望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

虚子の狭量さと綴り方 ―杉田久女さんとのことから

はじめに

 角川書店の『現代俳句大系 全15巻』の15巻からさかのぼって俳句を拾っていて、その第9巻に『杉田久女句集』がありました。俳句を拾うのに、作者に関する知識は不要という主義の私は、前書きは勿論、作者年譜、句集の序や跋は流し読む程度なのですが、この句集の高浜虚子さんの序に、引っかかりました。
 その感触は、かつてブログで触れた『赤い鳥』に写生文を投稿する女性達に対する男達から受けたそれと、酷似していたのです。

川端康成さん再び

 しかもこの句集の後書きの、杉田久女さんの長女昌子さんの謝辞に、「川端康成」さんの名前が唐突(と思われました)に出てきたのです。

 正直、私は「川端康成さんが、またやったのか」と早合点しました。

 実際のところは、当時五十歳ごろの川端康成さんは、文壇的に確固たる地位を確立していて、この不遇な句集の出版のためにの口添えをしてくれたのだということを知りました。ごめんなさい。

川端康成さんと高浜虚子さんとの関係

 で、川端康成さんと高浜虚子さんとの関係はどんなだったのかなと、検索してみたところ、

① 虚子さんが、昭和25年12月20日76歳の時に詠んだ「去年今年―」の句が鎌倉駅掲示されていたの見た川端康成さんが随筆に「背骨を電流が流れたような衝撃を受けた」と書いたという記事。

(学校だより 一生懸命 平成29年1月号 岸和田市立中央小学校 .pdf)

(梶山徹夫の『愁思符庵日記』 - Yahoo!ブログ『謹賀新年』 ( 競馬 ) - 梶山徹夫の『愁思符庵日記』

② 川端康成さんが高浜虚子さんの『虹物語』なる写生文を絶賛したという記事。

高浜虚子「虹物語」 投稿者:とんぼメール 投稿日:2007年 6月 2日(土)22時26分8秒

※このエピソードは、高浜虚子さんが女性俳人をどのようにとらえていたかを表すエピソードともなっている。昭和16年に出会い、昭和18年から昭和22年に亡くなるまで、福島の若き弟子とに間に交わされた交流と相聞句。その関係は、さらにその死の十年後にもなお句を詠むほど深かった。
 このことと、杉田久女さんへの仕打ちとの大きな差をみるとき、虚子さんのイヤらしさが、際立ってくる気がしました。邪推ではありますが、この「虹」についての句を詠んでない期間は、杉田久女さんに関する様々な妨害がなされていた期間に重なっていて、昭和27年に虚子さんが万全の自己保身策を講じた上で、中村久女句集に「駄目押し」ともとれる「序」を書いた翌年に、また「虹」の句を作っているのです。

5俳1僧3テニス ; 虚子と愛子の「虹」の相聞句 | 5俳1僧3テニス

川端康成さんと俳句

(川端康成文学館テーマ展示「川端康成と俳句」 | アストモ)に、

川端康成は旧制茨木中学校在学中から俳句に親しみ、文芸雑誌に作品を投稿していました。
作家としての地位を確立してからも作家仲間と「文壇俳句会」を開き、(中略)、終生俳句に対する関心を持ち続けました。

とありました。

 小説「山の音(昭和29年)」の主人公が『われ遂に富士に登らず老いにけり』の句を詠んでいたりノーベル賞受賞にさいして『秋の野に鈴鳴らし行く人見えず』の句を詠んだりしていることを知りました。

 ですが、関心を持ち続けることと、「俳人」であることとは全く違います。私は、川端さんが自身を「俳人」と考えていたのだとしたら、『杉田久女句集』の出版に協力しなかったかもしれないと思いました。それほど、私は川端康成さんの「女性感」に不審を抱いているのです。

 そして今回、高浜虚子さんにも同様の感じをもちました。いいえ、高浜虚子さんの「狭量」さは性差にのみに発揮されたのではなく、自らが打ち立てた「写生俳句論」「花鳥諷詠」つまりは「ホトトギス」の権威に屈しない者に対する、執拗で狡猾な「排除」の態度だったのです。

