望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

小笠原鳥類さんを拾い読む ――「現代――」との向き合い方を探る

はじめに

 現代詩。

 「現代――」 という接頭語がつくと、とたんに雑多になる。それまでのコードが通用しない芸術表現全般、というよりそのコードからの離脱、コードそのものの解体が制作目的に含まれる表現を「現代――」と呼ぶのだと思う。

 一方で、こうした試みは「コンセプチュアル」に偏りすぎるきらいがあると感じる。「感動」というのは「論理的」に超越していけるものではない。「体感的で古臭いもの」が「感動」の本質だと思うからだ。この本質を変革することはできない。ただ、特定のコードに反応するパブロフの犬的な感動からは常に遁走していくべきであり、その意味で、新たな表現手法に対しても「自然」と同じ感覚で交流を試みるべきだと思う。それとは別に「現代――」は、それぞれの分野における新陳代謝の企てによって行われ、若手がベテランを批判し、ベテランが若手を潰そうとする軋轢と、市場の原理によって表層化する、装いの変化という側面もある。

 あらゆる分野の中で(とはいえ、ここでは科学技術全般や基礎数学理論等は省く。それは考察対象から外れるからではなく、筆者にそれらを取り扱う技量がないからである)、とくに「詩」は、非常に先鋭的であるように感じられる。

 絵画、彫刻、音楽、小説、映画、短歌、俳句、などに「現代――」という接頭語がついた表現に関しては、コードの書き換え方が理解でき、相応の鑑賞が可能だが、「詩」については、「現代――」がついていなかったとしても鑑賞不能である作品が少なくない。しかし「現代詩」はおもしろいと感じるし、できることなら制作してみたいとさえ思う。

 だが、何をどのようにすれば「現代詩」になれるのか?

 今回のブログは、こうした設問自体が無効であることを踏まえて、今、わたしが最も好きな、小笠原鳥類さんの著作にある「詩」の考え方を拾って、今後の指針にしようと画策したものである。

 主なテクストは『おお、限りなく懐かしい動物たち(2025)』と『吉岡実を読め!(2025)』の二冊。他は、『感動のシャーロックホームズ(2026 第二刷)』『図鑑(2025)』『現代詩アンソロジーvol.3((2024)』『現代詩アンソロジーvol.6(2026)』(以上すべてライトバース社刊)そして、図書館から『小笠原鳥類 詩集(思潮社 2017 第二冊)』を借りて抜き書きをしたノートである。

『吉岡実を読め!』『おお、限りなく懐かしい動物たち」

『おお、限りなく懐かしい動物たち』からはじまる

 生きものという詩――詩という生きものがはじめからここに、いる。(帯より)

まず p.6 はじめに の全文を書き写す

 生き物を眺めていると長い間飽きない。図鑑も極めて魅力的な書物だ。生き物の持つ魅力、謎に憑かれることによって、私は書き始めたのだった、と思う。だが、生き物「について」書く、という行為は、私の最終目標ではない。「書かれたもの」を、魅力と謎を持つ、いつまで眺めていても飽きない生き物「そのもの」にすることを目指して、これからも書き続けていきたい。

Q.E.D

 という感じがする。

 おそらくこの「前書き」に小笠原鳥類さんの「現代詩」の在り方の全てが息づいている。だが、具体的に「書かれたもの」を「生き物『そのもの』にする」とはどういうことか。分かる。だが、この分かり方でよいのか。

p.7 おぼえがき に

最初の詩集を作ったときに、たくさんの詩があって、厳しく選んだつもりなのであるが、しかし、選ばなかった(まだ、詩集にしていない)詩を、いま読むと、いまでは書けないものだと思える。〈このように書かなければならないのだ〉という思い込みの強さが、ほほえましいのでもあるし、本にしなければ散逸してしまうかもしれないとも思う。

 とある。「詩」とはこういうものだ、という規範に縛られていた作品があり、それは詩集に収めていないという。

p.17 おぼえがき に

いまであれば〈十一〉で「彼」(よくわかっていないのに、男、オスであると決めてしまっている)とは書かずに「その人」あるいは「その生き物」のように書く。

 という自作添削があり、技術的に参考になる。

 とくに「代名詞」は、既存コードによって機能するのであるから、適用には細心の注意が必要なのだ。
 谷川俊太郎の「コップへの不可能な接近」を挙げるまでもなく、あらゆる「言葉」は既存コードによって読み解かれるということは、詩作においては留意しなければならない。
 「詩」は、「詩」でなければ表せない物を表すために用いるべき手法だとわたしは考えている。だから、先ほどの「彼」の使用についても、対「読者」、などという小手先の技術論ではなく、言語化ではとらえられない「こと」が汚染されないよう留意すべきだという、対「対象(暫定)」の注意点なのである。

pp.23-24 おぼえがき に 本歌取り的引用についての解説がある。

「(コンクリート、とここに書いたのは/特に理由はない)なぜだろう」は、萩原朔太郎「虫」(『宿命』創元社、一九一三)の、

 

