ。

 「アナかデジか」ときかれたら、書籍はむしろデジなのだ。原稿だって最近はデータ入稿でしょうし。原稿用紙に万年筆(16)。推敲の痕をせっせと収集する研究家泣かせのデジタル化。01データのモナドの濃度であらゆる「モノ」を「情報」へと変化しつくせるのか青二才(17)。そこにはアトム(18)はいやしない。どこから見ても2本のあの角は、3Dデータとしては破綻していただろう? でも、あれはちゃんと存在していたんだよ(19)。

小説への道程

 博士が身体中に貼り付けていた、大事なこと付箋(20)を、ありのままで(21)、まずは時系列に羅列すること。いや、そのままノートに貼り付けること。そこから小説が始まるんじゃなかったかと思う。一般の型で型抜きされて縁のへげへげを切り捨てられて、生地が足りないからと出来合いで埋めてしまおうとするのは、小説の物語化だ。生地の過不足なんか型抜きの型がなけりゃ、関係なかったのに。小説に型はない、小説が型を作る(22)。

歌丸です

 この話を演劇にするのなら、全てのキャストは出てくるたびに別の俳優が別の名前で、さもくり返しであるかのように、全く別のことを演じるべきだ。そういう舞台を、一度でいいから見てみたい。女房がへそくり隠すとこ。(23)

※ このブログは、小説について書き散らしたものであって、記憶の障害について軽率に論じるつもりはまったくありません。もし、不快に思われた方がいらっしゃったら、お詫びいたします。

 

  1. ベストコレクション’99 世紀末ハルマゲドンスペシャル/イッセー尾形 【TSUTAYAオンラインショッピング】
  2. 映画「博士の愛した数式」公式サイト
  3. 日本アート・シアター・ギルド - Wikipedia
  4. 三題噺は、客から素材を三つ提供してもらい、即興で結びつけて噺をこしらえる噺家の技術であるが、その結びつけの「つなぎ」に、物語が入ってくるのが興ざめだ。「シュール」や「不条理」を礼讃するわけではないが、安易につなぐことは、素材を殺すことだ。

  5.  インターネット呪術マニュアル

  6. 夏目漱石『トリストラム、シヤンデー』
  7.  交項級数 - Wikipedia
  8. 0の丘∞の空遊佐未森)この歌については、また取り上げます
  9. 広末涼子のマジで恋する5秒前が16年前な件
  10. 文末に、同書 第二部第三章より長めの抜粋をしておく。それは理想の小説にいたる処方である。しかし理想とは到達しえない地点に奉るものではなかったか…
  11.  Amazon.co.jp: 存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて: 東 浩紀: 本
  12. 金角・銀角 - Wikipedia

  13. 波状言論>情報自由論>第10回

  14. 「はじめの一歩」100巻記念公式サイト
  15. Amazon.co.jp: Diary: ピーター ビアード, Peter Beard: 本
  16. ステッドラー日本 - 【掲載情報: 趣味の文具箱 Vol.32 】... | Facebook
  17. Amazon.co.jp: トランス=アトランティック (文学の冒険シリーズ): ヴィトルド ゴンブローヴィッチ, Witold Gombrowicz, 西 成彦: 本

