望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

書字はなぞるを反復する ――『美しい痕跡』のごく一部の感想

はじめに

twitterに流れてきた本書。

f:id:miyakotamachi:20200428174824j:plain

『美しい痕跡』手書きへの賛歌 フランチェスカ・ビアゼットンみすず書房

 私は「手で」(わざわざこのような副詞で修飾することが必要な時代である。本書内ではこれとは別に「紙の」という新しい名詞についても紹介されていた。「手で」もまた、「手書きの」とか「手で書いた」と名詞化され、いわゆるhandmadeと同じような価値観を付されることになるのだろうか。そうなれば手書きよりも「肉筆」という言葉のほうがより、凄みがあって私は好きだ。「私のノートは肉筆です」というと、なんだか、よい位置に朱肉の印鑑が押してありそうな気がしてくる)ノートを書くのが好きだ。

 だから、「手書き」に関する本はつい目を通したくなるのだが、本書に関しては、著者がベテランのカリグラファーということもあり、きっと作品図版もたくさん含まれているであろうとの期待もあって、購入にふみきった。

 読んでみると、作者はいわゆるITテクノロジーを否定するわけではないけれどもと断りながら、「手書き」から離れることで人間と人間社会から退化し、鈍磨し、失われしまうものを指摘し、「手書き」は、高速化と効率化を目的として「キーボード」に取って代わられるものではないと、主張している。(「不便益」という学問にも有意な内容ではないかと思われる)その際、ITなんて大嫌い、という強い思いがそこここに露呈し、幾分フェアではないなと感じられる主張も多い。(メールにだって気持ちは篭められるだろう。絵文字とかあるし) だが、「手書きへの賛歌」と副題をつけているくらいなのだから、それも当然、というべきだ。

 私だって、「手書きが好き!」といいながら、キーボードをたたいて、このブログを書いているわけだし、IT技術の恩恵を一身に受けているのである。

 私が思っているのは、「手で書く」体験は、「手で書く」体験でしか体験できない、ということであり、その体験はとてつもなく豊かだと感じている、ということである。

発語

 哲学的には、発語に重きが置かれているようだ。そちらのほうがより「根源的」だということだろう。

 現在読み進めている中沢新一さんの『レンマ学』もちょうど、「言語」に関する章に入っていて、そこではまず「生成文法」と同時に「音声言語(響き)」が取り上げられている。

「人はどのような響きも発することができるが、言語の響きとして限定された音のみを発する」というような記述がたしか、あったと思う。
 また、生成文法についても「構造として人は無限に続く文を生成できるが、それが意味を成すか、無意味であるかは無意識が瞬時は判断できる。その意味にかかわるのは通時性だ」というような記述がたしか、あったと思う。

 これらを読んでいると、『エコラリアス』と『どもる体』が想起される。それらについては以前にブログで書いたことがある。

 

mochizuki.hatenablog.jp  

mochizuki.hatenablog.jp 

 発語のプロセス(響きの制御)は、肺から唇までのあらゆる発声器官を繊細に調節しなければならない。
 我々は、人体解剖図のようなものを用いてそのような訓練を行ってはいないのに、一応、言葉の響きを真似ることができている。

 周囲の人間が発している響きには意味があり、自分もその調べを奏でられるはず、という確信が、幼児にはあった。私はどもるし、発語に難があるので、それこそ顎や舌の解剖図を用いて、響きを捏造する訓練を行ったりもしたが、それは、英語の発音を練習するのに似ていた。

 と、今回のブログでは発語を掘り下げようとするのではなかった。

書字

 どのような響きも発することができるが、言語を学ぶことによって不必要な響きは抑制されるということ。それは書字でもまったく同じだと私は思った。

 話すことに比べて、字を書くことの、なんと厳しい訓練の日々を送ってきたことか。書き取り帳、習字、漢字ドリル。発語と字をマッチングさせ、その形を覚え、効率的に書くための運筆を、徹底的に叩き込まれた。

 そのような訓練をするまでは、我々は、どのような線でも書けた…… とはいわない。なにしろ、幼いころは自分の体を繊細にコントロールする機構そのものが未発達だからだ。むしろ、文字を練習することによって、このような運動感覚に鋭敏さと繊細さとが備わってくるのではなかったかという気もするのだが、とりあえず、平仮名、漢字、アルファベット、アラビア文字、など異なる文字の訓練を経た人々は、運動感覚に違いが生じているだろうし、それぞれが普通に「言語」ととらえているその記号が、が外国人には「記号」としか見えないだろう。

なぞること

 音声は真似ることで習得する。

 文字もまた真似ることで習得する。さらに文字は紙の上に痕跡として残るものなので、なぞることもできる。

 習得後、発語(声)は「真似る」という感覚は失われてしまうだろう。発語するのに、いちいち舌の位置や口腔の開き加減などを意識することも(通常は)なくなるだろう。思考が無意識に迸るのと同じく、発語の制御もまた無意識に行われる。(思考が無意識に行われる、というのは我ながらおもしろい。こんど考えてみよう)

 だが、書字は違う。書字はかならずなぞっている。いつになっても、ノートに文字を書くときは、頭にその文字を思い浮かべて、それをなぞりながらしか書くことができない。キーボードは「発語」によって打鍵している。だから、キーボード入力とは発語に近い。だから、「手書き」とはまったく異なる体験なのだ。

書字がどもる

 現実のペン先と脳内に投影された文字の意識している部分とが食い違うと、文字は乱れたり、化け物のような文字になったりする。私はこれを「書字がどもる」と読んでいて、頻繁に起こる。それは、なぞるべき文字の形が、きちんと用意されていない場合と、用意されてはいるが、文字のなぞるべき部分にをきちんとフォーカスすることができない場合、意識が響きにもっていかれて(私は黙読ができないタイプなので、必ず脳内で発声をしているため、その無音の脳内音声の響きに流されて)、同音異字の筆順で指が勝手に動いてしまっていたり、漢字で記すのか、平仮名で記すのかを決めかねたまま、ペンを動かしていたり、などによって発声する。

 書字は、発語ほど無意識化できない。つまり、それほど「意識的」な「運動体験」なのだ。

おわりに

 書字はなぞることしかできない。だから書字は徹底した反復体験なのだ。それでなければ、これほど沢山の「言葉」を記憶し続け、想起し続けることなどできないだろう。キーボードは書く機械ではない。だから、言葉を忘れていく。だから、忘却を補う辞書を完備する。キーボードは発語を文字化する機械だからだ。

 手書きの体験は、手書きでしか体験できないとは、そういうことである。そして、言語にとっては、発語よりもむしろ、書字のほうが、人間の肉体にとってよほど大きな影響を及ぼすのではないかと、私は考えている。

f:id:miyakotamachi:20200428191243j:plain

『美しい痕跡』読書メモ