望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「どもる体」 ―吃音と抑圧

はじめに

twitterで見かけて「読もう」と決めていた本を読み終えた。

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医学書院/書籍・電子メディア/どもる体

 私がこの本を「いいな」と思ったのは「吃音」を「言葉の問題」ではなく、一貫して「体の問題」として扱っていたところだ。

 作者は「こころと体という二元論を、あえて復活させて考える」のだと断りをいれていたが、私には、この作者の態度こそが「心身二元論を出た」ものであり、「こころ(この本では、思うこと、感じること)」と「発話器官(=体)」とが切り離せないものであることを明らかにしていたと思う。

発声という運動

 身体は反復する運動をマクロとして小脳に記憶し、以降は、あたかも不随意運動ででもあるかのように、繰り返すことができる。逆上がり、自転車に乗ること。など。

 しゃべるときに、適切な「音」を、次々に発生させるための発声器官の滑らかな調整と連動もまた、フィードバックによってパターンを獲得し、オートメーション化された運動である。
 「話し言葉」を発達させる時期は、歩行などのその他の運動発達が一時停止するという。「しゃべる」とは、それほど、脳を駆使する必要のあるたいへんな運動なのだ。

 しゃべりたい=言いたい言葉→しゃべりはじめる→次に来る音を次々と先読みしながらモーフィングする発声器官→絶え間ない調整

1.連発

 吃音の最も原始的な形。意図的に再現することは不可能なほどの速度で同じ言葉が続けて出てくる。

 連発には「滑る」と「詰まる」の二種類がある。

滑る

「滑る」連発は、体の力が抜け、息を楽に吐きながら、まるで、トゥルルルルルという口遊びでもしているかのように、連打する。

「The way way Talk」という映画の予告編で、自身も吃音をもつ監督マイケル・ターナー氏の、息継ぎを挟んだ8秒間続く30回のtの連打を聞くことができる。それは、もはや音楽である。

■18頁
《彼にとっては、スキャットは自由にどもる方法だったと言います。吃音の「バグ」が、いわば自動生成的に発展したものが、あの高速スキャットなのです。》
スキャットマン・ジョンの高速スキャット
 Scatman (ski-ba-bop-ba-dop-bop) Official Video HD -Scatman John

 【https://www.youtube.com/watch?v=Hy8kmNEo1i8

■67頁
《『The Way We Talk』の予告編をネットで見たのですが、そのナレーションでも頻繁にどもりが生じていました。たとえばその冒頭、ナレーションは約8秒間にわたるtの連発から始まります。》
マイケル・ターナーの「t」の連発
 『The Way We Talk』予告編ナレーション

 【http://www.thewaywetalk.org/

「滑る」連発は、オートメーション化され、次々とモーフィングして続く音を形成するはずの発声器官がエラーをおこし、一つの音を連発させているものと考えられる。破裂音ー母音ー破裂音と続く言葉の、最初の破裂音で、次の母音に移行することができず連発するパターンが多いというが、それが決まった要因というものでもない。同書に登場する高嶺格さんは、「言葉ではなく、肉体が伝わってしまう状態」だと喩える。
 本来「音声、音」として現れるはずの「音以前」の肉体が、発声器官のエラーによって、じかに露呈しているのだと。

 このとき、本人はこの状態を「傍観」するしかない。
(※フロイト:ヒューモアに不可欠な視点変更)

 私自身、吃音者であることから、本書に登場する8人の吃音者の方々の吃音に対する姿勢には、考えさせられるものがあった。私には、彼らほど自らが「吃っている」状態を、客観視することはできない。「しゃべる」ときにはそれを聞く相手がおり、その相手に与える印象というもに、私自身が常に縛られるからだ。

 私が吃っている状態は、たとえるなら「乗馬していて、馬がみんなの前でゆうゆうとおしっこをするのを、見られながらじっと待っている状態」といえる。私と馬とは一体なので、飛び降りて逃げ出すことはできないのである。

詰まる

「詰まる」連発は、タタタタタタタタ、ではなくッタッタッタッタッタッタッタと、撥音のようになる。この小さな「ッ」は、詰まってしまった音(=息)を無理やり体外に出そうという、意思によるものだ。

 私の感じとしては、「滑る」連打の場合、次の音は用意できているが、その手前の音がコケ続けている状態で、「詰まる」連打は、その言葉を外に出すことを、頑なに拒んでいる状態なのだ。動かなくなったオートマのギアを、力いっぱい押している(引いている)感じで、たいへんに苦しい。何とか音をだそうとして、表情がゆがんだり、手や体が動いたりするから、余計「ヘン」に見えてしまうだろうと気になる。

両者の感覚的違い

 「滑る」連発は、会話に自然に入り込んで、後では印象に残っていな。(聞いている方は、たいへん気に障るかもしれないが)。

 「詰まる」連発は、とても後を引く。結果、いいたかった言葉がいえなかったりすると、自分が駄目なヤツに思えてならない。(だから私は「書く」ことが好きなのだろう)

伸発

 本書では連発のバリエーションとして扱われている。ちちちチーーーーイ!というように、連発の区切りの前に、音が引き伸ばされて強く終わるという症状だ。
 これは、「これで連発を終わりにしてやる!」という覚悟の表れだ。いい加減、力づくででも、ひきずりだしてやる!という強い思いが、強性の引き伸ばし音となる。

 だが、これで次の音が絞りだせることはマレであり、仮に搾り出せたとしても、疲れしまっているので、その次が続かない。それでも、「連発」をとめたい。という思いが、伸発を起こすのである。

難発

  難発は、音が出てこなくなる症状で、連発を恐れる気持ちが無意識に発声を抑圧することによって起こる。つまり、慎重になりすぎるのである。(吃音に段階があると、知ることができたことは、私には大きな成果であった。)

