望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

高校生らしさとは -青春舞台2017

はじめに

 実に久しぶりに「青春舞台」のテレビ放送を見た。やはりよかった。

 野球と高校野球とが違うように、商業演劇と高校演劇とは違う。

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 そして、いかなる「高校○○」よりも、より「今、ここで、高校生であるということ」と向きあわねばならない高校演劇の世界では、演劇部が何を表現しようとし、その過程で何を掴もうとしているのかが垣間見られるのだと思う。

 放送において、各校における取り組み方や、それぞれの部の事情などを紹介していたが、こういうドキュメンタリーはありがたい。それは時として(というかほとんどの場合)上演作品よりもおもしろく、興味深いものだから。というのが今回のブログとなる。

問題意識

 放送では、各校の演劇についてのあらすじが紹介され、私は優秀校以外の演劇を、そのあらすじ以上には知らない。

 エントリーした12校を概観すると、「震災」「戦争」「ジェンダー」「コミュニケーション不全」「貧困」といったいわゆる「大文字の問題」を扱ったものが目立つ。

興味深い演目 

 それらの中には、見せ方として興味があったもの「彼の子、朝を知る。(岐阜県立加納高等学校)」、「流星ピリオド(埼玉県立秩父農工科学高等学校)」、演者の魅力で見たいと感じたもの「白紙提出(茨城県立日立第一高等学校)」などがあった。

リアルさの後退

 だが、先に書いた「大文字の問題」に取組んだ作品には、どうも入り込むことができないように感じる。それがいかに高校生達にとって「リアル」なものであったとしても、「○○問題」として括ってしまうことで、「一般的な問題」へと後退してしまう気がするからだ。

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メタ演劇として

 学校紹介の中で、「不登校だった生徒が演劇部の美術に卓抜した力を発揮したが、コミュニケーションに悩み再び学校を休むようになったが…」という学校(明誠学院高等学校)がある。正直言って、私はこの学校の作品紹介にはさほど興味をもてなかった。

 この演劇を彼と共に作り上げる。この目標をこの学校の顧問と生徒さんたちは果たした。それは彼らにとって有意義であり、大きな達成であったろう。しかし、演劇作品自体には、そういうドラマは全く反映していないのである。

 私は、この「演劇を作る」という過程を、丁寧に拾って、演劇にしてくれたらよかったのにと、無責任ながら感じたのだ。しかも「不登校問題」という限定を外した上でである。

感動とは

 「感動を与える」には「共感」を呼ばねばならない。それは「個人的体験・記憶」へダイレクトに接続するものであってほしい。

同感と共感

 いわゆる「あるあるネタ」がもたらすものが「同感」であり、「そうそう」という以上の展開がないのに比べて、「共感」は、個と個のより芯に近いところまで届いて震えるものだ。

一般論

 一般論に、そういう突破力はない。さまざまフィルターで加工され、より多くの者が呑み込みやすくしたものが一般論である。つまり、なるべく刺激を抑えて、まろやかにしてある。

 そこでは、「腑に落ちる」「合点が行く」「納得しやすい」という「了解」が得られるにすぎない。

個⇒普遍

特殊⇒一般

 「大文字の問題」によって自分達の「リアル」を分析すること。それによって、「個」は「特殊事情」となり「一般に回収されるべき例外」にされてしまった。

 そこでいかに葛藤しようが、たとえば命が失われようが「よくある話」に過ぎない。

 映画でも演劇でも絵画でも小説でも、私はそういうものを改めて体験したいなどとは思わない。

今ここにある現実

 まず「自分達の現実」がある。「現実という束縛」がある。だが、その束縛は本当に束縛なのか。自分達の現実とは、一体、何なのか。「問題意識」とは、それ以外にはなく、それをとことん生きている間は「既存のテーマ」などに囚われてたまるか、という気概に満ちているはずだ。

単独者の場

 自分が特別だ、と考えるのは不毛だが、自分の問題を「単独のものだ」として捉え、考えることは絶対に正しい。

 「特別・特殊」とは、例えば「この学校での高校生生活における状況」であるに過ぎない。

 だが「単独」であると捕らえるとき、それは「世界全体」を意識するということになる。

 そこは「一般論」など通用しないほど広く、多様だ。

 そういう場において、「今、ここで、高校生である自分」という状況に取り組んだとき、そこから生み出される表現は、「今、ここ、高校生」という縛りを超えた普遍へ到達しうるのだと思う。

