望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

川本真琴|川本真琴 ―身体感覚の絶対性と弟への恋情

はじめに

初めて『1/2』のPVをワイドショーで見て 

www.youtube.com

すぐに買いに走った。

川本真琴 1997・6・25 デビューアルバム「川本真琴」 www.sonymusic.co.jp

天才だ。と思った。

そしてこの人は早世なさってしまうのではないかと危ぶんだ。今、手元に留めて置かねばならないという切迫感をもって、CD、PV集(VHS)、写真集を購入した。

そして、二枚目以降のアルバムを買わないまま、時が過ぎた。

だがこのファーストアルバムは、今もなお当時のまま輝いていて、聞き返すたびに「天才だ」と思う。

今回、あらためて書き記しておこうと思ったのは、私が短歌に触れるようになって改めて、その歌詞を読み返してみたことによる。

歌唱そのものをブログに記すだけの力量はないので、もっぱら歌詞について記すのみとなるが、このアルバムのすばらしさは、詩と旋律とリズムの分かちがたい一体感にあることは間違いなく、俳句でいうところの、「全ての要素が動かない」状態を実現していると感じる。これこそが「詩」の「応身」だと思う。

総論

これから一曲ずつ歌詞を引用していくのだが、その抽出の際しては、このブログを書く前日に聞き返した時にふと掠めた解釈によっていることをお断りしておく。

例によって、完全に私の独断による妄想解釈であり、観点は次の二点だ。

① 身体性の優位

② 弟への恋情

川本真琴さんにご兄弟がいらっしゃるかどうかは知らないし、調べてもいない。

提示されて作品を、どのように読むことができるかにだけ興味がある、といういつもの姿勢である。

各論

10分前

地下鉄の階段いっことばし
五感が全部ひらかれていく
こんな身体 脱ぎ捨てて
あたしが新しくなる
ジェットコースター
ベルトしないで
死んじゃうかもしんないあの感覚で
10分後には
キスしてるかもしんない
今生まれた 今生まれたの

このアルバムには繰り返し出てくる事物があり、それはCDに添付の歌詞カードでも意識的に表現されている。そのことからこのアルバム全体を「連作」と読むことは、作者の意図に叶っていると考えられる。単に、時系列に、そのとき完成させていた作品を集めただけではないという意味で、ほとんどのアルバムは「連作」を意識しているだろうが、このデビューアルバムでは、それがより色濃く表れていると思う。

「10分前」とは、キスを済ませているかもしれない10分後の「10分前」なのだと今さらのように気付く。そして、「今生まれた 今生まれたの」という「今」はその「10分前」なのだ。

「10分後にキスしているかもしれない」という「予感・期待」の生じた「今」「生まれた」と実感する。さらにこの「生まれた」は「五感が全部開かれ」て「(これまでの)こんな身体脱ぎ捨てて」「あたしが新しくなる」という「ジェットコースター ベルトしないで 死んじゃうかもしんないあの感覚」をもたらしたのだ。

「かわる」というキーワードは、「脱皮」「死と再生」のイメージを重ねて、ひじょうに薄く透明なものが破片を撒き散らし、その破片に周囲と自らとを傷つけながら実現するというイメージを受ける。そのありようは、作者自身のありかたに重なる。

この曲はひたすら躍動的だ。生まれ落ちたという歓喜に溢れていて、迷いや、悩みはまだない。

愛の才能

「成長しない」って約束じゃん

あなたはあたしを
あたしはあなたを 体で悟りたい
友達じゃなくて 恋人じゃなくて
抱きしめたいの
ほら 今 鼓動が近づくの
このままちょっとだけkiss!
届かない これって最高の1cm

愛の才能ないの 今も勉強中よ
「SOUL」

 昨日聞いていて、「おや」と思ったのは「友達じゃなくて 恋人じゃなくて」の部分。二人は付き合っているわけではなくて、彼には彼女がいたりして。

「愛の才能」の「愛」は、「SOUL」に関わるプラトニックな「愛」のことで、そういう「愛」に対する才能が「ないの」というのはつまり、「性愛」的なもの、身体のつながりを求めている、ということなのだろう。道ならぬ恋、という自覚は、「届かない これって最高の1㎝」という、肯定的な歌詞から読み取れるが、「安堵」というよりも、この物理的な距離によって辛うじて「愛(プラトニック)」が自分にも実現できているという捉え方ができるのかと思う。

