はじめに
「私説 現代俳人像 上 倉橋羊村 東京四季出版 平成十年一月一日」を読んでいて、石原八束さんの「反写生の姿勢」について考えた。
慙愧の念
今回のブログでは、この「反写生論」への反駁を試み、「心の内」などという近代的自我を盲目的に信奉する人々に対して、唯物主義者としての立場を鮮明にし、「写生」の豊かさや有効性を、俳人高野素十さんと、画家熊谷守一さんとが同じ境地に在るという観点から、幾多の例証をもって示そうとしていたのである。
雨滴 熊谷守一
くもの糸 一すぢよぎる 百合の前 高野素十
可能性の中心が
だが、反駁を試みていたところ、「抽象の具象化という直喩」というおもしろそうな現象に出くわしてしまい、そちらを辿っているうちに「どうやら石原さんの俳句は、禅の公案なのであった」というところにたどり着いてしまったため、例によって、大幅に内容を変更することとなった。
絶対まとめたいから
高野素十さんと熊谷守一さんのことについては、また別に書く。きっと書く。どちらも素晴らしい写生の大家である。
石原八束さんの〈内観造型〉
まずは、石原さんの主張をごらんいただきたい。
従来の写生手法は、一つ一つの外観の実在を単に写して、その写した形を通じて人に訴える方法、これには前から不満を感じていた。(中略)
例えば、今、自分の心の中をのぞいた時、その中にあるいろいろな問題は必ずしも外回り事物に姿を変えて説明できるものばかりではないのです。むしろ、心の中の問題なんていうものはもっと観念的、抽象的な、もやもやしたものでしょう。
だからそれを格別の形に託さなくとも、観念だけで造型して人に伝達できないものであろうかと考えるのです。
自分に関係のない草花や石ころだとかいう自然のものを写生していただけでは、どれだけ内心の問題に還元することができるのかという疑義がですね。そこで私はできうれば心の観念だけを抽象化して、更に哲学的・瞑想的な世界に止揚し、しかも饒舌や多くの説明を断ち切った観念の世界、内心観照の世界の造型が成立しないかと思い、それを指向している訳です」(海程 第四号 座談会より)「私説 現代俳人像 上 倉橋羊村 東京四季出版」P.69
そして、この本で倉橋さんは以下のような俳句を引いている。
とくに、「河鹿ー」の俳句が、石原さんの〈内心観照〉の極地と賞賛していたものである。
彼の世より光をひいて天の川
河鹿の音光に帯を伝ひくる
私はこれを読んで、今まで、全く知らずにいた石原さんに、というよりも、反写生の考え方に、いろいろと引っかかったのだ。
内観を観照する=内心観照
心理学研究の方法としての内観(wikipedeia 内観)
心理学研究のために、自分自身の精神状態やそこにおける動向を内面的に観察する方法。実験心理学の祖ヴィルヘルム・ヴントが考え出した。内観を行うには訓練を受ける必要があった。
その後、近代心理学は次第に主観性の強い内観的方法から離れ、客観性の高い行動に注目するようになっていった。
大辞林 第三版の解説(コトバンク)
かんしょう【観照】
( 名 ) スル
① 主観を交えず、対象のあるがままの姿を眺めること。冷静な心で対象に向かい、その本質をとらえること。 「人生を-する」 → 観想
② 美学で、美を直観的に受容すること。自然観照と芸術観照とがある。 → 静観 ・鑑賞(補説欄)
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
以上を踏まえて、内心観照 とはつまり、
内観という主観を対象として、主観を交えずに(内観という主観の)あるがままを眺め、その本質をとらえる。ことのようだ。
反駁
反写生派の論点
「写生」に対する反発は、この石原さんの主張にほぼ出尽くしている。
「内面を吐露したい」という欲求が薄い一派においても、「花鳥諷詠では不自由だ」「主義主張ができない」といった苦情が多かったようである。
虚子さんの反駁
だが、そもそも俳句は「十七音+季語」というひじょうに不自由な形式を採用している。不自由だというのなら、新たな文学の形をもとめて、新天地へ乗り出せばよい。なぜわざわざ俳句で、それをやろうとするのか?
