望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

ノリ・メ・タンゲレ ―ドーナツの穴に触れるとは

はじめに

肉体に関わる際、避けて取れないテクストは、『聖書』のイエス=キリストの受難と復活とその後日譚で、特に、ヨハネによる福音書に詳しい。

というより、「ノリ・メ・タンゲレ」は、ヨハネによる福音書にしか記載されていない。

マタイ・マルコ・ルカの各福音書のエピソードはほぼ同じ、ということは、ヨハネ伝のみに、マグダラのマリヤは墓でイエス=キリストを見たと記されていることになる。

 同様にその後日譚として、トマスという弟子がイエスの復活を「わたしは、その手に釘のあとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。と言った話もヨハネ伝のみであり、従って、その後トマスがイエスに「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。と言われたのも同様だ。

私はこの「見ないで信ずる者は、さいわいである」に、キリスト教の「信じる」が集約されていると考えており、この言葉はよく引用していた。とくに、「視覚」に重きをおいていた当時は。

現在の私は聴覚や身体そのものに重きを置いている。したがってこの「ノリ・メ・タンゲレ(わたしにさわってはいけない)」や、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい(……)」が俄然、重要な場面となってくるのであった。

『私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ ジャン=リュック・ナンシー

www.miraisha.co.

本書の主題は「復活した肉体」である。

私は「即身仏」の勉強をする必要があり、空海から親鸞を概観していて、「復活」のモチーフは関連がある。

「復活」は「輪廻」とは異なり、死以前の個がその同じ肉体において再起動する。

「さわってみなさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」(ルカによる福音書24:39)」

そして、復活の後は昇天して永遠の存在となる。

「祝福しておられるうちに、彼らを離れて,〔天に上げられた。〕」(同前24:51)

十字架にかけられたままの身体で復活するのでなければ、人々はそれを信じなかっただろう。ダライ=ラマのような転生では、おそらく。

復活したイエス=キリストはなぜ、「ノリ・メ・タンゲレ」と言って、マグダラのマリヤの気持ちを拒絶したのか?

「イエスは他のどんなときにも、人が自分に触れることを禁じなかったし、拒まなかった。ここでは、復活の日の朝、そして彼の最初の出現のとき、彼はマグダラのマリアの身振りを制した、あるいは未然に防いだ。触れられてはならないもの、それは復活した身体である。その身体が触れられてはならないということも、よく理解できるだろう。復活した身体が触れられるはずがないのだから。つまり、それは触れられるべきものではない。しかしながら、それは空気のようなまたは非物質的な、幽霊のようなまたは幻燈のような身体のことを意味するのではない。」(『私に触れるな』p.26)

そして作者は、ギリシア語原文の「触れる」には「引き留める」の意味があり、これから出発しようとするキリストは引き留められることを欲しなかった、と言う。(p.27)

本書は、このシーンを描いた西洋絵画を読み解くという性質をもち、イメージと比喩を駆使して論を展開する。したがってここに引用したのは、その解読のごく一部分にすぎない。

脱皮したての蝉

「この(イエスがマグダラのマリヤに姿を現し、マリヤが弟子にそれを告げた)後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスは違った姿でご自身をあらわされた」(マルコによる福音書16:12)

「一緒に食卓につかれたとき(…)彼らの眼が開けて、それがイエスであることが分かった。すると、み姿が見えなくなった。(同前24:31) 

 

 「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた。わたしの手や足を見なさい。まさししくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見る通り、わたしにはあるのだ」(同前24:36-39) 

この一連の流れをみて、復活から弟子の前にはっきりと姿を現すまでは、その肉体の象が不安定であるような感覚を受ける。イエス=キリストを愛してやまないマグダラノマリヤでさえ、墓で背後に立ったイエスを園庭と勘違いして「マリヤ」と名よ呼ばれるまで、イエスと気づかなかった。

その際、イエスの肉体は完全な肉体ではなかったのではないかと私には思われる。羽化した蝉に不用意に触れるとその形が歪んでしまうように、復活したてのイエスの肉体はまだ、完全に現前していなかったのではないだろうか。その状態で、マグダラのマリヤの感情的な愛撫を受ければ、肉体を損なってしまうか、もしくは、肉体の復活の不完全さから、不審を与えてしまうのではないのか。だからこそ、見ること、聞く事、のみによってイエスはマリヤに信じさせたのではなかったか。

ノリ・メ・タンゲレを死と復活という縦横の軸の揺らぎとして読み解く視点もいい。だが、わたしはもっと単純に、この言葉を考えたい。

復活のための復活

復活した肉体は、ほどなく昇天する。つまり、復活した肉体は本当に仮に庵でしかなかったように思われもする。イエスがこの復活した肉体を纏ったまま永遠にこの地球に姿を現し、伝道を続けていたら、世の中はまた違っていただろうし、その後の使徒の運命も随分と変わっていただろう。

 空海即身仏は、それを実践しようとした。この世界が幻であることを証明するために、逆説的に。

「きみは見る、しかし、その〈視〉は触れることではないし、触れることではありえない、もし触れることそれ自体が、ある現前の無媒介性[=呈示の直接性]を形象化するべきだとすれば。きみが見るのは現前していないものだ。きみが触れられるのは、きみの手の届かぬところにある、触れられないものだ。まったく同様に、きみが眼前に見た者はすでに出会いの場所を離れているのだ」。(『わたしに触れるな』p.36)

おわりに

とはいえ、イエスは死者のうちより肉体をもって復活した。それを証するのが肉体の「穴」であったこと。その穴を見せること。その穴に触れさせること。でることがひじょうに面白い。

そういえば、復活を最初に知らしめたのは、墓穴を塞いだ大きな石が転げて現れていた空虚な墓穴そのものであった。

復活は中断した生の再会ではなく、死の中断だと、作者は書いている。重要なのは、それが「死」によってのみ際立つという点である。生きている人間からすれば「死」とは空虚で暗い穴のようなものだ。その穴が復活の証拠であるというところに、希望があるのかもしれない。