望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

知恵と慈悲〈ブッダ〉 再読中

はじめに

「無我」とは全てが「無常」であるとの認識により導き出される姿勢であり、「無常」とは「縁起」という存在論が示す解答である。

宗教とセミナー(余談)

 わたしは存在論として仏教の法のラインに立つ者であることを自覚している。つまり、仏教を直接的な「救い」をもたらす宗教的なものとして信奉する者ではない、ということである。「宗教」とは、生きにくさに苦しむ者が上位的存在者を信じることで救われようとする非対称的活動である。その上位的存在にリアリティーをもたらすためにあるのが神話的存在論で、天地創造神話から始めるものや、天地創造は既製品で済ませ、その系列や血統を主張するものなどさまざまである。こうした神話的背景が面倒臭い場合は宗教ではなく「自己啓発」となり、心理学的アプローチが主となる。

 宗教は「我」を捨てる方向を重視する傾向が強いが、自己啓発は「自己実現」に重きを置く。ところで、「断捨離」と「自己実現」とが両立するという場合、思い出されるのは「如来蔵」思想である。これは、自らが余分な物に目を曇らされていて、真実が見えないので、その余分な物から離れれば、真の姿が露わになる。というような考え方だと簡略化させれば、セミナー向けに丁度良い。と、このあたりは余談である。

 生きにくい世の中を生きやすくするためには、何かを信じて頼るのが近道だ。そのとき求められる対価の種類と度合にこそ違いはあるが、根本的には帰属意識という他力本願的考えがもたらす安堵の錯覚だ。これは単に現実逃避にすぎないが、それこそが現実であるという事実は引き籠りの場合も同様である。

 日本には信教の自由があり、セミナー系は契約法に則るものだろう。それでも一度入るとなかなか抜けられない。セミナーの会則はまだしも、宗教の教義は日本国憲法よりも重要なのである。やはり「死後」を扱う宗教には頑なさがあるのだ。

と、このあたりも余談で。

『知恵と慈悲』

 随分前に図書館の除籍本としてもらってきた本の一冊だ。何度か読んだ記憶はあるが、最近ふと「ブッダ」は何を説いたのか、を改めて見直したいと思い、増谷文雄氏が記した第一部を読んでいるのだが、「無我」について考えを改めさせらたところがあったので、それを記しておく。

 存在は「法」に則ってブッダの有無にかかわらず在り続け、その方とは「縁起」として説かれ、現実に則して捉えればそれは「無常」ということである。さらにこれを「自分」に対して当てはめた時に使われる述語が「無我」であった。

「縁起」とは「これが生じればこれが生じる」「これを滅すればこれも滅する」という継時的かつ共時的連鎖による流動性をもつ生起論(断滅論)で、単なる因果関係ではない。そして、すべてが同じ状態のまま留まることのないことこそが、存在の継続を潜在的に求める存在者である「自我」の「苦」の源となっているとする。「縁起」とはこの「苦」の生じる連鎖を明確に解き明かし、では「苦」を滅するには何を滅すればよいかを明らかにする。

 だがこれは「生まれてこなければ苦しみもなかった」というに等しい。ではブッダは長い間思慮を重ねてこの当たり前の事実を発見し、その発見に大勢が宗旨替えしたのだろうか? もしそれだけのことであれば、快楽主義や厭世主義の運命論と何ら変わらない。

生きているのが苦しいのなら死んでしまえばいい。

 「縁起」はブッダの有無にかかわらず理法として流転し続ける。水車に縛り付けられた人は水車が回転し続けることが苦しくてたまらないはずだが、水車そのものは、そこに人がくくりつけられていようがいまいが川の流れがあれば回転を止めることはない。「縁起」とはそういうものであり、川が流れ水車が回り人がくくりつけられているという状態は切り離せない法として連綿と続いてゆくのである。これが輪廻だ。輪廻は止まない。なぜなら輪廻は法だからである。死んだところで、また同じ苦に生きねばならない。死はその場しのぎにすぎないのだ。

生きているのが苦しいなら苦しまないように生きればいい

 こうすると少しはブッダの説いた生き方に近づくだろうか。執着を離れることによって苦は減ずる。それは決して消滅することはないが、それにとらわれすぎることもなくなる。それは考え方を変えることである。考え方とは意識である。意識的に意識を変えていくことで苦を減ずることができる。だが、そうした意識は寂しさを招くかもしれない。だからサンガ(集団)に同志と共に生活する。この点で仏教はセミナーに似ている。

生きることは苦であり苦でないこともない

 仏教においてもっともおもしろいのは「空」観である。そして存在論のなかで最も面白いのは生起論である。つまり「無」から「有」が生じる原理である。わたしは唯識から般若経を経て華厳経に至ったが、とどのつまりは「十二縁起」にとどめを刺すのだと思う。全てはここから発する。

 だが、ブッダはまずは自分が感じていた「不安」の解消を求めて求道したことを忘れてはならない。その過程でブッダが悟ったことが「人間存在」にフォーカスした各論的なものとして「縁起」という形をとったのである。ブッダが悟った内容は華厳経が伝えているとされてはいるが、華厳経は後代の大乗仏教経典であることから、ブッダが「縁起」を掬い取った源となる壮大な存在論が果たしてその通りであったのかは定かではないし、そもそもブッダにとって宇宙の始まりなど存在者の救済には関係が無いことであった。

意識的であること

 わたしにとって、生きることの苦については、じつはあまり関心が無い。そうした生き難さは当然のものだと受け入れているからであり、今のところ食うに困るという状況ではないからだ。「無我」が「我というものはない」という意味ではなく「我という状態は存続しない」という意味であるとき、それでも「存続している間は」「我」は存在しており、その存在している我が苦しんでいるのだから、その存続している間は、「苦」を「減ずる」ためにブッダは、「中道」を学ぶことを推奨する。それは暴流を流れる間つかまる筏となる。それで流れから逃れることはできないが、息をつくことはできるだろう。だが筏には自力でしがみつくしかない。大乗仏教であれば大きな船に乗せてくれると言ってくれるのかもしれないし、濁流を清らかなせせらぎに変えてくれるというかもしれないが、そういうことはおそらくは無い。法とは我々とは無関係に存続するからである。

おわりに

わたしがこの本を読んで考えたのは「意識」についてだった。ならば再び、自分なりに、部派仏教から唯識へを辿り直さなければならない。とても面白い。