望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

世界に一つだけの花 の貧しさ と金子みすゞ さん の豊かさ

オリンピック開催中

 このタイミングで、SMAPさんの『世界に一つだけの花』が話題となった。

 No.1にならなくてもいい。もともと特別なonly one なのに、
「がんばれニッポン、メダル獲れ!」って応援してる。

 ここに矛盾を感じる。そして、この歌がもたらした多大なる害悪について、改めて考えた。

only one は特別ではない

 全ての存在が、単独的であるのなら、単独的であることそのものは、なんら特別なことではない。 特別とは、一般的な仕様とは異なっているもの、ということだ。それはつまり、「一般」という指標があるところにしか、生じない。

 [特別-一般] [単独-普遍] という関係性(柄谷行人氏、『探求Ⅱ』など)を混同すると、「我」が強化され、排他的となる。[単独]を[特別]とを混同することで、「この世界にたった一つのかけがえの無い私」という誤った認識が生じ、「特別な私」と、「一般的な周りの人々」という図式に囚われてしまうのだ。

 さらに、一つとして同じものが無い、ということと、「希少価値がある」ということは、直結しない。
 例えば、この落書きだって、世界に一つしかないものだ。私が著名人であれば、その唯一無二な落書きは希少価値を見出されるかもしれない。だが、実際はそうではない。

 単独であっても他者からは価値判断の対象とされる。それは、競技による順位付けよりも過酷だ。

二番じゃ駄目なんですか?

 社会に必要とされているのは、汎用レイバーである。

 職人が徒弟制度によって特別な技能を継承してきた社会は、二世紀も前に廃れた。大資本による労働者雇用による大量生産、大量消費社会にあっては、どのような職能に対してもつぶしがきく人材が重宝される。
 そんな社会で、せいぜい個体差のレベルに収まってしまう”only one”を求められることなど、ほぼない。
 この社会で生きていく(=収入を得る)ためには、皆と同じことができ、そこで他人よりもよい成績を上げていかねばならない。それがうまくいかなかったときに聞こえてくるのが、「世界に一つだけの花」だ。

順位の無い過酷さ

 自分らしさを表現する場(=社会)には、汎用的なルールが設定されている。一つ一つ異なる個性がNo1を決するため、同じ競技に参加するとき、そこに求められるのは、単独性ではなく、特別性だ。そこでは、明確な優劣が決する。つまり、ルールの中でしか、特別な自分は見出されない。


 この歌でも、「頑張ること、一生懸命やることが必要だ」といっているのだが、「No1にならなくてもいい」のだともいっている。その選択が、No1を目指すよりも、過酷なのだということを、この歌は示していない。

 順位がつけられる過酷さより、他人から「認められるか、認められないか」という、いわば100か0かの立場に身をおく、もしくは、他人からの評価を一切無視し、孤高を気取って飢え死にする、という過酷さを選択する、ということなのだから。

癒しという自閉

 世界に一つだけの花 が放つのは、強烈な「自閉」感だ。

 皆と同じことができず落ち込む自分を、 「自分は特別なんだから、人と同じじゃなくて当然だ。他人と比べて落ち込むのことなんてないんだ。明日からまた、自分らしくがんばろう」と自己完結させる。
 そのとき、人は何かを諦めている。

 この歌の中には「他人」に対する視線が皆無で、ただひたすら「我」を強化させるのみだ。

 世界に一つだけの花 を聞くとき、この世界の孤独に震えながら、ひたすら内面へと逃げ込もうとする人の姿が浮かんでくる。

世界に一つだけの花(を様々な場所に咲かせる人)

 「No1にななくてもいい」から、一生懸命やるんだ、というほうが、社会に則しているし、モチベーションも明確だ。

 大切なことは、さまざまなシーンを持つということだと思う。

 仕事、友人、趣味。様々なシーンにおいて、自分の様々な面を発揮すること。そして人と いろいろな関わりをもつなかで、他人との違いを尊重し、自分の役割も見出して行くこと。

 一つのところで踏ん張るのではない、「種」は一つではないのだから、いろいろな場所に、自分の花を咲かせればいいのだ。

 花が自分なのではない。花が他人なのではない。それら一つ一つ違う花を咲かせることができるのが自分達で、その自分達が、様々な場所に、百花繚乱の花畑を生み出すことこそが大切なのだ。その花畑の中の花に、優劣はない。

 この豊かさが、この歌からは、聞こえずらかった。
 そして売れてしまい、害悪を撒き散らしてしまったことが残念だ。

みんな違って、みんないい

 世界に一つだけの花 と同じことをうたっている、金子みすゞさんの詩『私と小鳥と鈴と』。
 この詩は、圧倒的に豊かで、広い世界と繋がる喜びに満ちている。

 女の子は、自分は飛べないが鳥は飛ぶこと、自分は鳴らないが、鈴が美しい音で鳴ることに気付く。でも、私は、鳥とちがって、地べたを早く走れるし、歌をたくさん覚えていられる。と思う。
 ここには、嫉妬や、勝ち負けの感覚、優劣の判断があるようにみえる。

 しかし、そんな感情よりも、自分にできないことができる鳥や鈴があり、その鳥や鈴にできないことができる自分が一緒に存在していて、いろいろなことができて、いろいろな楽しいこと、美しいこと、気持ちいいことが、できる。みんなが違うこと。それはなんて素晴らしいことなんだろう。という思いに満ち溢れているのだ。

 足りないところを補い合おう、ということではない。足りないところ、なんてないのだから。私のほうが優れている、なんてことはない。私にはできないこともあるんだから。同様に、私の方が劣っているってこともない。私にはできることがあるんだから。

 私にしか、できないこと、がある。なんて、言っていない。私には、できることが、ある。それは、私は、この世界で生きているんだ、ということであり、この世界に存在しているんだ、という事実を、100%受け入れる態度なのである。

 多くのものが「単独性」をもって構成する世界の存在の一員として。人間、動物、無生物、などという区別もない。
 みんな違って、みんないい。「いい」とは、価値判断の「良い」ではない。現状の絶対肯定としての「いい」なのである。

 最後に

 世界に一つだけの花 がもたらした害悪は大きい。

 それは、有森裕子さんの「自分で自分を褒めてあげたい」から派生した、「自分へのご褒美」という自閉的甘やかしの定着、ドラゴンボールの「みんなの元気をオラにくれ」から派生する「元気をもらう」「笑顔をもらう」といった他力本願的利己主義や、「みんな、地球の裏側までパワーを送ってください!」という、日和見的な霊的パワー肯定論。ストレス理論が一人歩きした「楽しんでやりたい」という努力拒否精神のラインにある。

 楽な方へ、楽な方へ流れていく人間のサガ。

 大衆受けするものが正義だという社会では、あらゆるものが、楽なほうへ流れていく。仏教の、マニ車とか、お題目とか、その最たるものだ。人は、そのままで悟っていたり、悪人正機説だったり。

 もともと、そんなじゃ、なかったはずなんだけどな。  がんばれ、実存!"