 ある日午後、私は町を歩きながら、ふと「鉄筋コンクリート」といふ言葉を口に浮かべた。何故にそんな言葉が、私の心に浮かんだのか、まるで理由が分からなかった。

 

「「(長い長い空白の後、)僕は書く、/できるだけ僕から遠く離れて」」は、アンドレ・デュビューシェ/吉田加南子 訳「流れ星」を読んで書いていた。(中略)詩の言葉の前に、長い空白があった。

 

 制作当時に読んでいた詩を、このように取り込んでいるというのだ。
 なぜ、そこに、このような「匂わせ」を、発表当時は種明かしなしで、挿入するのかについては言及されないが、なんとなく分かる。
 小笠原鳥類さんの詩のスタイルとして、図鑑や詩集の解題のように引用しながら、その中に、脈絡のつかないように思われる文を挿入していく、というものがあり、そうやって継ぎ接ぎしていくことによる創発的効果が期待できるのだと思う。
 無論、この二物衝撃的な方法を厳密に意図的に用いているのかもしれないが、表現対象そのものを言語化することが困難なのだから、ち密な戦略など立てられるはずはない、とも思うのだ。
 むしろ、従来のコードにバグを起させるプログラムに仕立て直し、バグがもたらした針の穴ほどの非日常的亀裂に駱駝で乗り入れようという企ての一端なのではないかと考える。

このように考えていると、つらつら「詩」は「密教」に通ずるものだと思い、密教の原典たる「華厳経」が「詩」でなければならなかったことにも遡及するのである。

pp.35-37 のおぼえがき には

 制作した詩にもちいた表現が、参照している図鑑の解説のどの文言からきているかを逐一解説していて、おもしろい。

 さらに、「魚歌」という二人の詩人の同名の二冊の詩集についての言及があり、制作当時は一方の存在を知らなかったと書かれていることから、書こうとしている詩について、参考文献、引用元として関係がありそうな先行詩集を召喚していること(無論、それまでの読書経験の結果、ことさら資料集めのようなことをしなくて済むのだろう。ただ記憶違いを確認するために原典にあたる、というような)が分かり、これは、ポストモダンの手法なのだと、思いあたる。

 とはいえ、和歌の時代から、本歌取りは歌人の嗜みであり、目新しい方法ではない。ただ、「現代――」において、その引用方法が、あからさまな「コピー」でよい、とされている点に、安易さが感じられる。「サンプリング」という考え方は、「テクスト」の発見により認められた感があり、それらを素材として組み込むことで、オリジナルを越えた、ような印象を与えることができるが、実は退化しているのだという例も多く、オリジナルを矮小化する剽窃以下の継ぎ接ぎが氾濫している。
 だからこそ、この「コラージュ」的手法は決して安易ではないことを肝に銘じなければならない、という点で、小笠原鳥類さんの方法を勉強しなければならないのだ。

p.43のおぼえがき には 「」の使用について書かれた部分がある。

「舟歌、そして魚歌」には「」が多い。どこかからの引用ではなくて、このような言葉が、どこかにあると、いいなあと思って「」に入れている(のだったと思う)。しかし、どこかに、ほんとうに、他の人が書いていた、このような言葉が、あるのかもしれない。

