望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『意識はいつ生まれるのか』―「いつでしょ!」

はじめに

『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』は、2015年5月25日に第一刷で、同年7月10日に第三刷までいっている、人気のある本だったらしい。

「いつ生まれるの?」「今でしょ!!」(え~~~~ 今さら……)

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……結論からいって、「いつ」には答えていません

過去の成果を批評する

 有用だったのは、直近にとりあげた「生存する意識」の取り組みに対する明瞭な反証が挙がっていたところと、どこかで取り上げた気がしているのに見つからない「ロジャー・ペンローズ」の「量子脳」についても、一言で切り捨てているところです。

 

mochizuki.hatenablog.jp 

 「生存する意識」で用いたfMRI等の検査法の場合、①失語症の問題 ②疲労の問題 ③測定不能なほど微弱な反応の場合、を上げていた。これは、fMRI測定によって「意識なし」とされた患者が後に回復する例があったことや逆に反応はあるのに回復できない例があることから検証された問題点である。

 また「量子脳」については「実証データを出せ」の一言である。

 私は、fMRIなどの場合の批判には納得できるが、「量子脳」についての批評は、少々乱暴だと感じる。これまでに触れてきた「唯物的意識存在の解明研究書」の中で、「意識の発生」の根幹を予感させてくれたのは「量子脳」だけだからだ。

 著者は、「測定できるものを測定し、測定できないものは測定できるようにせよ」というガリレオガリレイの言葉を引いている。「量子脳」についてはまだ「測定できるように」できていないのではないかと思う。だからといって「論外」としてしまうには、魅力的すぎるのだが、これまたいずれ。

有用な指摘

 本書でもっとも説得力があったのは、脳内のニューロンの数の偏りである。

 脳内でもっともニューロンが集まっているのは小脳だ。そして、それ以外では基底核だという。どちらの部分にもニューロンが規則正しく整列している。しかし、この両者がなくなっても、「意識」にはほとんど影響を与えない。だが、それよりも少ないニューロンの複雑なつながりからなる視床ー皮質系の損傷は、意識に多大なる影響を及ぼす。

重要なのは「つながり方」だ

 小脳、基底核には、その部分全体としてはたくさんのニューロンがある。だが、それぞれのつながり方は「ブロック分け」されており、横の繋がりが無い。つまり「部分」がただ近くにあるだけなのである。

 一方、視床ー皮質系は、縦横無尽に接続されており、各々のニューロンが結びつくことで、まさに「一」つの組織として統合されているのである。そして、刺激に対する反応は、この上を美しい波のように広がっていく。

 この波の広がり方を測定する器具として本書では「TMS+脳波形」を用いる。この方法の利点は、fMRIの①と②とを、より解消できる。
 TMSによって頭蓋骨の外部(頭皮)から、直接、強制的に脳に刺激(磁力)を与えることが可能であり、その場合の「波」の広がり方を脳波形で記録することが可能だからである。
 課題の意味が分からないとか、疲労していて実験に協力できない、などという「意識」とは無関係に、「脳の回路」が正常に働いているのか否かを測定できる。この点が、優れているのだと、筆者は断言する。

ちょっと休憩

 本書では、上記測定法によって「レム睡眠」「ノンレム睡眠」「全身麻酔」「閉じ込め症候群(ロックトイン)」「最小意識状態」「脳損傷による植物状態」「グレーゾーンの植物状態」などを検証し、「美しいエコーの有無と意識の有無とに相関があることを示す。

 また最終部においてはデカルトからモンティーニュの間で、「動物、人間、植物、鉱物」などの意識、についても思考実験的に触れている。(私はこの「思考実験」って好きじゃないですよ)

意識の発生要因

 本書では、意識の発生要因を、「大脳の複雑さ」にあるとは結論づけている。

 これは物理的にデリケートな反応であり、たとえば睡眠時におけるカリウム(K)の放出や、ニューロンの抑制レベルを高める麻酔薬の働きなどによって、「エコーの消滅または、無意味な全体的明滅」などが起こる(つまり意識が失われる)。

