望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

盲目の俳句・短歌集 ―視覚障害者が詠む俳句三百句・短歌二百四十首 発行メタ・ブレーン

はじめに

 探していたのだ。目が不自由な方の句集を。

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 俳句はあまりに視覚偏重にすぎないか、というのがその動機だ。

 もしかしたら、言葉(名前)そのものが、視覚的なのかもしれない。声字と書字という観点(という熟語もまた視覚偏重なのだが)から、そう考えたわけではない。ヘレンケラーが「物には名前がある」こと。それを示す言葉というものがあること。意味と意味する物との関係性は、視覚的にとらえるとき自明(この熟語もまた)だが、この自明性こそが視覚偏重による盲点になっているのではないかと考えたからだ。

 目の不自由な方が詠む俳句。

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わたしはそれを鑑賞することで、視覚に頼らない世界認識に触れ、視覚に縛られない俳句を学べるのではないかと考えたのだ。

 というわけで、今回は本書収録の「俳句」を鑑賞する。

鑑賞の気づき

例えば

   緩やかに灯油減りゐて春隣 紋別市 石丸保夫さん

の句を、「目の不自由な方の詠まれた句」であることに留意して鑑賞するとき、石油ストーブが時折たてる「こぽり」というタンクから灯油の流れ込む音が聞こえてきはすまいか。そしてその音は「目が不自由な」という前提がなければ、聞こえてこない音だったのではないか。と思うのである。

 

   青葉風鎖のままの犬走る 岐阜県 服部憲児さん

 の句は、匂いと音が強烈だ、この情景はおそらく写真で捉えることも可能だろう。若葉がひるがえる公園を、飼い主に手を離れて鎖を引きずった犬が走っていく写真。

 だが、青葉風の匂いと肌に触れる温かさ、地面を引きずる鎖の重量と質感。犬の息遣いと臭い。目を閉じてこの句を鑑賞することの、豊かさがうれしい。

 

 視覚偏重であるために、他の感覚への刺激に鈍感になってはいないか? 無理もない。視覚がもたらす情報量は膨大で、その処理に脳は相当のリソースを割いているのだから。

 

  細やかに継ぎある母の秋袷 帯広市 佐伯忠春さん

 迫ってくるのは「手」だ。秋袷の厚み。縫い目の丁寧さ。そしてたくさんの継ぎの当たっている手触り。大事に一針一針を縫っていた母の手と、その手の跡を慈しむ娘の手の重なり。

 視覚は冷たい。それはあまりに間接的であり、距離を保とうとし過ぎる。触れ合いの拒否。バーチャルを導入し、本末転倒的に現実を仮想化していく、悪魔の器官。とは言いすぎだが、視覚は常に自己保身的であり、神の視座をひじょうに不完全に再現した、それだけのものなのである。神は見たものを触れるように感じる。と、どこかで読んだ記憶があるが、われわれの視覚的共感は、その域には達していないだろう。

 

一方で、言葉の体系は「視覚七割」の洗礼を受けている。だから、視覚によらない体験を表現しようとするとき、ある種の捻じれのようなものが生じることがある。

 

   色づきを指に確かめ苺摘む 北海道 宮崎茂さん

 「色づき」とは「熟れ具合」とか「食べごろか否か」という判断基準を、「色づき」という視覚的価値観をもつ言葉で表している。目の不自由な方がこうした言葉をユーモアとして用いた、ということなのだろうが、「観点」や「自明」などと同じ範疇に「色づき」があると考えると、言語と視覚の蜜月について考えずにはいられないのだ。この句は苺との接触とそこにある交感を詠んだものだが、そうした判断を「色づき」の視覚的確認のみで済ませてしまうのは、貧しいのではないかと思うのである。「色づきを指に確かめる」という行為は、視覚から触覚への移行を示す。苺を摘むという行為のエロティックさすら感じさせる句である。

 

   耳に見る如く踊りの妻を追う 札幌市 田代浮雲さん

 は、直截的に「耳に見る如く」とある。「見る」とは視覚に限定された動詞なので、「如く」と比喩にしたのである。だが、舌打ちのエコーで空間を完璧に認識できる少年の話を聞いたことがあるし、そもそも、ソナーやエコーは「耳で見る」道具なのである。「如く」によってあえて「耳で見る」という行為を強調する効果があると思う。また、妻の「姿を」追う。といいたいところだが、「姿」とは視覚で確認したものであろう。耳で見るのは妻の姿ではない。妻の「存在」である。そう考えるとき「姿」とはなんと不確かなものだろうと思う。それは「存在」の可能性でしかないのではないかと。

 

   短日の駅自販機へコイン落つ 豊橋市 彦坂月花さん

 雑踏の駅自販機に一枚のコインの落ちる音響きけり。という状況だろうか。コインが落ちるところを視覚で捉えることはできない。だが、音は聞こえるのである。駅を行き交う人いきれの中、コインの落ちる音というのは、何にも似ていない硬質な、金属的響きであろう。それは、賽銭を投げ入れる時の音に似てはいまいか。駅では人々が願いを込めて金を自販機へ落とすのだ。目的地での成功を祈って。

 

おわりに

 万緑の中に我あり生きて在り 長野県 小林牧風さん

 

俳句は存門である。ならばそれは離れたところから視覚に頼って実現することなどできないはずだ。視覚が不要だ、などというのではない。ただ、視覚があるために怠惰になってはいまいかと自らを戒めることを忘れてはならないと思うのである。