 とあるので、この詩の「」に入れている言葉から印象的なものを挙げる。

「銀色の淡水魚の歌」「煙魔術のように」「異星が出た後の傷口」「空中紅茶の煙」「今日の、/新しい水面」

p.49のおぼえがき

 に引用している「ペンギン ハンドブック」の「ペンギンについてまだわかっていないこと」が書いてあるページを紹介し、

謎が並んでいるページには詩がある。

と書いている。

p.64のおぼえがきに

 詩の初出誌に書いたあとがき(あーとがき)が一部加筆をして転載されている。

 今回の作品で利用した『野鳥ガイドブック』(著者名などは作品内で記述)によると、モズの学名Lanius bucephalusは日本語に訳すと「雄牛の頭をした 肉屋」(一八ページ)、ホオジロガモの学名Bucephala clangulaは「小さな騒音を出す 雄牛の頭のような鳥」(一〇三ページ)だそうである。〈売るものと売られるものとの関係の混乱〉は鳥の一種であり、〈二つの動物が重なることによるざわめき〉も鳥の一種である、ということだろうか。入沢康夫の「牛を殺すこと」(今、私の手元にあるには現代詩叢書Ⅰ『倖せ それとも不倖せ 續』書肆山田、一九七三、一四〇~一四一ページ)は、「(本当に牛を殺すためには 人は鳥の仮面をかぶらねばならぬ いや 仮面でなしに 鳥の頭にならねばならぬだろう きみが人間の頭部にこだわりつづけるかぎり 牛の俗悪広大な支配は ついに止むことがないであろう)」と終わるが、これらの学名と関連させて誤読(?)できる。鳥(の頭)が牛の頭であり、そうであることによって関係の混乱が、ざわめきが生じる。牛の俗悪広大な支配が止んだとしても、何かやはり邪悪なもの(鳥?)が作動しそうだ。(鳥)

 これは、どこか蓮實重彦の批評の趣がある。

 「誤読(?)」という書き方は、確信犯的だ。一つの詩を産みだす際には、先行研究としてのあらゆる文献や事例を収集検討し、言語で直接示すことが不可能な(だが、そのような存在物はそもそもあり得るだろうか。あらゆる言葉は名詞であり、名詞と事物との関係は二重に恣意的であり、かつ一次的には象徴としての結びつきしかないというのに?)事物を間接的に、もしくは意味理論を超越した象徴性の発露を期待して(悟り!)コードの破壊を目論むのだが、そこでラテン語の学名に依拠することもまた諸刃の剣であり、その戦略に則った詩であることはそのまま、この詩の不完全さ、不徹底さ、否定的な意味での「アルチザン的詩」と判断する材料となりかねないことから、「鳥の頭」と「牛の頭」という表現が「学名」によるのは、偶然だったのかもしれないが、そのように誤読することもできる多様性を許すのである、というニュアンスをもたせているのだろう。

 実際、言葉で示せない事を言葉で示そうとすることと、言葉で言葉を語ることとは、構造的に、自己言及パラドクスを呼び込んでしまう。こうした視点は、柄谷行人が、『探求Ⅱ』以降、論考を重ねてきた問題であり、現代批評のテーマと重なることから「現代批評」の述語はそのまま「現代詩」の批評に有効となるだろう。

 宗教、哲学、科学は全て、この「言語で示せない事」を表そうとする試みに他ならず、よってそれらすべてを「詩」とよんで差し支えなく、これらの、また同ジャンル内の違いは、射程距離の差にすぎない。有り体にいえば、どの深さで、どの広さで、どの解像度で、どの程度の言語化で、どの程度の誤魔化しで、手を打っているのか、の違いだ。

 こうして「批評」というタームを導入したとき浮かび上がってくるのは、「詩」と「小説」の違いについてであり、「詩」の、特に日本の詩の成り立ちの特異性が、形式にどのように影響しているかであり、それらと「自由律短詩」との相違点などであろう。

 何が「詩」で何が「詩」ではないのか。もとい、何を「詩」ととらえ、何を「詩」から除外するのか。「詩」が表したのは「もの」なのか「こと」なのか。かつて書かれた「詩」から、「詩」とはどのようなものかを推測し、その推測によって「詩」だと認定されるような「詩」でありながらも、これまでの「詩」とは一線を画した新しい「現代詩」はいかにして「詩」とみなされうるのか?

 私の中でこの位置にあったものは「小説」であった。「小説」とは、〇〇ではないもの、〇〇に似ていない物の全てを容れる器空間であるはずだった。だから、現在世の中に出回っている小説の九分九厘までは「物語」であるにすぎない。つまり反復されるものであり、歴史であるにすぎない。「物語」を構成するごく一部の「個的」な(プライベートなという意味ではない)部分のが辛うじてブリリアントであることにぎりぎり救われているのが現状である。「小説」はスタイルは問わず「物語」を批評的に解体する仕事である。たいていの場合「物語」を模しているが、ハイブリッドな構成によって自己解体にまきこみながら世界を解体しようとする。

 だが「詩」は批評的である必要性すらない。

 なぜなら表現しようとするものを、ネガティブにではなくポジティブに表す試みだけが「詩」だと考えるからで、このスタンスも「密教」に通ずるところがあると感じている。

pp.81-82 のおぼえがきに 星新一への言及がある

 「いつまでも楽しいびっくり箱」は、創作メモとエッセイの本である、星新一「できそこない博物館」(新潮文庫、一九八五)の最後に出て来るメモが(二九六ページ)

 

 いつまでも、びっくりさせてくれるビックリ箱。 

 