 意識が失われた患者脳内の、カリウム流量やニューロンの抑制レベルの適切な調整が可能となれば、再び意識を取り戻させることは可能なのではないか、と本書は予測する。

「一」

 それらが適正化することによって、「一」であることができなくなっていた大脳が、再び「一」(統合)を取り戻せば、そこに「意識」反応が生ずるというのである。

 これを「情報」と「統合」という概念をもちいた「統合情報理論と呼ぶのが、本書の主張である。
 小脳や基底核は「情報」はもつが「統合」性に欠けている。また、ニューロンの反応や同期の程度によって、過度に「統合」されると「多様な情報」という側面が失われ、「情報の多様さ」ばかりが突出すると「統合」が失われる。いづれの場合にも「意識」は生じない。

 この説の反証となりうる例として筆者があげたのは「今後、大脳の複雑さを抑制するにも関わらず意識レベルを低下させない薬が開発されたとしたら、統合上理論はご破算だ」

いつできるの?

 it from bit.(全ては情報から生まれる)ジョン・ウィーラー(1990)この言葉は、「存在は二択(bit)から生まれる」と言い換えることができるそうだ。(チャーマーズさんのwikiにも引用されている言葉だね)

※ 二者択一とは「分節」ということである。文節から存在が生ずるというのは仏教における「縁起」の考え方を思い起こさせる。

つまり、これとこれでないもののという無数の二者択一から。

 子供は、因果関係に大いなる興味をもち、幾度もボタンを押して照明をつけたり、紐を引いて棒を倒したりする。同じことをすれば必ず同じことが起きるのか? この因果関係に納得できればシナプスの繋がりが生まれる。因果関係を捕らえ、類推する選択肢が増えていくと、意識が発生し、外界を知りながら「世界はこのようであるはずだ」という脳内モデルがつくられる。包括的で自立的で堅固なモデルである。そしてさらに、夢を見、想像し、つくり、レパートリーを増してゆく。それは外界にある可能な組み合わせを優に超えるレパートリー数となっていく。

 となかなか、感動的な文章で本書は終了するわけである。

※因果関係によって世界を認識することは仏教における「妄執」ということになる。

さいごに

 情報はそれ自体がベクトルを持つか? もし持たないのであれば得られた情報の評価はなにによってなされるか?

 私は、情報それ自体の純然たる優劣は、ないと思う。状況と活用方法しだいで、情報の価値は変化すると思うからだ。「膨大な情報を適切に統合する働きが意識」だと、本書では結論付けていた。そして「統合」に際しては「因果関係による類推」が重要な働きをもつのだという。

「あのときはああなったから、今回の場合はこれがこうなるはずだ」これが意識の働きである。

 だが、なぜ、「こうなるはず」という結果を導き出したいと思うのか?

 それは「まえに、こうなったらこんなにいいことがあったから、こんどもおなじようなことが期待できるからだ」とすれば、意識の働きとして説明できるだろうか?

「いいこと」と判断できたのはなぜか?

 つきつめれば「快ー不快」の二分論に行き着くことになるのだろう。それは、基本的には、細胞の増殖に有用な環境を得るための選択のはずである。

 ならば、意識とは、細胞の「快」に行き着くための、複雑な因果関係を選び続けることだということなのだろうか?

 それはそれでとてもおもしろい。

付記

 本書のなかに、意識とは、ある状況を無数の選択肢の中から同定する作業に生ずるという意味のことが書かれており、そこではレパートリーの中からAを探すとはつまり、A≠xという無数の比較を行っているのだと書かれた部分があったように記憶している。

「たくさんの『これではない』を並べることで「これ」に似たものを同定する」

 これは私の読み違い、記憶違い、勘違いかもしれないが、とてもおもしろかった。なぜならば「イデア」を否定する考え方だからである。

 基本形、原型としての「イデア」があり、それとの比較において真実に迫る、というのが「イデア」論だが、この生々流転の世の中に「不変の原型」がどこに保たれているのか? という疑問が生じる。それを「集団的無意識」に求めたくなる神話論者も大勢いるだろうし、それも面白い。しかし、私は「相対性理論」をとりたいと思っている。そもそも、「イデア」を「流出」と考えないかぎり、いったい何種類の「型」を備えていなければならないというのか? しかもこの世に現れているモノはみな、歪められているというのに。

 だから、「これはこれとは違う」という同定の道筋は非常に分かりやすかったし、「情報」とは「差異の戯れ」なのだから「完全一致」などありえないし、世界に冗長性など退屈なだけだ。(といって、ブログはバックアップをとったりしてるけれども)

 といったところでした。以上。