望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

何をくれるの? ―千日回峰行達成のニュース

はじめに

 ニュースでやっていて、こういう映像が流れていて……

www.youtube.com

で、こういうものがあると聞いて……

www.hieizan.or.jp

何だこれ? と思った。

千日回峰行

千日回峰行は、平安時代延暦寺の相應和尚(831年~918年、一説に~908年)により開創された、文字どおり、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。
法華経のなかの常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものといわれており、出会う人々すべての仏性を礼拝された常不軽菩薩の精神を受け継ぎ、回峰行は、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝して歩きます。
行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠をいただき、生死を離れた白装束をまとい、八葉蓮華の草鞋をはき、腰には死出紐と降魔の剣をもつ姿をしています。生身の不動明王の表現とも、また、行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束ともいわれます。

千日回峰行|比叡山延暦寺 皇城表鬼門 赤山禅院 より

ポイントは二つ

これによれば、「常不軽菩薩」という人の精神(①)と、山川草木ことごとくに仏性を見出す(②)というのがポイントらしい。


①常不軽菩薩さん

正法が滅したのち、一人の菩薩が現われた。人びとはこの菩薩を常不軽 じょうふきょうと呼んだ。というのもこの菩薩は、相手が男であれ女であれ、 僧であれ在家であれ、人を見てはみな礼拝し賛嘆してこう言ったからである。『みなさん、わたしはあなたがたを敬います。 軽んじません。なぜなら、あなたがたは菩薩の道を行じて、仏となるからです』こうしてこの菩薩は、経典を読誦することなく、 もっぱら人びとを礼拝するばかりであった。会う人ごとにこのように言うので、人々は怒り出し、しまいには棒で打ち石を投げる 有様であった。しかしこの菩薩は怒ることなく、逃げ出して遠くに行くと振り返って、『あなたがたを敬います。軽んじません。 あなたがたは仏になります』と遠くから大きな声で言うのであった。こうして人びとはこの菩薩を常不軽と呼んだのである。

要約法華経 常不軽菩薩品第二十 より

 法華経では、出会う人出会う人みんなに「ありがたいありがたい。あなたは仏になられる方だ」と礼拝したということです。迫害されても遠くまで逃げて逃げたところで、「ありがたいありがたい」と礼拝し続けるということです。

 なんだか、川端康成さんの掌の小説にでてきたバスの運転手みたいですね。

常不軽菩薩は死期に際して、虚空に法華経を聞き、それに帰依して長い寿命を得て、法華経を説いてものすごい数の人を涅槃に導いたそうです。つまり、

常に人を軽く見ないという行⇒仏教を説く⇒大勢を涅槃に導く。という流れです。修験道は独覚でしょう。それを大衆に伝え、サポートしてこそ大乗です。

※導くというのは、法華経の教えを説き、それを自ら学び帰依した衆生が悟った。ということだと思います。他力本願ではない、と私は考えます。

②仏性

仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。

しかしどの仏典でも同様に説かれたわけではなく、さらに時代を下った後期に成立した大乗経典であり、法相宗が所依とした『解深密経』などでは、衆生には明らかに機根の差があるため誰もが成仏できるわけではない、『法華経』が一乗を説くのは能力のない衆生が意欲をなくすのを防ぐための方便である、と説いた。(中略)

上記のような各仏典の成立の前後関係が判明したのは、近代の科学的な史料批判の後である。 それ以前においては、仏典の前後関係及び価値の軽重は、宗派的視点により決められた(教相判釈)。 特に有名なものは、天台宗智顗による五時八教の教相判釈である。智顗によれば『解深密経』は『法華経』や『涅槃経』より以前に説かれた、古い教えである方等部の経典で権大乗(仮に説かれた方便の教え)であり、『法華経』に導く手前の教えとした[注 1]。すなわち、五教八時では『解深密経』よりも後に説かれたとする『法華経』や『涅槃経』を優先し、一切衆生悉有仏性説こそ正しいとした。この点では、上記の現代における研究の結果である『解深密経』が『法華経』よりも遅い成立であるとする考えとは一致していないことになる。

