望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

たましいのルフラン -すべらない話32弾のこと

はじめに

 人志松本のすべらない話32弾。ほぼ一年ぶりの放送。

www.fujitv.co.jp

 昨日録画しておいたのを見ました。そして、ある傾向が気になりました。それは、みなさんの

エピソードが長すぎる

ということです。そして、その原因となったのはおそらく、せいや霜降り明星)さんと、チャンス大城さん、でした。

松本さん「今のお笑いって、そんなとこまでいってんのぉ~」

行ってないと思いたいです……

エッセーvs小説

 この二人がなぜ「長く話すのか」が気になり、常々私が感じている「物語性(一般)と小説性(個別)」の対立軸に斜めに食い込んでくる「エッセー性(私)」について、考えを巡らすこととなったのでした。

注意1)例によって、正確な書き起こしは不可能なため、断片的な記憶と印象による記事となっておりますことを予めお断りしておきます。

注意2)ネタバレしてます。ご注意下さい。

注意3)せいやさんの一回目の話があまりに長く、おもしろくなかった(後述)ため、二回目の「女王様」を飛ばしました。(この話も長くかかったようです)。結果、それがMVSだったと知り、少々心配です。ニャン子スターさんを、キングオブコントの決勝に残してしまう審査員の感覚が心配なのと同じ危機感を感じました(がそれはまた別のお話で)

 

せいや霜降り明星)さんの退屈さ

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もう分ったから↓

 前つきあってた彼女の話でした。ボーダーライン風の女性の奇行に翻弄される話。
イオンに行ってからの話だけで十分でした。それまでのエピソードは、彼女の人となりを紹介する副次的なものであるべきです。くどすぎます。

同じ轍 を踏む人、踏まぬ人

 ナオミさんも、自分の母親を語る準備として、母親の人となりを物語るエピソードを冒頭に入れ込んでいました。このこと自体は「話」の常套手段ですので問題ありません。ですが、盛り込み過ぎました。結果、本題がぼやけて、「へんな母親の漠然とした印象」しか残りませんでした。

 その点、松本さんは上手です。二本目の話で、作家さんを紹介するエピソードと、本編とのバランスがよく、散漫になるということはなかったのです。

せいやさんの話。

 正直いって、この手に話は、ネット上でいくらでも見受けられます。新味に欠ける題材です。
 せいやさんは、彼女のエキセントリックさを、身振り手振り奇声大声を駆使して、なんども繰り返しました。聞いているほうとしては、同じことをいつまでも叫んでいるだけの単調さに、苛立ちを感じました。

よかったところもあった

 話のヒキは、まあまあよかったのです。
「ようやく逃げ切ってイオンの駐車場であてつけにナンパしたら妊婦だった」と。
 そこだけは小説性があったと思いました。(実は、その前にあったエピソード、「気を失った後、ずっと脚を殴られていてパンパンだった」部分も、よかったのに、つまらない繰り返しに埋もれてしまって残念でした)

ありのまま話せばいいってもんじゃない

 話術の無さ。構成力の絶望的な欠如。彼の話は確かに、「個人」が「体験」した「事実」そのものだったでしょう。ですが、それが単に「つまらないエッセー」以下になってしまったのは、彼が終始「私」を離れることができなかったからだと、私は思います。

 さらに付け加えれば、「繰り返す」という「構成の意味」を、彼は全くわかっていなかったということです。

MVSをとった「女王様」の話って、よかったですか?

小薮さんと宮川大輔さん

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 今回、繰り返しが重要なモチーフとなった話をしたベテラン二人です。

宮川大輔さんの「音」

 深夜三時の公衆トイレの音。オノマトペにするのが不可能な、猫でも絞め殺しているのかというような音。これはとても効果的でした。

そんな寂しいトイレに入らねばならなくなった理由から、オチまで無駄のない、きちんとした話だったと思いました。

小籔千豊さんの「ADさん」「オーベルジーヌ

 おもしろかった。まさに、繰り返し構造の王道ともいえる話です。
オーベルジーヌ」が、言葉の響きだけでなく、大オチ前の伏線としても働いていて、ムダがありません。
 さらに、どうしても「オーベルジーヌ」を発注してくれない女性については、最低限の描写しかなかったのにもかかわらず、見ている方がその容姿や声、態度を思い浮かべることができたのです。

チャンス大城さんが踏みとどまれた理由

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「私」から「個」へ

 大城さん自身が、番組の中で「自分、そのまましか話せないんで……」と言っていました。本当にその通りなのだろうなと思いました。その点では、せいやさんとどっこいどっこいだったと思います。

ですが、私は「圧倒的」に大城さんの方を推します。その理由は

1.実体験の唯一性

2.客観的描写

の二点です。

1.実体験の唯一性

 一本目の、山に埋められた話。これも確かに長かった。
 定時制高校の話、建築現場で働いている5人の不良の話、稼ぎをみんな遊びに使われてしまうこと、その5人が恐喝して逮捕状が出てるといったエピソード。コンビニで拉致されて山に埋められる話。キモ試しのアベックの話、夜明け前の女の子の声の話。反対の山に友達が埋められていると知る場面、その友達とのやりとり。管理人に救われる話、そして、友達の叫び。

 本当に長い話なのです。ですが、これらのエピソードのなかに、削っていいものはほとんど無いのです。全ての味が渾然となって、この話全体の味となっているのです。散漫ではないか、といわれれば散漫です。話し方も改善可能なところがいくつもあったでしょう。

 ですが、大城さんの話は「小説性」を帯びていたのです。「私」ではなく「個から普遍」へ繋がる可能性があったと思うのです。

2.客観的描写

 二本目の話で隣の中学の番長が「こんな悲しい目をした男は見たことがねぇ」と、喧嘩せずに帰っていく場面が印象的です。

 大城さんには、バッドボーイズ清人さんの雰囲気がだぶりました。どこか、諦観してつきぬけたようなところがあって、それが「エピソード」を「私」から引き剥がし、ヒューモアとなっているように感じました。

ところで

 夜明け前の小さな女の子の声、気になりませんか……

さいごに

 大城さんの話はみな「地」の文に埋め込まれています。一方、せいやさんの話は全て鍵カッコでできています。

「好き嫌い」では片付けられない大きな「優劣」が、この二人の話にはあります。

「すべらない話」で「つまらない話」は聞きたくありません。

                                    以上