望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

小笠原鳥類さんを拾い読む 2 ――『吉岡実を読め!」ライトバース出版より 1『昏睡季節』

はじめに

 前回に引き続き、小笠原鳥類さんが現代詩について書いている箇所を拾って、そこから現代詩を透かし見る試み。

 今回から、『吉岡実を読め!』ライトバース出版(2025年3月1日第三版)から抜粋していく。この本は400ページを超える量で、吉岡実の全ての詩について書かれたものだ。小笠原鳥類さんが吉岡実さんの詩をどのように捉えているのかによって、現代詩とはどのような姿をもつのか(もつべきか)を検証できればと思っている。

1『昏睡季節』

「(前略)むかしの印刷・むかしの活字が詩と相性がよかったとも思う。どういうものであっても古ければ、いいものであるように思えるし、中途半端な詩も活版印刷であれば、いいものに見えた(吉岡実の詩は今の印刷でもネットの画面でも大丈夫だろうけれど)。」(p.16)

 「詩」は感受するときの「違和」が手がかりになる。俳句や短歌でもそうだが、ある種の難読性、難聞性によって、意味の手前で逡巡するところに「詩」の関門がある。だから、文語や歴史的仮名遣いは、一日の長が認められるのである。

 書字か発語かに寄らず、「詩」はそれより前の物質性に一時留まった瞬間に掠める風や薫りのようなところがある。その意味で「むかしの印刷・むかしの活字」は、現在では見慣れないというただその表層の一点において、「詩」に似たものに見えてくるのである。

 とはいえ、結局、既存の文法によって既存の意味に回収されてしまうようでは「詩」ではない。吉岡実の詩は、そのようなレベルにおいて「詩」のようであるのではなく、表層において詩として投げ出されているのだろう。

「吉岡実は素直な詩人だ。あとになって、ほんとうに好きなもの、ほんとうに信じられるものを追求することで、ただならぬ詩人になっていくけれど、最初はそこまで複雑でもなく、きれいなものを素直に書くことから、はじまった。」(p.16)

 とあるように、詩人には、ただの詩人と「ただならぬ詩人」とがあり、ただの詩人は「きれいなものを素直に書く」詩人であり、「ただならぬ詩人」とは「ほんとうに好きなもの、ほんとうに信じられるものを追求する」のだが、そのような姿勢は「複雑」なのだという。

 「ほんとうに」「好きなもの」「信じられるもの」を「追求」することがなぜ「複雑」にするのか。

「このようにはじまる『昏睡季節』の詩「春」。何が言われているのか、ということより、ああ、きれいだな、と思う」(p.17)

 ただの詩人は、存在そのものの奇跡を「きれいだな、と思」った事に見出してそれをそのまま記述する。しかし、こうした詩を、小笠原鳥類さんはこう評する。

「百年前〈よりは少しあとだが〉の日本には、きれいな言葉が、不自然にではなくて、スムーズに書かれることができたようだ。若いころの朔太郎は、それから大手拓次はそういものを書いてしまう人だった(というより、朔太郎や卓次、そして白秋は八十や犀星や賢治が、〈きれいのスタンダード〉を作ったのだろう)。今私がこういうものを書こうとすると恥ずかしくなるのだが、しかし、私は心が汚れているということだろう。」(p.18)

 〈きれいのスタンダード〉を確立した分野は衰退し、その先は「現代――」の一派と袂を分かつしかなくなる。「しかし、私は心が汚れているということだろう」などという予防線のような記述は

「素直に、きれいなものを書くことが、むかしは、できたのだ」(p.19)

に収束する。

 「むかしは、できた」には、「今は、できない」という意味と「もはや古臭い」という意味の二つがある。

 それにしても、「詩」を「存在の本質に迫る」ものと仮定し、「美」が、その「本質」の指標になりうるのだとすれば、なぜ「今は、できない」のか。

 「本質」とは変化しないことではなかったのか。

 あらゆるものが分別される以前であり、かつ、永遠の一が流動性を獲得した直後に吹いたとされる刹那の風の残響を掬いとることが「詩」であり、その営みの解像度の差異こそあれ、詩人たるをえない者の感受性が反応する事物そのものがいささかも変質していないのだとすれば、「きれいなものを素直に書くこと」と「ほんとうに好きなもの、ほんとうに信じられるものを追求すること」とがなぜ一致しなくなってしまったのか。