さらに日本の天台宗では、仏性を衆生人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え一切悉有仏性(いっさいしつうぶっしょう)までが、後世に生まれた。

日本仏教では、奈良仏教法相宗等)は全体として成仏への道程は人の機根に応じて違いがあるとするのに対して、平安仏教天台宗真言宗)では悉有仏性説(しつうぶっしょうせつ)を説いた。

仏性 - Wikipedia より

 山川草木に仏性あり、いわんや生類にや。という感じでしょうか。仏性の問題は、時代、宗派によって異なっているようです。(私は、全部になくて、全部にないこともない(『ブッダの方舟』より)のだと思います。)

何だこれ? ポイント

人に会わない修行

常不軽菩薩さんに関しては、「人」であったと思うのです。なので、人と出会うことのない、山の中をぐるぐる回る修行が、「常不軽菩薩さん由来」と書かれているのが、腑に落ちません。

かのブッダさんも、最初の説法では動物が相手だったそうですから、そういう点で、まずは、草木から、ということでしょうか?

すごい人たち

 ストイックに自らを高めるために体と精神をいじめぬいて、その先にある「超人的境地に至る」のが偉いのなら、体操の内村さんとか、将棋の羽生さんとか、野球のイチローさんとか、自転車の中野さんとか、レスリングの吉田さんとか、ウルトラマラソンの間さんとか、いろいろいらっしゃいます。

失敗には死を

 上記引用の中にある『行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束』をもって、この行に挑むのだという点。

 常不軽菩薩は、危険があれば安全なところまで逃げるんです。そうしなければ、その先、人を拝むことができなくなってしまうからです。ここが大切な点だと、法華経の解説書かなにかで読んで、感心した記憶があります。

 なのに、この修行はその真逆をいっているところがね。失敗したら、死ねって……

ありふれているのにみつからないもの

 そして、悉有仏性ていうくらい、みんなに備わっているはずの仏性なのに、こんな「失敗には死を」みたく修行しないと、どうこうできない代物だったら、もう無いのと同じではないか、と思うのです。

 

何を持ち帰るのか

講演会の呼物

 先ほどのアスリートの方々の講演会なら3,000円から7,000円くらいはとりますか?なら、千日回峰行者による特別祈祷 2,000円なら、とっても良心的ということになりますか? お坊さんはよく、講演会やりますし、お葬式なんかでもお布施はたくさんもらうでしょう。特別祈祷なんかよりずっとたくさんお金とるのではないでしょうか?

祈祷より説法では?

 これだけの荒行を成し遂げた方が、迷妄する衆生を、涅槃へ導く指南をしてくださる、というのが大乗仏教としての還元だと思います。

 荒行の結果、ご祈祷するだけで、無知蒙昧な私たちを極楽へ送ることができる、などという神通力を授かったとでも、いうのでしょうか? それこそ、「カルト」の構図ではありませんか? Mr.マリックさん(彼も偉人の一人です)が見せてくれる奇術と、同じではないですか。

おわりに

やらなくてもいいことを勝手にやってるだけ

 凄い修行を成し遂げた。それは素晴らしいと思います。ですが、別にやらなくてもいいことではないのでしょうか?(24時間テレビのマラソン的なアレ)

 他力本願による解脱という、フィクションを、もっともらしくみせるため、送り手と受け手とが結ぶ共犯関係。そんなユルユルな設定に酔えるほど、素直ではないのです。

(この行が、私の知らぬところで、この世界を、救済しているのだとしたら、謝罪します。ただ、ちゃんと説明してもらえないと、そんなことがあるって、分らないんで)

期待すること

 仏教で、現世をどこへ導くことができるのか?

 中沢新一さんは、本を書いたり、講演会をやったりしていて、それらはとても、豊かで、仏教の可能性(世界の可能性)を感じさせてくれるおもしろいものです。

この荒行を通じて体得したことが何で、それを、どのように下界に広めるのか?

私にとって興味があるのは、そこだけです。(偉そうで ごめんなさいね )