 吃音者でなくとも、なんらかの告白や、衆目を集めたところでの第一声や、かけるべきことばが見つからない場合などに、この難発に似たような経験をすることだろう。

 吃音者の難発には、連発に対する「恥」「恐れ」の意識がある。それは、親、友達、教師、などから指摘されるからというばかりではなく、自分自身に対する苛立ち、という心理状況からも起こる。
 この抑圧もまた、無意識層に刷り込まれてしまうため、オートメーション化された発声器官のエラーをオートメーション化した抑圧がブレーキをかける、という二重性を持つ。

金閣寺』(三島由紀夫さん)の主人公が、この症状を詳説している。

 お笑いなどで「噛む」という状況がよく起こる。ここだ。というタイミングで突っかかってしまう。など、発生時の心理状況はとても似ているのだが、あくまでも「噛む」のはミス。であり、「吃音」はエラーであるという違いは抑えておきたい。

フィラー

 本書の後半で、言葉を出やすくするための波を作る作用があると思われる、「あのー」「そのー」「えっとー」「えー」などのフィラーを紹介しているが、吃音をコントロールする手段ではない場合に、これらの言葉を使う場合というのは、次に言うべき言葉を模索しているときだろう。
 吃音の場合でも、連発を防ぎたいが、難発の堅苦しい沈黙も避けたい、という場合に、「あのー」を用いことが多い。そしてこれらの言葉を頭につけることで、発音がしやすくなったという成功体験が重なれば、「口癖」としてこれらを用いることが増えていくだろう。

 この「口癖」ととられることを、「吃音による自我のゆがみ」と考えるならば、これもまた次に紹介する「言い換え」のバリエーションということになるだろうか。

言い換え

 吃音者は、吃もりそうな言葉(音)を、経験的に予知できる。明確なリストがあるわけではなく、一度発声できれば次からしばらくは大丈夫という場合もあり、「吃るかも」と考えたせいで、本当に吃る、というマイナス要素もなくはないが、話している途中で、「あ、この先この言葉を使うことになりそうだが、これはいい難いぞ」という警戒信号を感じるのは事実である。(これはもう、予感とか予兆とか、シックスセンスともいえる感覚である。これが解明されれば、もしかしたら「吃音」のメカニズムの一端に近づけるのかもしれない。)

 そこで、連発→難発の次善の策として、「次善の言葉」に言い換えるという技術を身につけるのである。

 言い換えには、「類語辞典」型、「国語辞典」型(単語そのものではなく、冗長にはなるが、その意味を話す)「指示語」型「質問」方(相手に聞いて、その答えを「それなんだけど」と借りてしまう)などがある。

 本書では、この「言い換え」を「個性の封殺(抑圧)」と考える人と、「言い換えもまた個性である」ととらえる人の、両方を紹介していた。

 冗長になりすぎて、間をはずす。絶対にコレと言いたかった言葉が使えない。などという問題を気にするなら、「言い換え」を封印し、「連発」「難発」をものともせず、一語に賭けたいと思うだろう。だが、そういう人であっても、「会話」という社会性をかんがみて、「相手に無駄な時間を使わせるわけにはいかない」という理由から、「言い換え」を採用する、折衷タイプも紹介されていた。

 またしても私事となるが、私は吃音に加えて、発音に障害もありとくに「キ」と「チ」の発音が、不明瞭である。息を口腔内のどこを通せばいいのか、舌をどの位置におけばいいのかが、わからないまま、最も「キ」「チ」に近い音が出るであろう位置で発音する。スピードワゴンの小沢さんに、若干この傾向がある。これは自分で話している分にはさほど気にならないが、録音した自分の声をきくと、とても耳障りであるから、おそらく私の周囲の人は、この居心地の悪さに耐えてくれているのだ。真に申し訳がない。

 そこで、「キ」「チ」が入っている言葉は、なるべくそうでない言葉へ言い換えるように心がけている。「きちんとしなさい」→「ちゃんとしよう」「ケンタッキーフライドチキン」→「ケンタ」「秘密基地」→「秘密の隠れ家」これは吃音だから、というわけではなく、言葉のリストも明確だ。だが、言い換えとは、その多くに場合「聞き手の立場を思いやる」態度であるといえる。

 本書では、言い換えを「体との関係をつなぎなおす」と表現していた。

おわりに

 本書では、この後「ノる」「乗っとられる」「リズムとは拘束か解放か」という、ひじょうにおもしろい論点へと入っていく。

 とくに「拍子」をガイドとして、しゃべりに「リズム」を与えることで、吃音が出なくなるという事実、に関する論考については、文学、哲学からの豊富な引用がひじょうに興味深い。

 また、「ノる」とは「中動態」の状態なのではないか、と思わせる部分や、パターン→カテゴリー→拘束、といった、非常に興味深い展開もあるのだが、その点については、「吃音」そのものからは少しズレてしまうので、稿を改めたいと思う。

 また、手書きで書いているときの「指が吃る」感覚についても、後日考えてみたい。

 最後に、おそらく私が小学校就学前から低学年の間に、通っていた「ことばの教室」に関連していたと思われる団体(考え違いかもしれない)についてメモしておく。当時は、「親の耳が吃音を作る」など、親から子への抑圧などを重視していたように思う。私が積み木やボードゲーム、トランポリンなどで遊んでいるあいだ、母は別室でカウンセリング的なものを受けていたようだ。(現在ではこの考え方も否定されている)

「言友会」(1966年発足。設立者 伊藤伸二さん) 日本最大の当事者のセルフヘルプグループ。1976年「吃音者宣言」では、吃りとの共存をうたい、個人、社会の双方への啓蒙、働きかけを行うとした。

以上