「頸の青い子供が燻銀色の硝子杯で電流をのみ

  こぼした」(p.23)

 という吉岡実の「白昼消息」の部分を抜粋し、

「電流は、たぶん、一九四〇年には、今よりももっと新しい電撃な語だっただろう。何から何まで電気な生活になって語の驚きが減少したかもしれない。いい詩はいつになってもいいのだ、と素朴なことを言えない。(p.23)

 という記述が、その一端を説明している。

 つまり「言葉」は陳腐化するということだ。

 「電流」の意味するところは、当時も現在も変わっていない。ただ、それが新技術か普及後かで、「言葉」の「社会性」は変化してしまう。

 これは俳句における「季語」が切実に直面している問題だ。

 しかし、だからといって言葉を用いた表現は「意味」だけでなくこの「社会性」に留意し、言葉の社会性、つまりは新規性による衝撃と違和をもたらす力に頼った」パワープレイは慎まなければならない、などと、わたしは思わない。

 表現したいことが、そのようなパワープレイでしか引きずり出せないのであれば、試みるべきだと思う。

 たった一篇の詩が未来永劫有効であれ、などという幻想こそが陳腐だ。

 「現代――」はいずれ「古典」となる。それは「時間」という「存在」の副作用にほかならず、この「陳腐化」さえも「奇跡」であると認識するなら、「今」に開き直ればよいと思う。

 「永遠」をとらえるための罠が「永遠」である必要はない、というか不可能なのだから。

「一行一行の切り方が少し独特で、ゆったりと次につながっていく動きを見せる。この方向の実験は吉岡実は発展させなかっただろう。(p.24)

 この部分は詩の「形式」について記されたものだ。

 「詩」は「詩」と分かる形式をまとうことで、読者もその心づもりをし、作者も「詩」を書いているのだと安心できるのだ。詩の形式について、わたしはクロスワードパズルによって言説意味時空を切り裂く試論を書いたことがあるが、けっきょくは「むかしの印刷・むかしの活字」や、文語体と歴史的仮名遣い、の採用によってもたらされる、違和感による難読性の実装の一例にすぎないし、そのようなレイアウトやタイポグラフィーの「遊び」は、もはや陳腐ですらあるが、実際に「読む」にあたっての余分な作業(本をぐるぐる回す、漢字を検索するなど)が要求される点で、有効ではある。

 だが、何かが落下するから、活字も落下しているように見せる、というようなグラフィック的操作を誌面に再現するためだけに、読者に対してそのような作業を強いるのは、専制的過ぎると思う。何かを強いるのであれば、それなりの充足が与えられるべきだ。

魚を出せば、そこに詩がある(そうなのか)。(p.31)

 は、小笠原鳥類さんが魚の存在に「詩」を見ているということだ。われわれ一人一人が宿命のように「詩」を見出してしまう具象物があるのだとすれば、自分は何があてがわれているのかを探ってみるのも楽しい。

おわりに

1昏睡季節 の章は以下の文章で終る。

「睡眠・昏睡そして夢が死への接近になり、おかねはゲロのような価値のものになる空間が、詩である。ふくらむ卵が出てきてそのあとの吉岡実の展開を告知しているし(告知でしかないが)、ねこの耳がコウモリのようでもある。はじまってきている。」(p.32)

 われわれの存在は「死」に根差している。これを「誕生以前」と書いても同じことだ。そしてゲロとは、生体の消化器官における余剰の排出、解毒活動であるととるならば、人間の経済活動における経済恐慌、貨幣の遺棄活動に相当する。

 と、「詩」は存在の根源に迫る貨幣経済とは相容れないものだと読み替えることにおもしろみはないが、この文もまた、なにかしらの「本歌取り」になっているのかもしれない。

つづく