 杉田久女さん存命中、どうしても虚子さんの序をもらえない久女さんは、夫の伝手で、虚子さんと懇意で出版界に多大なる影響力をもっていた徳富蘇峰さんの協力を得、あとは虚子さんの序が揃えば、というところまで話を進めていたのですが、そのことが逆に虚子さんの逆鱗に触れ、その直後に「ホトトギス」同人から『削除』されてしまうのでした。(そもそも、この同人入りは、久女さんが全霊をかけた主宰誌『花衣』を廃刊にした(おいこんだ?)見返りともとれる処置だったのです。もちろん、彼女の投稿句の水準は群を抜いたものであり、虚子さんを師と仰ぐ姿勢はだれよりも強かったので、同人入りは当然だったと思いますが、タイミングが…)

 ともあれ、母である杉田久女さんの遺志を実現せんと奔走した長女昌子さんが、当時日本俳壇の最高権力者といえる虚子さんに、日本文壇の最高権威者といえる川端さんを通すことによって、ようやく『杉田久女句集』は出版されたのでした。
 なのに、ようやくいただいた序文は、高浜虚子さんの、杉田久女さんへの仕打ちを、正当化する(=全ては久女さんに問題があったとする)ものだったのでした。

 なお、長女昌子さんと川端さんとをつないだのは、昌子さんの夫でした。
 昌子さんは、句集出版後、長い期間にわたって、母であり、当代随一の女流俳人であった中村久女さんの名誉回復に尽力されてきました。それは、当時の俳壇、出版界の、権威、派閥抗争による事実隠蔽と捏造に対する戦いだったのでした。

 これらの詳細につきましては、以下にご紹介する先輩方の、丁寧な調査研究が記されてブログを、是非ご参照いただきたい。

blog.goo.ne.jpリラ様

猫を償うに猫をもってせよ
小谷野敦
d.hatena.ne.jp

歌仙行ーああノ会連句
ichikawasennen 様
d.hatena.ne.jp

赤い鳥の感触

「純な心持で書き進んで」いる点を買い、「梟啼く」の題はよくないが「小説がかった味はひのある文章として推奨する」と評価した。(美と格調の俳人 杉田久女 坂本宮尾 平成20年10月10日 角川書店 p.29)

 上記は大正7年11月のホトトギス上に発表された杉田久女さんの文章「梟啼く」に対する虚子さんの評価だそうです。

 私はこの評価基準に、「赤い鳥」「川端康成」的肌触りを感じました。時代的には虚子さんのこの評価のほうが先なので、こうした見方がそのまま昭和に引き継がれていったということなのでしょうね。 

mochizuki.hatenablog.jp

山本楽堂が「近頃は婦人が一ぱしの作者となった」と述べているように(後略)(同書p.33)

 これは、大正8年ホトトギス8月号の「俳談会」に掲載された「女流俳句に焦点を絞った討論会での発言です。

 杉田久女さんが、こうした時代背景、不遇な家庭環境、真っすぐであるが故の誤解されやすく、煙たがられやすい性格、さらには人間関係の巡り合わせなどによって、いかに苦労し、それでも自らの意思を曲げずに最後まで俳句に賭けたかは、今回の参考図書としている『美と格調の俳人 杉田久女』や、先輩のブログに尽くされています。

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問題の序文

 杉田久女さんは大正昭和にかけて女流俳人として輝かしい存在であつた。ホトトギス雑詠の投句家のうちでも群を抜いて居た。生前一時其の句集を刊行し度いと言つて私に序文を書けといふ要請があった。喜んでその需めに応ずべきであつたが、其の時分の久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり、私はたやすくそれに応じなかった。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めたかと思うはれる節も無いではなかった。(中略)
 私は句になってゐると思はれるものに〇を付して、それを返した。その面白いと思はれる句は、曾てホトトギスの雑詠欄其の他で一通り私の目に触れたものである様に思へた。他に遺珠と思はれるものはさう沢山は無かった。(中略)
 これらの句は清艶高華であつて、久女独特のものである。(中略)
 生前の序文を書けといふその委嘱に応ずることができなかった私は、昌子さんの求める儘に丹念にその句を克験してこれを返した。