抱きしめあえれば、そこには互いの属性など無関係な連帯があると感じることができるだろう。そう願うだけで実現しないい抱擁への憧れが「愛」を担保している。

ところで、「友達じゃなくて 恋人じゃない」という属性から、わたしは「異母兄弟」の可能性を感じ始めていた。

STONE

D.N.A

あたしたち あってないの?
身体なら1ッコでいいのに
AH! 抱き合ったら
こんがらがっちゃうよね
脳でなんかわかんないよ

「考えるな。感じろ」は、ここにも息づいている。考えるとは、客観的になることであり、それは身体をカッコに括ることになるからである。そしてそのような機能を脳が副次的に備えてしまったことから、人類の苦悩は始まっている。

『あたしたち あってないの?」は脳による違和感であり、それは一つであるべきはずの身体が分たれていることからくるものだ。プラトンの人類球体説の一般的な解釈から、相手はこの疑問に次のように回答する。

「僕と君は他人同士他人同士だから
こそ一緒にいられるはずさ」
あなたの言語ってかなりヘンよ

身体が分かたれているからこそ抱き合えるのだ。他人同士だからこそ一緒にいられるはずだ。と。

だが、これも所詮、脳がこしらえた理屈であり、彼女はそのような理屈を可能にする「言語」そのものを疑い、そのような「脳」で考える相手にも不安を感じるのだが、やはり「愛してる」という実感は消えず、それが不安を招き始める。

だってなんか愛してる
だんだんなんだか愛してる
だからなんでも愛してる
だいっキライなのに愛してる…
ひとりぼっちを交わして
あたしをひらいて Hey
あなたの中のD.N.A
ぐるぐる まわってる まわってる
まわってる やっぱりあなたが好き
何でこんな息してるだけで
ギュッてされてるみたいに好き
迷ってる 迷ってる
迷ってる 目眩の裸(からだ)が痛い
ほどけない重なる指
何度も確かめてみた
口笛を…聴かせて
他人だよね?

「10分前」に開かれていた「五感」はいつしか閉ざされ、新しい体に痛みを感じる。生まれるとき、肺呼吸を始める瞬間の苦しさと痛みを、私は記憶していない。再びそれを感じる時は、窒息寸前の切迫した状況下なのである。「ジェットコースターをベルトしないで死んじゃうかもしないあの感覚」が「再生」に繋がっていたとすれば、「息してるだけでギュっとされてるみたいに好き」という感情は「窒息の苦しさ」をもたらす。溺れる者は藁をも掴む、というように相手にしがみつく。

口笛を吹くしぐさは、キスの仕草に似ている。二人はまだ一線を越えていない。

「他人だよね」という問いかけは、だからこそずっと一緒にいられるよね、という問いを含むのだろうと思うが、それではタイトルD.N.Aが浮いてしまうと感じた。「あなたの中のD.N.A」が「ぐるぐるまわる」から、性交を類推できなくもないが、それほどの生生しさはまだ感じない。手をとりあって抱き合ったときの鼓動から、血流の繋がりを感じ取ったとすれば、こじつけられなくもないが、ここで、再び「血の繋がり。家族説」が頭をもたげてきた。たとえば、兄妹のような関係でありながら恋愛感情を抱いたのだとすれば、「他人」を強調する兄の言葉も「D.N.A」というタイトルも重要性を増す気がするからだ。

EDGE

後に、「境界線みたいな身体が邪魔だね」と歌うことになる、この「境界線」という意味が「EDGE」にはある。それは越えられない「倫理」の境界線であり、二人の関係が許される世界の果てとを阻む「境界線」でもあるのだろうか。

 

何としても 今日も答え
見つけずに済まそう

冗談みたい 本気みたい
この距離が好き
あたしたちって 名前くらいしか
お互いを知らない

逃げてるんでも 追っかけんでも
どっちでもない
ステキなスピードが 次のページを
めくってくれるだけ

世界の果ては何も壊れないの
できるだけもっと
遠くまで 遠くまで

二人の関係性は明示されないが、そのままでは結ばれないということは分かる。そういう状況への対応と展開だけで、いわば消極的に二人の時間が過ぎていく。その背徳感と、緊張からくる切迫感を、疾走感(ドライブ)と錯覚してしまう、無理やりな陶酔。答えが出てしまえば、それで何もかもが決まってしまう。何も決まっていないことが可能性なのだとしたら、答えなどまだいらない。そんな状況を感じた。