  18. Two Types of Ancient Atomism

  19. 鉄腕アトムのアタマの角の位置は... - Yahoo!知恵袋

  20. 付箋を使用する
  21. 『アナと雪の女王』松たか子が歌う本編クリップ映像 - YouTube

  22. 高村光太郎 - Wikiquote

  23. 笑点 自己紹介 桂歌丸師匠 コージー冨田による

 忘備録としての抜粋

 『贋金つかい』第二部第三章より、エドゥワールが、自身の純粋小説『贋金つかい』について語る部分を、抜粋する。

 「あらゆる文芸様式の中で」と、エドゥワールは述べ立てていた。「小説は、それが一番自由なものであり、いちばんlawless(放恣)なものであるというため……そのために、つまりその自由自身を恐れる気持ちから(というのは、何よりも自由に憧れる芸術家というものは、いったんそれを手に入れてしまうと、しばしば気狂いじみた気持ちになるものだから)小説は、いつもあれほど戦々競々と現実にばかりしがみついていたというのでしょうか?(中略)小説は、未だかつて、あのニーチェがいったような《怖ろしい輪郭の腐蝕》、それにまたギリシャの劇作家たちの作品、あるいは十七世紀のフランスの悲劇などにスタイルをあたえたところの、人生からの意識的な逸脱といったようなものを知りませんでした。実際、ああした作品以上に、より完全な、より深く人間的な作品というものをご存じですか?(攻略)

  その後

「(前略)なるほど、心理学の真理は、すべて特殊なものです。ところが、芸術にあっては、一般的なものしかあり得ません。そこにすべての問題があります。すなわち、特殊によって一般を表現すること。特殊によって一般を表現させること。(後略) 

 ここは、一般と特殊ではなく、個別と普遍としてとらえるべきではないかと思われる。さらに続いて、

「で……その小説の主題というのは?」
「ありません」(中略)
「たぶん、これがそのもっとも驚くべき点だといえましょう。わたしの小説には主題がないのです(中略)では、こう申しましょうか、一つの主題というものを持たない小説だとでも……自然派の連中は 《人生の断片》なんていっていました。あの派の大きな欠点は、その一片をいつも同じ方向、すなわち、時の方向において、たてに切っている点にあります。それをなぜ、幅で、深さで切ってみようとしないのです? ところがわたしはぜんぜん切ろうとしないのです。わかってください。わたしはその小説の中にすべてを入れようと思っています。その内容を、ある一点に制限するため鋏を入れたりはしないのです。すでに書き出してから一年以上になりますが、自分に起こったことをすべてその中にいれています。何から何まで入れてみようと思っています。自分の見るもの、自分の知っているもの、他人の生活、また自分自身の生活によって教えられるありとあらゆるものを……」

 さら続ける

「こうした種類の作品には、本質的にプランなんていうものの認められないことをわかってくださらなければいけません。前もって何かをきめておいたら、すべてが嘘になるでしょう。わたしは、現実が書き取らせてくれるのを待つのです」
(中略)

「(前略)事実、つまりはこれが主題でしょう。現実によって提出された事実と観念的事実とのあいだの闘争」
 そうした彼の言葉に、筋の通っていないことは明らかで、それは、聞く人の耳に痛ましくもはっきりわかるのだった。エドゥワールは、両立し得ない二つの欲求を持っていた。そしてそれを調和させようとして明らかに苦しんでいるのだった。
「で、だいぶお進みになりまして?」と、ソフロニスカがていねいにたずねた。
「それはおたずねの意味によって返事がちがいます。じつをいうと、作品自体については、わたしはまだ一行も書いていないのです。だが、そのためには、すでにずいぶんやっております。毎日、そして絶えず、その作品のことを考えています。非常に奇妙な仕事ぶりで。それをお話しましょうか。わたしは、一冊のノートに、わたしの心の中でのその小説の進み方を、毎日毎日書きつけています。さよう、ちょうと育児日記といったような、ああした一種の日記ですな……すなわち、一つ一つの問題を、起こるにしたがって、解決することに満足しないで(すべての芸術作品は、つぎつぎに起こってくるたくさんなこまごましい問題の解決の総和、ないしその所産にしかすぎません)その問題を一つ一つそこに提示し、それを研究してみるんですな。つまり、そのノートには、いわばわたし自身の小説についての評、もっと正確にいえば、小説一般についての連続的な批評が書かれているのです。(後略) 

おそらく、彼は、一つ一つの問題を研究する際に、問題に影響を与えてしまったのである。まさに、不確定性原理だ。かくして、放散するはずだった各項を不用意な総和法によって、プロットへ従属すべく割り当ててしまったのだ。 以上