望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

即身仏と割腹 ――速度と重力について

はじめに

『身体の宇宙誌』のメモを作っている。以下は再読を始めたばかりのころの感想文。

 『永い屁(自作小説)』では、明確に「即身仏」を打ち出すこともなく、したがって「即身仏」の速度、つまりは肉体の速度から逃れるために必要な自由落下に関することについての突っ込みが足りていなかったと感じたのがその理由で、参照すべき本命はやはり、「空海」さん、なのである。
 肉体からの離脱=解脱=肉体ならぬ身の獲得、若しくは変異において、重要となるのは、重力であり音であると、わたしは考えている。そして、離脱速度に関していえば、本書筆者は「超高速」「光速に縛られない速度」「即=ものすごく速い」など、古今東西の様々な文献から引いて、その速度と身体離脱、すなわち重力圏からの離脱を、即身仏において捕らえようとするのであるが、わたしはむしろ、その速度とは 「可能な限り遅いこと」こそが必定であると確信している。
 なぜなら、「離脱の彼岸」には、「速度」などそもそもありえないのだから。
 ということで今後しばらく、勉強が続くのである。

 

 そして読み終えたところで、本書では、加速のほかに減速についても深く考察していたことが分かった。また、私が書いていた小説のモチーフがほぼ、本書に網羅されていたことも判明した。(この件については以前このブログに書いた)

 

mochizuki.hatenablog.jp

  そして、再読後、メモを作り始めた当初の感想文がこちら。

 読み終えると、付箋がすごいことになっている。
 私は「声=音」をやろうと思っているが、それは「喉」でもあり「耳」でもあるというということを抑えなければならなかった。空海さんから道元さんを。そして聖徳太子さんから親鸞さんを。『耳なし芳一』の解題はとても示唆的だった。
 霊はまず耳に入ること。見えないものとしての音の神聖さについて。確かにそうだと思う。
 「光」とは「音」ではなかったのか、と私はいま考えている。音とは空気等の振動によって伝播する。だから真空中では音は鳴らない。だが鳴らない音も実は存在しているのではないか。光の広がり=空間、なのではなくそれは、太古の「音」が押し広げていく空間なのではないかと。
 それは、空間という視覚的な広がりがもたらす絶望的な距離を一瞬で詰める可能性をもつ音であった。音は接触であり接触とは距離0にほかならないからだ。光の速度を上限とするこの宇宙で、そのような限界に縛られない音が、まずあり、いまもある。
 私はそんなことを考えている。非常に有意義な読書だった。 

 

今回は、メモの続きである。(以下、失礼ながら、人名敬称略とする)

 即身仏

 即身仏と割腹。端的にそれは、空海三島由紀夫である。

 空海は解脱に際し、密教的「加速」を重視する。それは体から心臓、脳へ上昇し蒸発するイメージである。つまり、意識から超意識への変容といえるだろう。意識は体を離れて光の速度(を越えて?)まで加速でき、絶対的隔たりを詰めて「全」に飛び込み一体化する。肉体を捨てた魂としてであれば、そういうイメージを喚起することは可能だと思う。

 だが、即身仏は、身体を捨てない。

 わたしには「即身仏」と「加速」とがそぐわないように思われた。体を捨てるのであれば、残された体は有機体として分解されて朽ち果てればよい。だが、即身仏は、有機体である体を、断食や水銀摂取などによって無機体へ変容させるプロセスでもあり、その変容はひじょうに「遅い」からである。

 本書は、上昇する「人間神化」と、下降する「人間自然化」という二軸を立てている。「人間神化」は、密教、カラバ、ブラバッキー、シュタイナー、などの試みた方法であり、主に「精神」を調教するために「肉体」を制限するものである。

 一方,下降する「人間自然化」は、禅、グルジェフなどを例としている。

 ちなみに、錬金術、練丹術などは、現在の身体のままで「不老不死」を求めるものであり、「我を脱する」「新たな階梯を希求する」という「我の解体」を否定するものである。ただ、身体を薬物等によって変容させていくという点で、身体を「機械」「物理的物体」ととらえる視点をもつことは、前者双方と一致する。

