はじめに
風物から人物。静物から印象。詩から事実。
松本てふこさんの『汗の果実』という句集には、章立てのようなものがあり、順番に「皮」「種」「汗」「蔕(へた)」となっており、「ブドウ狩り」かしら、などと思うのはこのように書き並べたからで、「皮」「種」で「男性」を意識、「汗」でその感を強くした結果「蔕」については思い至らず。
「皮」
筋肉のきれいな人と青き踏む
があり、なるほどそうかと。だが一方、
おつぱいを三百並べ卒業式
先輩と大きく呼びてアロハシャツ
臨月の腹はみ出して秋日傘
などもあって、「男性」というより「性」なのだと感じた。
タブーともいえないタブーに軽く触れる、そのヘンな空気の臭い、を感じた。それを「なまなましいやさしさ」という言葉で表してみたしだい。
鉄板にソースうるさく春寒し
錠剤をたくさん持つて遠足に
夏風邪を詫びて祝辞を始めけり
無月かな埃の焦げる匂ひして
凩のこれは水辺のなまぐささ
また、「写生」の観点からも拾うべき句は多い。
くしやくしやに枯れてゆくなり夾竹桃
やまももの種もあらはに踏まれたる
蜻蛉は砂丘に触れぬやうに飛ぶ
甘柿の高々生ってやや四角
来客のポインセチアに触れて去る
以上が「皮」で拾った句である。
「種」
「皮」よりの少し後退した感がある。出来栄えではなく立ち位置のことだ。「皮」では肉薄した感覚のヒヤヒヤする感じがあったが、この「種」は被子植物の「種」なのだ。ここにはいわゆる「客観写生」が散見される。
老鶯の聞こえ一〇二号室
馬刺てふ看板ありて日盛りに
花合歓の一樹満たしてをりにけり
常夏や機体に太きアラブ文字
だんじりの日のしづかなる理髪店
ぼつかりと海の闇ある祭りかな
立冬や会議室より運河見え
など、好みの句が多いのだが、現在の俳句としては大人しい印象を受ける。
「汁」
生命である。命とは汁っぽいものなのだ。汁を満たした袋が躍動する。身体とは汁。そんな句を集めた章と感じた。性別よりも生死。死を担保する生である。
たたまれしごとてふてふの死んでをり
ちんちんと呼ばれしものの朧めく
花時やあたたかさうなよだれかけ
ボクサーの汗を果実と思ふなり
水掴み放して掴む海月かな
駆けてきて日焼けしたての躰かな
湯気立てて人が人喰ふ話など
柚子湯出てひとりひとりのからだかな
三十六度五分の闇あり姫始め
息吸って止めてまた吐き姫始
「蔕」
ここには「ちょっと幻滅」「見ないフリをしてほしい」という感じが集まっていた。「古い」「新しい」「気取り」「みじめ」など、情け容赦なくなまやさしい。
堂々と汚れてゐたる網戸かな
白靴のはづかしきほどおろしたて
夏の山そして電光掲示板
船頭はバイクで帰り雲の峰
雑巾で拭きたる今日の神輿かな
よそ者として一心に踊りたる
空高きことにも触れて弔辞かな
靴裏にガムがべつとりハロウィーン
雪吊のひたすら雨に打たれたる
梅見して返事はすべて大丈夫
たんぽぽのどこか壊れてゐる黄色
おわりに
俳句には元来、こうした「なまなましいなまやさしさ」を取り沙汰してしまうところがあって、その意味では「王道」なのだと思った。手本にした句集だ。