望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

新・未来派宣言のシンボルゥ

はじめに

『日本人は思考したか』を読み返し、「空間」と「時間」について書かれている部分がおもしろかった。

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日本人の思考は、「あはひ(間)」にあって「調停」と「鎮魂」を本位とした「歌論」にその萌芽を求める。との指摘から、勅撰和歌集による「日本の四季」の確定と、その四季を構造化する「源氏物語」。四季の庭を構成することで、時間はループ状となり、栄華は永遠に続くという思想。それに抗う「枕草子」の時間的記述。

 やがて脱時間化された社会に破調が介入して不穏となり、空間がほころびてきたのが、「太平記」であり「今昔物語」に見て取れるのだという点。

時間的である「法華経」から現世利益の原理が引き出され、空間的である「華厳経」が禅へと繋がっていく必然。

 こういったことをまとめた上で、時間と空間とがぐずぐずに溶け合った「総和0」の文学について考えてみよう、というのが今回の眼目だったわけだが……

新・未来派宣言

時間と空間から速度が示される

 どうせなら、もう少し何か加えようと考え、「速度」に思い至った。

「速度」なら、『逃走論』(浅田彰さん)や批評に関するフットワークの重要さ(柄谷行人さん)、銀河鉄道の疾走感などを絡めて、「速さ」こそ至極! といったブログになるかと考えた。が、「速さ」礼賛、となれば、「未来派」を外せないだろうと、たどり着いてしまったのが、運の尽きだったのである。

絶対の速度とはバベルの塔である

四 われわれは、世界の栄光は、一つの新しい美、すなわち速度の美によって豊かにされたと宣言する。爆発的な息を吐く蛇にも似た太い管で飾られた自動車……霰弾に乗って駈るかのように咆哮する自動車は《サモトラのニーケ》よりも美しい。wikipedia 未来派宣言 (以下同様)

速さの快楽。ここでは自らが体験する速さも、速さを眺めることも、速さを実現した技術も、全てを「美」ととらえている。

八 われわれは世紀の突端をなす岬に立っている。不可能なるものの神秘の門を破らなければならぬとき、なぜ後を振り向かねばならぬか?時間と空間は昨日すでに死んだ。われわれは永遠にして普遍なる速力を創造した。故にもはやわれわれは絶対の中に生きている。

 ここに、「時間と空間は昨日すでに死んだ。」とある。それは、「永遠にして不変なる速力を創造した。」からである。その結果、「われわれは絶対の中に生きている。」と宣言するのである。

 この宣言は、1909年に出された。この時期に「時間と空間」といえば、「特殊相対性理論(1907)」を外すわけにはいかない。つまり、絶対時間と絶対空間が否定され、光速不変の宇宙が発見されたのだ。

 ニュートン的宇宙から、アインシュタイン的宇宙へ。絶対から相対の世界へと転換期にあって「永遠に普遍なる速力を創造」した「われわれ」は「絶対の中に生きている」という宣言とは、「光あれ」と宣言した「神」に自らを重ねたものと考えられる。

 速さは絶対。産業革命によって獲得された機械的速力は、究極絶対の速さである光速を目指すものであるからこそ尊く、神を指向するものであるがゆえに美しい。だが、かつてそのような企てがどのような末路を辿ったのかは、バベルの塔が教えてくれていたはずだった。

そして闘いへ

九 われわれは戦争ーそれはこの世の唯一つの健康の泉だー軍国主義愛国心アナーキストの破壊力、殺すことの美的傾向、女性蔑視を讃えよう。

 宣言からほどなく、世界はWWⅠに突入する。
 未来派は、速さを具現する機械技術を肯定する運動であり、戦争をその技術力の集大成とみた。だが、政治的にはファシズムとの関係に躓き、WWⅡまでに未来派ダダイズムや、フォルマリズムに分裂していく。
 そして1945年、相対性理論が論理的に可能であると示した原爆投下により戦争は終結する。未来派は戦争を肯定したが、それは何のための戦いだったのか。

七 争い以上に美しいものはない。攻撃なしには傑作は生れない。詩と歌は未知の力を人間に屈服させるための、激しい突撃でなければならぬ。

未来派にとっての「詩と歌」とは、あらゆる方法をもって実現する「速さ」であった。人々を変え、社会を変革するのが「詩と歌」の使命であったとするなら、それを速やかに行いうるのは、技術革新であり、革命であり、戦争なのであった。「速さ」とは、その象徴だったのだと思う。