タイムマシーン

ここで、過去に戻りたいという曲がくるのである。やりなおしたいという思い。二人は別れてはいないが、彼女はベランダで茫然としている。

十代のすみっこ君といっしょに、ずっと引っかかってたいと思ってた
あの時、あの曲がり角 二人戻れたならいいね
だから、タイムマシーンがいつかできたら、もう1ッコのふたりに会いたい
あなたとあたしはいったい 何処に向かう途中だったんだろう

そばにいたいよ  君の彼女で 明日変わるね あたし変わるよ
だから さよならきっとできる、でもベランダではかないあたしはいったい?
眠れないのは ほっとくだけ ほっとくだけ

おそらく、「答え」をつきつけられて、少し時間が経ってからのことを歌っている。あれは思春期の迷いだと、もう決着をつけてしまったらしい「弟」が独り暮らしをする(もしくは、一人暮らしを始めた彼女の)部屋に、普通に「姉」(「弟」)として遊びに来た。

 彼女の方は、まだ全然ふっきれていない。姉弟ならば、夜も同じ部屋で眠るだろう。もう、いつまでも追いかけてはいけないと思いながら、彼女はベランダで眠れぬ夜を過ごしている。

やきそばパン

彼女が「弟」に依存していった理由。といったら穿ちすぎだろうか。

パパとママのケンカの声が聞こえてくる Dear Dad Dear Mam
テレビのボリューム上げて聞こえないようにする Dear God

神様に誓ったって うまくやれなくなるかもしんない
わかってるつもりだよキチンと 他人だったんだもんね そうがない
ホテルみたいなあたしんち 早くチェックアウトして生きたい
何で月はただ見ているの 心配しなくていいよ

 

ひとりぼっちで屋上 やきそばパンを食べたい
ひとりぼっちでやれそう やきそばパンを食べたい

 前曲の彼女が、弟と過ごす部屋のベランダから照らしていた月が、この月と重なる。違っているのは、「ひとりぼっちで」やれるかどうか、不安だということだ。

LOVE&LUNA

この「月」と、彼女は対話をしていた。

あたしたちはも 淋しくもなんない オソロイもニセモンもやめた
だんだん…愛のないこと言って 感じあっても いいんじゃない

あきらかに「嘘」だ。でも、自分でそう信じ込んでいかなければ、前に進めないのだろう。「愛の才能ないの」と自暴自棄になっている様子が読み取れるのだが。

ひまわり

想い出と今との間の境界線がぐずぐずになって、叶えることなどできない、守れない約束だということも分からぬままにした数限りない指切りの指の感覚に縋りつく。ひまわりは俯いていた。太陽の光という正しさが、くすぐったい=邪魔。嫌。放っといて欲しい。と感じる。

手を繋いで お互い帰り道 ちがう「いつも」探してた
きっと急いで来たから なにか忘れてたの
何度も何度も指切りしたまま

手をつないで 次に何するの? 未来はいつも難しい
どうして走り続けたら なにか忘れてくの
何度も何度も指切りしたまま

1/2

ラストナンバーだ。

境界線みたいな身体が邪魔だね どっかいっちゃいそうなのさ
黙ってるとちぎれそうだから こんな気持ち
半径3メートル以内の世界で もっともっとひっついていたいのさ

始めて感じた君の体温 誰よりも強くなりたい
あったかいリズム 2コの心臓がくっついてく
唇と唇 瞳と瞳手と手
神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる

いつも一緒に遠回りしてた帰り道
橙がこぼれるような空に 何だかhappy and sad
あたしたちってどうして生まれてきたの 半分だよね 

 

神が禁じなかった愛は「隣人への愛」と「神への愛」の二つだろう。仏教では「隣人への愛」も禁じており、ただ「慈愛」のみを業から外しているが、これは乱暴にいえば「隣人愛」「プラトニックラブ」ともとれなくもない。とこれは蛇足だった。

全ての苦悶の始まりである「分割された身体」と、それを解決する「プラトニックな愛」。まだ到底、その境地には到達できない。

「届かない これって最高の一㎝」から「半径3m以内」への後退。これは彼女が倫理を守るために必要な距離だとすれば、その想いはかつてよりも強まっているということなのだ。この3mという緩衝地帯という境界線が、彼女が自身に禁じた「弟への恋情」に対する答えだったのだろうか。

おわりに

というような感想を抱いた、ということを記しておきたいと思った。

川本真琴さんの詞の素晴らしさを、書き写していて改めて感じた。比喩や言葉の選び方、口語の用い方など、短歌に取り入れていきたい。