 さて、即身仏は「速い」のか「遅い」のか。

 そもそも、「即身仏」は空海の一世一代の(とはつまり、久遠の刹那としての)、一大興行であったと私は思う。

 最澄が「天台一乗・本覚」を示したように、空海は「即身仏」を提示した。これらはいづれも、「極端」であり「無茶」である。もちろん、無茶を承知でそう説いたのだ。

 上昇、下降という観点からすれば、天台の「草木国土悉皆成仏」は下降による「人間自然化」ということになるだろうか(要勉強)。ひたすら念仏を唱える機関となり、宇宙のすべてがみな同じであってそれはすべて「仏」だと感ずる。
 このような宇宙観においては、即身仏などという「有機体という儚いモノを無機体(化石・鉱物)という永遠を象徴するモノへ変質させ、仏の在ることを顕現させる」というショーは成立しない。そんなことをせずとも、人々は、宇宙はすでに「悟っている」のだから。

 私は、空海の「即身仏」という道化に、空海の「憂慮」と「本気」とを感ずる。それは磔のイエスであり、復活したキリストである。人々は分かりやすい奇蹟を求める。保証を求める。念仏だけで救われる。そう信じるに足る何かを求める。それは「信仰」であり「帰依」である。『見ないで信じるものは幸いである』とイエスは言った。だが、空海は「見ないで信じる」衆生ばかりを想定しなかった。だから、時間をかけて身体を「奇蹟」としてこの地へ残す方法を選択した。解脱と輪廻の中途に留まる「菩薩」のあることを体現したのであった。「人間イエス」と「神イエス」の中道に、空海即身仏は永続する。見ないで信じることのできない迷える衆生へを導くために。

割腹

 一方、三島由紀夫は、空海よりも断然「スピード派」であった。憂国の徒は、ボディービルにより身体を鍛え、小説によって精神を具現化し、それを実践する肉体として、団結、決起する筋肉として唯物的に存在しようとした。空海が「永遠」によって衆生を導こうとしたのに対し、三島は「インパクト」によって民衆に自覚を促した。無論、インパクトとは「瞬時的加速」である。

 三島は身体をもったまま重力に抗おうとした。そのための筋肉だった。もしかしたら重力を堪能しようとする筋肉だったのかもしれない。重力が宇宙の彼岸にあることを三島はF14のコックピットで、重力に翻弄される自らの圧倒的小ささと、その小さな肉体が感受しうる圧倒的な宇宙のありように、はげしく身悶えただろう。

 三島由紀夫の「憂い」を私はよく知らない。だが、その割腹が「道化」「劇場型」などと揶揄された風潮は知っている。割腹は体を損なう行為である。それは即時、火葬され骨となって埋葬され、人目から隠される死である。

 三島もまた、空海と同様、「体」の存在感に賭けたのだと思う。空海とはまったく逆の方法で、同じことを伝えようとしたのだと思う。空海の時代にマス=メディアがあったら、そして三島の時代にSNSが発達していたら、両者はまた違ったアプローチをしたのではないかと思う。

重力について

 身体は重力に抗うことができない。とくに命の失われた体であればなおさらである。では、重力は体を縛ることができるだけあって、精神は重力の制限を受けないのか? だが、体と精神とは不可分なのだ。精神とは脳という身体の結節点に生ずるサーモスタット機能であるにすぎない。いかに複雑そうであっても、この身体があってこの精神が生ずるのだから、即身仏も割腹も、その時点で精神と肉体とが分離され、精神が「解脱」もしくは「輪廻」へ誘われるなどというイメージ自体が、すでに重力下の思考なのである。

 念仏もヨガも座禅も荒行も薬物も、身体と精神とを擬似的に分離する方法であり、つまり重力からの解放を求める行為であった。浮遊感。自由落下による浮遊感。スカイダイビング、ジェットコースター。

 だが、そこには大気の抵抗がある。

 宇宙へ?

 だが宇宙服という生命維持装置は、よりいっそう「個」を束縛してしまっているように思われる。

おわりに

 「無重力化の宗教」がどのようなものか、私は今、とても関心をもっている。そこに「即身仏」はあるか? 「割腹」はあるとしても。