速度とは距離である

 「速度」とは「距離」を「時間」でわったものだ。基準となるのは「時間」だ。未来派は、光速度不変を旗印としながら「相対的な速さ」にこだわってしまった。究極的速度が不変であるならば、変数は「距離」のみである。だから、宇宙の速度の単位は一年で光が到達する距離「○○光年」なのだ。

 未来派が夢見た「速さ」への願望は、せいぜい光速によって頭打ちとなるものであり、そこでは無効にしたはずの「空間」が、膨張する闇として復活したのであった。

 結局、速さは時間も空間も無効にできず、未来派は、有限の空間を有限の時間で分割しながら駆けずり回っていただけだったのであった。

速さは軽さである

三 在来の文学の栄光は謙虚な不動性、恍惚感と眠りであった。われわれは攻撃的な運動、熱に浮かされた不眠、クイック・ステップ、とんぼ返り、平手打ち、なぐり合いを讃えよう。

 速さは軽さである。動いているものは、それを留め置く力が極端に小さくなる。両足が宙に浮いた上体のものを横から押せばたやすくズレる。足許の定まらない、平手打ちや殴り合いなど、効果半減だ。謙虚な不動性から放たれる重いジャブは、やがて疲弊するフットワークを吹き飛ばすだろう(『はじめの一歩』)未来派が求めた軽やかさは、批評家が持つべき「君子豹変す」の立場ではなく、スピードへの自己陶酔の果ての小競り合いにすぎなかった。

 

速さとは希薄さである

 距離を「速度」で相対化すること。それは、技術発展とインフラ整備による、感覚地図の書き換えだ。徒歩のみであった時代と、現代とを比べれば、思いの及ぶ地理的到達距離は桁外れに広い。と同時に、世界は途方もなく希薄化してはいないか。
 素早く通り過ぎるだけの町は、その土地を、移動にとっての必要悪へと貶める。そこに住む人を無視する、利己的な感覚を生じさせる。そこに生きる人々がいるという事実を、忘れさせるのみならず、そのような土地があることすら、失念させる。

速度は心理的距離を反映しない

 飛行機や鉄道など交通手段による、到達時間を基準とした地図にしたものをみたことがある。

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『時間のヒダ、空間のシワ…[時間地図]の試み: 杉浦康平のダイアグラム・コレクション』2014/9/26杉浦 康平 (著 )鹿島出版会


 これによれば、空間が時間によっていかに歪められうるかが一目瞭然である。
 重用なことは、その地図が基準としているのは、速度によってもたらされた所要時間であって、速度そのものではないという点だ。
 ある地点に行こうと思い立ってから、可能な移動手段を駆使して、実際にその場に立つことのできる時間距離を基準とすれば、世界はこのような図示されうる、というものである。

 アパートから都心の職場へ快速電車で向かう時間と、新幹線で実家に帰る時間がほぼ等しいといった事実を提示することは、「故郷は遠い」という心理的距離感とのあいだに「酔い」にも似た感覚を催させる。心理的距離は、到達時間のみでは測れない。

純粋速度の快楽

 未来派が求めたものは速さそのものの快楽美である。

 溶解する身体性のなか研ぎ澄まされる精神という錯覚。万能感。高速度での移動の実感こそが重要なのであって、たとえば「転送」であったり「どこでもドア」のような瞬間移動では、味わうことは出来ないだろう。目的をもたない速度に興じることの意味を問うてはならない。今が十分に速いこと。未来派はただそれだけのために闘う。そして、その速度は、未来派を「死」以外のどこにも連れて行きはしなかった。速度など全く無関係に誰でも到達する「死」にしか。

速度とは距離である2

 当たり前のことであるが、移動速度が速ければ、早く到着するというわけではない。時速300kmで、大阪に向かうのと、歩いて突き当たりのトイレに向かうのとでは、トイレに着くほうが、断然速いのである。いや、たとえが極端すぎる。大阪まで同じ速度で向かうならば、遠回りより近道の方が早く到着する。そういうことだ。

 未来派のように「速さ体験」が目的であるのなら、山を駆け上り駆け下る速さを楽しむのだろうが、「速く着く」ことが問題であるのなら、そういう速度にこだわる必要は無い。近道、つまり、ショートカットすれば対抗できるのだから。