  昭和二十六年八月十六日

           鎌倉草庵 高浜虚子

  同書p222 からの「ⅷ 久女の没後」に詳しく記されているように、この序文は、私が「(中略)」とした部分にも多数の問題があります。高浜虚子さんの狭量さ、執拗さ、狡猾さが集約されているといって過言はないものです。

 私が、角川書店の俳句集を読んで、一番最初にひっかかったのは、虚子さんが「かつて自分が選んだ俳句以外に良い物はそう沢山はない」と言い切っているところでした。久女さんとこの句集について、なんの予備知識もなく読んでいた私でさえ、序文にこのような文章があるというのは、異常なことと思われました。

 その後、昌子さんの後書きを読んで、虚子さんの、事実誤認とミスリードのあることを知り、先輩諸氏のブログや、この本から、高浜虚子さんという人に感じていた「狭量さ」の本質が分かったような気がしました。

 写生論への反発や、無季自由律を試みるものを、「謀反人(同書p.156)」と呼んで同人から削除したり、ホトトギスへ句を掲載しなくなる。
 俳句は「選」によって、その価値が変わるという場合が多いので、選に漏れるということは、すなわち駄目な俳句、駄目な俳人の烙印をおされることに等しいのだといいます。

 虚子さんは、自らの俳句眼に絶対の自信をもち、添削は神の声でもあるかのごとく揺るがぬものと受けられねば我慢ならなかったようです。

「選は創作なり」といふはこゝのことで、今日の汀女といふ物を作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力が相待つて出来たものと思ひます。あなたには限りません。今日の其人を作り上げたのは、其人の力と選の力が相倚つてゐるのであります。

昭和19年『汀女句集』巻頭 虚子の手紙より (同書 pp.195-196)

  なので、虚子さんの添削に異を唱えるものや、添削前の形で句を発表しようとするものを絶対に認めなかったようですし、そういう発言のあった久女さんにも、序文も与えなかったのでした。

 選者の権威、俳壇なるものへの影響力の絶大さ。虚子さんは、久女さんを削除するにあたって、それを最大限悪用したのだと思いました。

高浜虚子さんの理想とする女流俳人とは

 それは、良妻賢母な暮らしぶりの中の、ごくありふれた日常にある感動を、ありのままに優しく詠める俳人だったようです。

昭和12年11月。星野立子さんの『立子句集』」の虚子さんの序文

「自然の姿をやはらかい心持で受取つたまゝに諷詠するといふことは立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。写生といふ道を辿つて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつたと感ずることもあつたのである。それは写生の目といふことではなくて写生の心といふ点であつた。其柔かい心はやゝもすると硬くならうとする老の心に反省をあたへるのであつた。女流の俳句はかくの如くなくてはならぬとさへ思つた。(同書p177)

 

昭和14年の長谷川かな女さんの句集『雨月』にある虚子さんの序文

「いかにも人ざわりのよい、人と交るにも万事行届き」と記している。(同書pp.190-191)

昭和15年中村汀女さん・星野立子さん姉妹句集『春雪・鎌倉』の虚子さんの序文

「清新なる香気、明朗なる色彩のあることは共通の風貌である」(中略)また、「柔らかい素直な心」(同書p191)

 こうした姿勢を評価する態度は、あの「綴り方」におけるものと、瓜二つなのです。

 大正11年1月ホトトギスに掲載された杉田久女さんの「夜あけ前に書きし手紙」に

 一時やめてましたときは、必ずしも写生でなくても主観でゆけると考へた日もありますが、やはり生きた句は写生から生まれるのだと此のせつしみじみかんじます。但し写生といつても、見あたり次第、てあたり次第に、何でもひろひあげて写生するのでなく、深い魂の感銘を基礎としたまことの写生をして見たうございます

