はじめに
聖書の話を聴く機会が増えた。
今朝は「ルカによる福音書 第二十四章三十節ー三十一節」いわゆる、「エマオでのこと」の話だった。
少し前に、イエス=キリストの復活について書いたとき、この箇所に触れていただろうか。
まずは、この部分を引用する。
ルカによる福音書 第二十四章三十節ー三十一節
共に食事の席に着きたまふ時、パンを取りて祝し、裂きて與へ給へば、彼らの目開けてイエスなるを認む、而してイエス見えずなり給ふ。
ストーリー
二人の弟子が、十字架にかかって死んだ三日後の今日、墓からイエスの遺体が無くなっていたということについて、論じ合いながらエマオという村にいく途中で、同じ方角へ向かう男が近づいてきて、「それは何の話ですか?」と訊ねてきた。「エルサレムにいたのに、そこで起ったことをしらないのか?」と聞けば、「どんなことがあったのですか?」という。そこで、二人はイエスのことを話して聞かせ、「早朝、女たちが墓に行くと、そこに死体がなく、天使が現れてイエスは復活したと言ったとか。仲間も墓を見たが、たしかにそこに死体はなかったということだ」と説明した。
じつは、この同道した旅人こそが、復活したイエスだったが、二人の目は鈍く閉ざされていたため、そうと気づかなかったのだ。
イエスはそういう二人に、モーセ及びすべての預言者をはじめ、イエス自身について記された凡ての聖書の箇所を示して説いた。やがてエマオの村に入り、イエスがなおも先へ進もうとするところを、二人は引き留めて投宿する。
その食卓で、イエスがパンを裂いて与えると、それを見た二人の目が開けて、ここにいるのがイエスだと認め、その直後にイエスの姿が見えなくなったのである。
エマオの食卓
この話でわたしの興味は、イエスと認めたとたんにイエスの姿が見えをなくなった。という場面のみだ。
今朝の牧師の話で「なるほど」と思ったのは、「二人は見ないで信ずるものになった。見えないものを信じる信仰をもったのだ」という点だ。
わたしはこの話を聞いて「色即是空」と「ブッダの応身」を想起した。
見えるものは見えないものである
この世界の存在は妄執による錯覚である。真なる「一」を直接見ることは不可能だ。そのように見えないものの存在を信じる、ということが宗教なのであり、それを論理の極北といおうか、彼岸といおうか、ともかくそういうレベルで行うものが仏教で、理論を否定し、ひたすらにbeliveを強いるのがキリスト教(一神教)である。
二人が「疑い」をもって論じていたとき、イエスと気づかなかったイエスは、「色」として二人と同じレベルに現れていた。目の前に「真」が現れていても、それを「信じ」ていなければ「真」を「真」と認めることができない、ということがここから読み取れる。このときのイエスは「応身」として現れ、説法を行い、パンを裂いてみせることで、弟子を悟りに誘おうとする、まさに大乗の精神を体現していた。
その結果、二人が悟ったとき、目の前の男がイエスの「応身」だと気付き、その瞬間に「応身」ではなく「法身」だと認識、つまり、見えなくなったのである。
業にあっては業に従へ
仏教においては、「煩悩」があるから「悟り」に至る道筋がつけられる。身体があるからそこから離脱する方法を模索することができる、と説き、それを拡大すると「煩悩即解脱」といったことになる。
同様に、われわれが罪深い存在だったからこそ「赦し救うもの」としてのイエス=キリストが現れたという「悪人正機」の構造は、業の肯定を感じさせる。そして業の肯定といえば「談志の落語」であるが、それはまた別の話で。
おわりに
信じた途端に見えなくなる。この一見逆説めいた展開が、とにかく面白い。
信じるのに実証は不要、という危うさが、キリスト教(などの一神教)にはある。その頑なさは、激しい抗争を引き起こす原因ともなる。
ともあれ、このように聖書の話を聴いても、わたしはそれを仏教的に把握しがちなので、これからも気づいたことは記していきたいと思っている。