ワープの速度

 山越えのトンネルを掘ること。世界の襞や皺をぶち抜くことによって「速さ」を獲得することもまた一法であった。ワープ航法などは、この範疇に属する。ゆっくり進んで早く着く。無理をしないから争いも少なく、事故の危険も少ない。危険を求めた未来派は、この確かな足取りを否定した。そして多くの犠牲を生み、それを省みる時間をもてなかった。

新・未来派は、そうした犠牲を鎮魂する義務を負う。

トンネル速度とは万人の利益である

 速さとは、それを出力しうる限られた能力物(能力者)にのみ許される特権的体験である。その理念は選民意識に通じ、ファシズムへ連なる。

 万民が「速さ」の恩恵を受けるために山越えの道に隧道を掘りぬき、切り通しを作り、トンネルを敷設すること。そのようにして短縮される道程もまた、所要時間地図においては同じように短縮して記載される。

 環境保全の観点からすれば、林道を排気ガスを撒き散らして走り回るのと、大規模な掘削工事を行うのとでは、比べるべくも無いが、新・未来派が、鎮魂の歌と詩を創造しうる、新たな「速さ」を獲得するのだとすれば、この方法しかないのである。

その象徴…

以上、新・未来派の理念を具現化した計画があった。

 

中央リニア新幹線計画。

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長大なトンネル技術によるショートカットと、技術革新による世界最高速度の融合!っと。人工照明のチューブの中、速度に身を委ねつつ、散っていった霊を慰めるのだ。

 

しかし、そんなに急いで何処にいく…… 名古屋ですか。あ、そうですか………

自分は、速さは、さほど求めないかなぁ。

 

未来派宣言 全文

未来派宣言(wikipedia 未来派宣言)


(全文 鈴木重吉訳[1]より引用)

一 われわれは危険を愛し、エネルギッシュで勇敢であることを歌う。

二 われわれの詩の原理は、勇気、大胆、反逆をモットーとする。

三 在来の文学の栄光は謙虚な不動性、恍惚感と眠りであった。われわれは攻撃的な運動、熱に浮かされた不眠、クイック・ステップ、とんぼ返り、平手打ち、なぐり合いを讃えよう。

四 われわれは、世界の栄光は、一つの新しい美、すなわち速度の美によって豊かにされたと宣言する。爆発的な息を吐く蛇にも似た太い管で飾られた自動車……霰弾に乗って駈るかのように咆哮する自動車は《サモトラのニーケ》よりも美しい。

五 われわれは軌道の上に自らを投げた地球を貫く軸を持った舵輪を握る人を歌う。

六 詩人は熱狂と光彩と浪費に熱中すべきである。その根源的要素たる熱狂的な情熱をかきたてるために。

七 争い以上に美しいものはない。攻撃なしには傑作は生れない。詩と歌は未知の力を人間に屈服させるための、激しい突撃でなければならぬ。

八 われわれは世紀の突端をなす岬に立っている。不可能なるものの神秘の門を破らなければならぬとき、なぜ後を振り向かねばならぬか?時間と空間は昨日すでに死んだ。われわれは永遠にして普遍なる速力を創造した。故にもはやわれわれは絶対の中に生きている。

九 われわれは戦争ーそれはこの世の唯一つの健康の泉だー軍国主義愛国心アナーキストの破壊力、殺すことの美的傾向、女性蔑視を讃えよう。

十 われわれは博物館、図書館を破壊し、道徳主義、フェミニズム、一切の便宜的、功利的卑劣と闘おう。

十一 われわれは労働、快楽、さては反抗によって刺激された大群衆を、近代の首府における革命の多色多音な波動を、電気のどぎつい月の下にある兵器廠や造船所の振動を、煙を吐く蛇を呑み込む貪婪なる停車場を、黒鉛の束によって雲にまで連なる工場を、体操家のように日に輝く河の兇暴は刃物を飛び越えている橋梁を、水平線を嗅いで行く冒険的な郵船を、長い筒で緊められた鋼鉄製の巨大な馬に似てレールの上を跳躍する大きな胸をした機関車を、プロペラの唸りが翼のはばたき、熱狂興奮した群衆の喝采にも似て滑走飛揚する飛行機の歌を歌う。 [1]
出典

^ a b Erich Fromm 鈴木重吉訳 (1965). 悪について. 紀伊國屋書店. pp. 70–71. ISBN 978-4314000284. Erich Fromm 鈴木重吉訳 (1965). 悪について. 紀伊國屋書店. pp. 70–71. ISBN 978-4314000284.