この世の不思議
不思議=自然=存在
この世界にはたくさんの不思議があり、その大半は「自然=存在」に関係している。 その不思議と人間とは、どのような関係を結ぶことができるだろうか?
天の配剤
自然の傍らに過ごすほかない人間にとって、その天の配剤はあまりにも精緻であり、かつ、理解を超える。だから、それらを司る「何か」を感じ、それを畏怖という感情は、素朴な感性だと思われる。
『道徳的感性』とは
『道徳的感性』とよぶべきものがあるとすれば、それは「自然」に対する畏敬でなければならない。
なす術が無いと思い知らされ、恐怖を感じ、そこから畏敬が生ずる、のではない。
雷や地震、大量の水が押し寄せる光景、噴火。その経験が人生初であったとしても、恐怖は生じる。それとも、今の生活が失われるという感情がなければ、恐怖は生じないものだと言い切れるだろうか。
それぞれの作法
「本能」とは「理性」ではなく「感情」に訴えるものだ。
人の力の及ばぬこと、おおよそ干渉不能だと思われること。世界はそうしたもので満ちている。人々はそれらに畏怖の念を抱き、それぞれの物事に、それぞれの神があり、それぞれの作法で、この世界をあらしめているのだと考えた。
だから、八百万の神。なのである。
自分の手の届かないところで動いている巨大な力。
我々は、その力に翻弄されながら、その中に投げ出されて、暮らしている。
祈りと感謝
ひたすらに
しかし、人間はただ、雨風に翻弄されているだけではない。巨大な力をもたらす、一つ一つの神の現れを経験し、神の怒りに触れぬよう、その恩恵に預かろうとし、恵みを受けた後には、感謝の意を表した。敬意を忘れれば、神は怒り、作物を全滅させたり、村を押し流したりした。人々は神に許しを請い、なぜお怒りになったのかを真剣に考え、次からは同じ轍を踏まぬように細心の注意をはらった。
作法を学ぶ
それでも、神々の相関関係は複雑で、人智の及ばぬものである。雨乞いも効かず、疫病が流行ると、人々はただ祈るしかなかった。そして、神が与えた土地で得られる最大限の恵を受けられるよう、お伺いをたて、新たな作法を学んでいくのだ。
水の神、火の神、風の神、大地の神、山の神、木の神、竈の神、稲の神、漁の神、あらゆるものに神があり、あらゆるものに、複雑な作法があった。
相関関係と因果関係
縦じゃなくて横
八百万の神の世界を、因果関係で測ることはできない。そこには縦の関係はなく、世界を存続せしめる横の繋がりだけがある。つまり、因果関係ではなく相関関係なのだ。
インドラの網
網の目のように張り巡らされた相関関係を読み解く力が、人間には備わっていない。量子コンピューターなら? 読み解けたとしても、因果によらない関係性を、必要なだけ調整するという膨大で繊細な作業が、発生するのだ。そんなことが可能だというのだろうか?
「時間」に落ちた命
世界は相関関係によって成り立っている。人間は(というか命は)そこに「時間」の概念を持ち込んでしまうので、相関を因果としてみてしまう。だから、はるか遠方にまで繋がる相関の綱を見落とし、取り返しのつかない変化を与えてしまうのである。
それは、科学技術によって引き起こされる悲劇でもある。
技術が畏怖を駆逐する
一神教の神
八百万の神が、土着信仰的であるなら、一神教は普遍宗教的であり、より形而上的だ。つまり、思想的には高度な操作が行われている。つまり、理性的なのである。
より善くあれ
だから、一神教の神は、人類に「善」であることを求める。なぜ、その求めに従わなければならないのかといえば、人は神に負債があると考えるからである。
人は神が作ってくれた。世界は神が作ってくれた。我々は神に生かされている。生かされたからには、良いことをして、神に認めていただかなくてはならない。裁きのその日まで。
限定的で決定的な関わり
一神教の神は、ただそこにのみ関わってる。「善く生きる」ために必要なことは、人間が自ら作り出すしかない。自然はそのためにある。自然から人間の知識によって、役立つものを作り出す技術を見つけなければならない。自然を人間のために作り変える技術。
神が与えたもうた資源
一神教において、自然とは人智の及ぶ範囲のものとして神が与えてくださったものなのである。そこに神への畏怖はあっても、自然への畏敬は存在しない。
八百万の神
他人もまた神であること
この考えをつきつめるとき、実は「他人もまた神である」と気付く。
我々は、他人を、同じ人間だから、日本人だから、同じ自治会だから、クラスメイトだから、という理由だけで、意思の疎通が可能だと盲信している。だが、その盲信は、教育という鍍金から生じているにすぎない。
他者の他者性は消えない
他人との意思の疎通を前提すると、他人にたいする畏怖が消える。相手をコントロール可能だと感じるところに、畏敬などなく、欺瞞や策略、高慢や、卑下が発生する。
人は分かり合えないが赦しあえる
人は、共生するために、共同体を作り、互いの存在に心を許して、自然に翻弄されながら、感謝とともに恵を受ける。
利己心とは
しかし、共同体なしでも、生きていくことができるようになると、他人を手段として利己的に利用する心が生じた。
利己的な本能とは、遺伝子的に正しい「本能」の範疇にあると考えうるが、逆にまた、蟻や、蜂などコロニーへの帰属=我 とのあり方を見るとき、利己的であることが、同属殺しですら肯定する 諸刃の剣であることが分かる。
八百万の神の世に、人殺しの神はありや?
神でないものとは?
疑問
八百万の神において、他人もまた神として現れるとするならば、相対的な他人である自分もまた、神であるといえるのではないか?
それならば、神という対等な存在として、干渉しあえるのではないか?
神ではないもの
八百万の神において、他人が神として現れるとき、唯一、神ではないものがある。
それが「我(=利己心)」だ。
他人からすれば私は神として現れている。だが、自分で自分が神だということはできない。なぜなら、自分は自分を他者としてみることができないからだ。
形而下の哲学
ここにおいて、八百万の神の世における形而上学の否定が垣間見える。
自我とは近代において発明されたものである。それ以降、感情と理性、身体と心、私と私の存在形態、などという分離が肯定されるようになり、「物質」に属するものは「利用すべきもの」と認識されるようになっていったのだ。
ものごとは、シンプルに考えるべきだ。
自分は自分としてあり、他人は他人としてある。私は他の全てとおなじように、巨大な力のおすそ分けをありがたくいただきながら、共生する命であると。
最後に
八百万の神が感情に根ざした素朴なものであり、形而下的であることは、無知によるものだと考えてはならない。知識は智慧ではない。そのことを最大限に考え抜いたのが、仏教である。
慈悲の在り処
ただし、他人も神として現れ、畏怖をもって関係する、という場合、「慈悲」がどこに生ずるのかという疑問が起こる。
「慈悲」を、孤独(時間)に在る苦しみや悲しみを共に受け止めようとする態度のことだとするならば、八百万の神の世において、利己的であることから逃れられない存在に対する態度として現れるのだと思う。
利己的であることは「悪」なのではない。それは、性(サガ)なのだ。だから、慈悲が必要となると考えられるのではないだろうか。