望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

波頭の橋頭保としての『認知症世界の歩き方』

これは座右に置くべき、こわい本だ。

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唯脳論だとか、唯心論だとか、VRだとか、すべてこの世は虚構だとか、そういう言説は理解できるところもあって、結局は「脳」だよ。という感覚は理解できていたつもりだったのだが、それが現実の、ひじょうに身近なところに在る。ということになぜ気付かなかったのだろう。

わたしたちは世界というモノを測量し、その距離感によって生きているものだと、どこかで思い込んでいた。唯物論者にとって、世界とは距離である。そして距離を計測する基準は客観的で揺らぐものでは決してない。なぜなら、度量衡は感覚とは無関係に、距離を普遍的に不変なまま保持するモノによって保証されるからだ。

だが、認知症はこの不変の基準を、ぐねぐねした何ものかにしてしまう。

モノは幻影だ。と言うのはたやすい。だが現実として、この幻想であるはずのモノは、厳格な物理法則に則った挙動をする。幻想というものは、全くつかみどころのない、責任も義務も追わず、その場限りの適当な、辻褄の合わない、絵空事である、と私達はそう決めつけていたのではないのか?

 むしろ、そのような厳格さによらなければ立ち行かない脆弱性によって、モノという幻想を守っているのではないのか? だから世界の真の姿とは、ぐねぐねとした手掛かりのなにひとつないナニカで、そのようなナニカに生じた一フラクタル的規則の産物が、モノなのではないのか。

 という空論を弄ぶことを、これまでは楽しんでいる側面は確かにあったわけだが。

認知症という状態は、この空論の世界を生きるよう強制されるのだ。物理法則が機能せず、時間も空間も均質性を欠き、あらゆるものが意味を失ってしまう。

さらに、そのようなときに最後の砦となるべき身体感覚、触覚、でさえも、脳の認知によって変性してしまうのだと、本書は記しているのだ。

 時間と空間が出鱈目になるとは、自分の身体地図そのものが出鱈目になるということでもある。五感の全てがインデックスを失い、ただ「インデックスがあったはずだ」という、正しいが、漠然としすぎていてむしろ現状認識にとっては害悪になる記憶だけが、波頭から見えるのである。

 よく、赤ちゃんに戻る。という。

 だが、赤ちゃんは次第に世界が明確になるベクトル上におり、しかも、新たな認知を否定してくる記憶の断片を持たない。新たなな認知による新たな記憶によって、世界はどんどんクリアになっていく。

 だが、認知症は逆なのだ。世界はどんどん混沌としていき、記憶がその混沌を増幅する。記憶の断片が、世界をより得体のしれないものにしていくのである。

 以前はこんな風ではなかった。できていたはずのことができない。どこへいくのが分かっていたはずなのに、分からなくなっている。息子は小学生のはずだから、この怖い顔をしたおじさんが息子であるはずがない。

 何も分からなくなってしまったほうが、ストレスなく暮らせるのだろうか。連続性も継続性ももたない客観的自分など、いないほうが苦しまずにすむのではないのか。認知が味覚や触覚にまで及び、それまでの感じ方と変化させてしまうのなら、その他大勢の人々の尺度をあてはめられるのは苦痛意外のなにものでもないだろう。

 脳の外に世界があるのか。

 脳の内に世界があるのか。

 そんな二分法では、現実はなにも変わらない。唯物論こそが幻想論なのだから。

 認知症は身近な脅威である。備えることが可能ならば備えなければならない。自分の認知のどこが、いつ、どれほど損なわれるのかはわからないし、損なわれたときには、損なわれたことに気付くこともできないのかもしれないが。

 身の回りの「モノ」が一斉に意味不明な妖怪ででもあるかのように不気味に在るような事態になり、そのようななか、波頭の橋頭保として本書があれば心強い。

そんな風に感じられる本だった。