アルプススタンドのはしの方

 最優秀賞は、『アルプススタンドのはしの方』 作:籔 博晶( 兵庫県東播磨高等学校)であった。最初の紹介VTRのときは、さほど魅力を感じていなかった。

しかし、高校野球地区予選一回戦の応援。という状況を愚鈍なまでに、丁寧に描くことで、高校野球の応援以外の多くの「事」を、リアルに表現することに成功していた。

具体的に、どういった問題を、どういう葛藤を、どういう対立を、どういう解決を、提示してのか、などという設問は野暮だ。

「事」は「切断」できない。

 私は「事」を「物」に切断して取扱うときに失われてしまう多くの事を、どのように掬えばよいのかを、考えている。「大文字の問題」とは、まさに「多くを棄てたところ」で成り立っているものだ。

部分ではなく全体を表すこと

『アルプススタンドのはしの方』は、おおよそ五回の攻撃から試合終了直後までの時間軸を、ノーカットで演じる会話劇である。

 これほど、夏の高校生に特化したシチュエーションはなく、そこでそれぞれが抱えている問題も、ひじょうに「受験を控えた夏の高校生らしい」ものばかりなのである。

 だが、その一般的状況を、登場人物一人一人のさまざまな感情のモザイクとして、丁寧に愚鈍に積み上げていった結果、「個⇒普遍』たりえたのだと考える。

 Q:全体を表現しつくしたというのなら、では、この作品のどこに、「ジェンダーが」「戦争が」「貧困が」「震災が」「その他たくさんの」問題が取扱われていたというのか?

A:そういう「部分」を、切断面において生じさせるであろう「全体」を、この作品は現すことに成功しているのだ。

 

それは、ひじょうに小説的だ(気が付けば、私は褒めるときにいつもこう言っている)

おわりに

 高校演劇に求めるものが、高校生らしさであるのは間違いない。だが、その高校生らしさとは、高校生らしくあろうとする必要の無いところで、どうしようもなく現われるものなのだと思う。高校生であることに囚われないで、自分を世界にさらして欲しい。

 そしてそれに触れて、そこから「共感」を得る、この豊かな体験に感謝する。

 来年もとても楽しみだ。

hh.pid.nhk.or.jp

データ

9月9日土曜
NHKEテレ1 午後3時00分~ 午後5時00分
青春舞台2017
2017年の夏、宮城県仙台市で開催された、第63回全国高等学校演劇大会。“演劇甲子園”とよばれ、全国2100校の中から選ばれた高校の演劇部12校が集い、高校演劇の頂点を目指す。高校生たちの青春をかけた熱き夏に密着。全てをかけて舞台を創り上げて行く姿をドキュメントすると共に、大会の裏側や、12校の舞台を紹介。また、日本一に輝いた最優秀校の舞台を、ノーカットでお届けする。【ナレーション】永野芽郁

最優秀賞 アルプススタンドのはしの方 作:籔 博晶 兵庫県東播磨高等学校


優秀賞(上演順)

流星ピリオド 作:コイケユタカ 埼玉県立秩父農工科学高等学校
白紙提出 作:磯前 千春 茨城県立日立第一高等学校
HANABI 潤色:吉澤 信吾(竜史作「文化祭大作戦」より) 沖縄県立向陽高等学校


優良賞(上演順)

煙が目にしみる 作:堤 泰之 千葉県立八千代高等学校
どうしても縦の蝶々結び 作:林 彩音・村端 賢志 徳島市立高等学校
ストレンジスノウ 作:安保 健+名北演劇部 宮城県名取北高等学校
警備員 林安男の夏 作:螺子頭 斬蔵 明誠学院高等学校(岡山)
-サテライト仮想劇-いつか、その日に、 作:矢野 青史 福島県立相馬農業高等学校飯館校
彼の子、朝を知る。 作:白梅かのこ 岐阜県立加納高等学校
学校でなにやってんの 作:北見緑陵高校演劇部 北海道北見緑陵高等学校
Love & Chance! 翻案:稲葉智己 ピエール・ド・マリヴォー作
「Le Jeu de l'amour et du hasard」より 埼玉県立新座柳瀬