とあります。これは高浜虚子さんの提唱した「写生論」そのものではなかったでしょうか? ですが、虚子が女流俳人に求めていたのはそこではなかったようです。

 虚子は汀女をひいきにしている、と久女が感じたとしても不思議はないほどの躍進である。虚子は汀女のなかに豊かな才能を見出すと同時に、家庭円満で人格穏やかな高級官僚夫人の彼女が、増加しつつある女流俳人のスターとして育てるのにふさわしい人物と考えたのであろう。(同書 p213)

死者を鞭打つ虚子さん

 昭和14年には作句もぱたりとやみ、昭和19年に鎌倉に長女を訪れた折に、「死んだ後にもし機会があれば句集をだしてもらいたい」と想いを託した杉田久女さんは、昭和21年1月21日、失意のうちに病院で亡くなりました。

 その同じ年の11月に高浜虚子さんは、「墓に詣り度と思つてをる」という奇妙な文をホトトギス11月号に掲載します。そこで虚子さんは、久女さんをホトトギス同人から削除(除名)するにいたった狂気のエピソードを、富豪だが成績の振わないホトトギス会員の零落して路上に死んだ男、のエピソードと並べて紹介しています。

 その後の調査で、そこに書かれた久女さんのエピソードは捏造であることが判明しているそうです。(同書pp171-173)

 また、昭和23年12月号『文体』に「国子の手紙」という、高浜虚子さんに届いた久女さんからの「常軌を逸した」手紙230通余りのうちの19通が一部、虚子さんによる省略訂正を加えて掲載されました。(一応「創作」の形をとっています)
 これは、杉田久女さんが、ひどく精神の安定を欠いた人であったという印象を喧伝する内容になっているのですが、これらの手紙の公開に先立ち、虚子さんは、長女の昌子さんから、手紙を自由に使用してもよいとの言質をとっていました。

 母の遺志を実現させようと昌子さんが、昭和21年1月28日、荼毘に付された母の遺骨を迎える前日に虚子さんにあてた手紙への返事で、虚子さんは悼句を送るとともに「久女さんからの書簡を差支えの無い範囲で公開してもよいか」と尋ね、その返事として「いかようにも」と許可を得ているのです。この掲載を許可する昌子さんからの返事を、冒頭で掲載してます。

 「よもや」と昌子さんは思ったといいます。
 大家高浜虚子さんの手により、母の歪められたイメージが、活字となって世に出てしまった。母の句集出版の願いについては何の音沙汰もないままに。

 人はここまで、執拗に冷酷になれるものかと思いました。

※ 高浜虚子さんは、夏目漱石さんが没した直後ホトトギスに連載した「漱石氏と私」において、漱石さんからの多数の手紙を紹介し、その最終回で、漱石さんが滞在していた京都での「奇妙な漱石氏」の様子を、冷徹な筆致で描き出しているのだそうです。(同書pp200-221 Ⅶ「国子の手紙」再考)

おわりに

 こうした出来事を知って、高浜虚子さんという人の、「自分のこしらえた枠を逸脱するものを徹底的に叩きつぶそうとし、自分がもっとも偉いのだということを誇示し続けようと、自らの権力をちらつかせ、時には牙を剥いて相手の死後もなお、いや死後だからこそ、好き勝手に追い込んでいく」この粘着質な性癖は、赤い鳥のところでみた川端康成さんの姿勢に通ずるところがあると思ったのです。

 その肌触りの気持ちの悪さ。

 守るべきものを自らの身を賭して守るのだという大義が、自己保身とぐずぐずに溶け合って、倫理を欠いてしまっているような気がします。

 正岡子規さんの俳句の広さや鷹揚さは、高浜虚子さんからは失われていると感じます。それは、受け継ぎ守るべきものを教条的に確立しなければ存立、存続させることができない二代目の悲劇かなと思います。

 思えば、子規さんも膨大な江戸俳諧を研究して、取捨選択して近代俳句の礎を打ち立てたのでした。そうやって自分が捨てた「部分」が、輝きを放つとき、どのような態度がとれるのか。そこが問われるのではないかと感じました。