小説になる前の、まだ、まとまっていない言葉が、謎のある詩のようだ。そして星新一は、この(自分で書いた)メモについて(二九六~二九七ぺージ)

 

 ビックリ箱なるものは、最初の一回は、だれでも驚く。しかし、何回あけても、   そのたびに驚かされるビックリハコ。どのようなしかけにしたらいいか。

 

 たとえばハシビロコウは、いつ見てもビックリするので、ハシビロコウが入っている箱……。『できそこない博物館』から、別のメモ(二〇八ページ)

 プラスチック製、あるいはガラス製、ヤドカリ用の貝殻を大小さまざま作る。

 

そして、ヤドカリについて星新一が(二〇八~二〇九ページ)

 エビとカニの中間的な存在。カラを作る能力をもたないのに、カラを欲しがるのだ。そこで、巻き貝の貝殻を借りて住む。成長するにつれ、大きな貝殻へと移っていかなければならないことになる。
 なんでこんな生物がいるのだろう。進化の途中で、なにか妙な時期をくぐり抜けたにちがいない。たとえば、あたりいちめん、からっぽの貝殻があったとか……。

 

箱の中にヤドカリがいて、開けるたびに違う貝殻に入っているビックリ。星新一は詩人であったと思う。

 ショートショートは、意外な結末にむけて収斂させなければならない詰将棋のようなジャンルである。だから、完成した作品には「詩」はまず無いといってよい。(「詩情」は別だ。「詩情」は「詩」とは全く関係がないからである)「詩」に「結末」をつけることはできないからであり、結末後の余韻ですませられるほど「詩」の表そうとするものは軽くはないと考えるからである。

 一万を超えるショートショートを産みだした星新一が、ショートショートに収斂させることができなかった着想にこそ、「詩」の可能性がある。

 ここで、「ビックリ箱」についてを採り上げたのは、ビックリ箱の一回性と、その後はリピートするしかない、という性質に、「世界」を見出すことができるからだと読み取ることもできる。

 一回目の驚きを詩は保持するべきであり、幾度読み返してもこの一回性を保持し続けることを目指して構成されなければならない。

 電気信号により開くたびに異なる事物を表すことは、簡単にできる現代においてなお、「ビックリ箱」が有用なのは、「一回性」と「一回性の繰り返し」という構造をもつことのみなのだ。世界とはそのように存在し、そのように存在し続けるしかないからだ。

 幾度あけてもビックリするビックリ箱を、輪廻や記憶喪失や、もちろん電子技術などを使わないで、アナログに実現させる方法こそが「詩」なのではないか。

p.90のおぼえがきに 

「もしあなたが現代詩の歴史を書くとしたら、誰あるいは何から始めますか?」結局、『吉岡実を読め!』(ライトバース出版、二〇二四)を書いた。吉岡実から、はじまる。

 とある。
 冒頭の質問は、この章でとりあげている「魚 ――野村喜和夫さんの質問に答える――」の五番目の質問で、本作品中の答えは

人間と動物の関わりについて書くことになると思う。(後略)

 とある。

 本作品の詩への考え方についての直截的な質問に、小笠原鳥類さんは真摯に応えていて、たいへん参考になる。その中の一つ「詩を希望に結び付けるにはどうしたらよいでしょう。」に対する答えを書き写す。

詩は生き生きとしている言葉であるので、生き物と関連しやすい。生き物に関する語や文を多く用いることによって、詩は読者の中の、生き物に関する記憶と密接に関連する。というわけで、魚の生き生きとした動きを追いかけるようにして詩を書くことと読むことがとても大事だと思う。魚は素晴らしい、動物は素晴らしいので、魚などの動物に関する語・文を詩を書く時や読む時に重視することによって、詩を希望に結び付けることも可能になるのではないだろうか。

 詩で捉えようとしている事物は、未発見の魚に似ている。深海に潜むがときおり海面近くにまで浮上してくる、そのときの泡や海面の盛り上がり、呼応する空や風。海全体がその魚の浮沈に胎動し、われわれの汀に印を残していく。

中入り

 詩は生きていなければならない。

「書かれたもの」を、魅力と謎を持つ、いつまで眺めていても飽きない生き物「そのもの」にすることを目指して、これからも書き続けていきたい。」

 という理念のもと、いかにしてそれが可能かを探る目的ではじめたブログだが、メインテキストの一冊目『おお、限りなく懐かしい動物たち」だけで、8000文字近くになったので、ここで中入りを設ける。

 後日、メインテキスト二冊目の『吉岡実を読め!』を読んでいきたいと思う。

ひとまずはここで。