望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

オムライス ――あるAV作品のAV部分以外の魅力について

はじめに

今回のブログは、アダルトビデオ作品への言及を含みます。該当作品へのリンク、及び露骨な性的描写などは行いませんが、こういった内容を快く思わない方は閲覧をご遠慮ください。

わけのわからない魅力

『若かりし頃の母親に似てきた娘との性交』というAV作品の話だ。主演は 立花恭子さんで、2014年02月20日発売の130分という短くはない映像作品である。監督はバンビーノ☆プリンさん。他の作品は見ていないので、これが通常の作風なのか特異なものなのかは不明だが、この作品は深く印象にのこった。

 こうした印象の残りかたをした作品としては、以前にこんな記事を書いたことがある。

 

mochizuki.hatenablog.jp

 両者が似ているというわけではない。なぜ傑作なのかがつかめない、という点だけが同じなのである。

 ポルノ映画

「お母さんは一日に四度も五度もオムライスを作ったわ。それはとても不味かったけれど、わたしは全部食べたの。だって食べないとお母さんが悲しむから」

「それでお前は俺に、肉じゃがばかりを食べさせるのか」

セリフのままではないが、作品中にこのような会話が交わされた瞬間、これはポルノ映画風AVではなく、ピンク映画の眷属なのだ、という気がした。

kenelephant.co.jp

「制作費は750万円、上映時間は70分以内、7〜8日で撮影」「濡れ場を10分に一度は入れる」といった条件さえクリアしていれば、あとは監督の裁量に任せるという制作態勢があったため、ポルノという枠組みを超えた多種多様な作品が生まれ、中にはかなり実験的な作品も撮られている。(上記HPより抜粋)

ぎこちなさ

 登場人物は少ない。視点者である「父」と「娘」とその恋人。そして、回想シーンに、現在は亡くなっている「父と結婚する前の妻」と「その妻の父」そして「妻と結婚する前の父」である。

 現実と回想とで登場人物の関係性は「対」を成し両者が混濁する。

 

「恋人」 →「娘」         = 「亡くなった妻」   ←   「父」

 ||      ||              ||                                 ||

「父」  →「父と結婚する前の妻」=「妻の父の妻(?)」←「妻の父」 

 

反復性というテーマは王道だ。娘が死んだ母に似てくること。その娘に恋人ができること。そして家を出ていこうとすること。それもまた父と娘の物語では王道の展開である。

そんな娘を前に父は「頭の中の小さな虫が騒ぐ」という感覚をもつ。連日眠れない夜を過ごし、毎日娘が作る肉じゃがの味を尋ねられ、不味い肉じゃがを「うまいよ」と言い続ける。それが自分に課された役割だと思いながら。そして、娘の恋人が家に来るたびに部屋に閉じこもり、そんな父の様子をうかがいに来た娘を「どこへもやらない」と言って犯し続けながら、「これも娘が望んだ俺の役割なのか?」と思う。

父親役の俳優の、朴訥とした、横柄さと臆病さと猜疑心とをないまぜにした三白眼の表情はひじょうに魅力的だ。芝居は下手だと思う。娘とのせりふの間合いもテンポもよくはない。だがそこに異常なまでの緊迫感があり、奇妙なドキュメンタリー性のようなものを帯びさせている。

父がこの作品のなかで唯一、一瞬だけ虚を突かれ狼狽するかのごとき声を上げるシーンがある。それまで、感情のこもらないセリフ口調一辺倒だった最後の最後に挙げる、リアルなこの声こそが、この映画の閉そく感を破った刹那だったと感じる。その声は、「小さな虫」の正体に気づいてしまった絶望の叫びであった。そして泣きじゃくった後で、父が自死を選ぶのは、反復に対する絶望だったのだと思う。自分が誰か(この作品では妻の父)に、のっとられていたのだという気付き。そして娘をそれに巻き込んでしまったという恐ろしさ。かつて、妻と駆け落ちしたのは自分ではなく自分に巣食った妻の父であり、その娘もまた、恋人と駆け落ちしてしまった。ならば、その娘もまた、娘の恋人に犯される人生を歩むことになる。

この父の自死に反復を終わらせる力はない。

娘=妻 の心もとなさ

 父は「娘が何を考えているのか分からない」とのモノローグを繰り返していた。実際、演技という観点からも、彼女はひじょうに感情を抑えた、淡々とした演技とせりふ回しに徹していた。彼女は淡々と日々を過ごし、来る日も来る日も父に肉じゃがを作る。まるで自動人形のようだ。だがそれはこの作品にふさわしい演出だった。

 父に「あいつと結婚するつもりなのか」と問われた時「彼が望むならば」と答え、彼が「駆け落ちしよう」というと「母と同じになっちゃうから」言葉を濁しながらも最後には「この家を出ます」と宣言する。

 母は父と駆け落ちしてから精神を病んだと告白をするシーンが、彼女の印象的な語りのある箇所である。ここで、母が精神薬を飲んでいて、人はあんなに小さな薬一つで全然、心が変わってしまうのだといい、母が亡くなった後で、自分はその薬を飲んでみたのだが、そのときわたしのなかにお母さんが入ってきた、と言った。それから恋人にむかって「わたしをあなたのおうちの大きな水槽で飼ってくれませんか」と言うのだが、この告白の全体の温度が、ひじょうに低く、淡々としたものであることに非常に魅力を覚えるのである。

 恋人は彼女の話を理解できず「何を言っているんですか?」と幽霊でも見ているようなトーンで尋ねる事しかできない。彼女はそれに「父の様子を見てきます」と部屋を出ていき、父に犯される。

 彼女は父に犯されているときも、恋人とキスをしているときも、両手を硬く握り、手の甲の方へ思い切り反らせていた。彼女は決して拒否しない。だが、その手がなにかを禁じているサインのようにも思われる。拒否はしないが積極的に受け入れもしない。どこまでも受動的な立場を貫く彼女の心は、父を愛する母と恋人を愛する娘(自分)の両方の欲望が、まるで等距離にある二つの飼い葉おけのどちらかを選ぶことができないまま餓死してしまうロバのような状態に置かれていたのだ、と構図にしてしまうのも単純すぎてつまらないのであるが。

ノローグとディスコミュニケーション

 この作品は、徹底的にディスコミュニケーションを描いている。会話はかみ合わず、思惑はすれ違い、自分自身の心も自分で捉えることができない。父は娘を理解できず、娘は全ての理解を諦めていて、恋人は恋人の父に対しても恋人本人に対しても、理解の手掛かりすら与えてもらえない。

 父も娘も、死んだ父と死んだ母に乗りうつられており、今の父と娘とをつないでいたのものが、「母のオムライス」の記憶だけであったとは、なんと痺れる文学性ではないか。

おわりに

無論、この作品はAV作品である。130分のほとんどは濡れ場で占められている。

わたしはもはやこの作品をAVとして見ることはできないが、この作品に魅かれる理由を見つけたいがために、これからも見返してくのではないかと思うのである。

誤解をおそれずに言えば、この魅力というのは例えば「アイコ十六才」という映画に感じた魅力に近いのではないかという予感がある。

以上