というようなことを、高浜虚子さんはいっていた。これは無季自由律へと進んだ新俳句派への苦言であったが、反写生全般にも有効だ。花鳥諷詠客観写生こそが、正岡子規さんー高浜虚子さん の俳句なのである。
近代的自我
私が石原さんの意見から感じたのは、いわゆる「近代的自我(内面)」への絶対的な確信である。
事物と結びつかない、つまり「プレ形象」、として「もやもやしている」「抽象的な」「内面」。それは、「外界の事物とは全く無関係」に存在するがゆえに、「外回りの事物」に則して伝えるなどということは不可能だ。という。
だから石原さんは、「心の観念だけを抽象化して、更に哲学的・瞑想的な世界に止揚し、しかも饒舌や多くの説明を断ち切った観念の世界、内心観照の世界の造型が成立しないかと思い、それを指向している」というのだ。
だが、私には、そのような在り様が可能であるとは信じられない。外界に無関係に存在する内面? 外ー内 という相対的関係を脱した絶対的内面の存在? ただし、内と外との隔ては、絶対的なのだという。
そのような話を聞くと、私は「あらゆるものを溶かす薬(もしくは反物質の保管方法)」のことを思い出す。それはいったいどのように保たれるのであろうかと。
俳句にはもったいない
石原さんの主張に現われる述語はおそらく、「現象学」と「仏教」に関わっているのだろうと思う。それならば、特にそれを「俳句」でやる必要は無い。自分でも言っているように、「哲学」の仕事にして徹底的に研究すべきであり、「瞑想」によって到達した境地をより分り易く伝えられる大乗仏教的著述をするべきだ。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説(コトバンク)
現象学的還元
げんしょうがくてきかんげん
phänomenologische Reduktion; phenomenological reduction
E.フッサールの現象学における用語。狭義には超越論的還元をさし,広義には形相的還元をも含めたものをいう。われわれは自然的態度では世界の超越的存在の定立を日常暗黙のうちに認めているが,フッサールはこれでは厳密な学問的認識が不可能であるとして,自然的態度を徹底的に反省し,それをいわば「かっこに入れ」判断中止を行う方法的操作を超越論的還元 transzendentale Reduktionといった。そしてその還元による現象学的剰余としての純粋意識に,世界の存在意味を問うた。
ヴィパッサナー瞑想(wikipedia ヴィッパサナー瞑想)
ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーめいそう、巴: vipassanā-bhāvanā)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想である[1]。ヴィパッサナー(巴: vipassanā)は「観察する」を意味する[2](毘婆奢那、毘鉢舎那と音訳され、「観」と翻訳されるサンスクリットのヴィパシュヤナー [vipaśyanā] に相当するパーリ語)。アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる[3][4] (中国語では「内観」と訳される wikipedia 内観)
抽象の具象的表現
抽象を具象によって表現するということは、特別なことではなく、実は、我々が普段から無意識のうちに行っている行為だ。ただ我々は、その抽象と具象との距離を感じることはほとんど無い。
「何と言えばいいのか分らない」ということはあっても、それは「適当な言葉(比喩)が見つからない」だけだ。
つまりは、感情の複雑さを十全に掬い取るだけの概念の不足に起因するのである。
(その複雑さも私は「身体」という曖昧な括りに縛られていることから起こる唯物的問題であると考えているが、そのことはまたいづれ)
石原さんの写生
石原さんが、「観念」とよぶものはもちろん「感情」のレベルにはない。「感情」であればそれは、外界と密接に関係しているものであるからだ。もっとよく分らないもやもやした何かを、主観を排して観照しようというのが石原さんの指向だった。
だが、ここで気付くのは、「観照」という姿勢が、まさに「写生」の姿勢に他ならないという点である。なんのことはない。石原さんは結局「写生」をしようとしていたのである。
内ー外 を厳格に区別するがゆえに、外のものは無関係としか捉えることができず、写生=風景画という狭い見方しかできなかった石原さんが語る反写生的見解とは、実は自分の「観念」という風景を写生しようとする指向に他ならなかったのである。
即観念即形象
その結果、「もやもや」即「河鹿の音光に帯を伝ひくる」を得た。これは、単に「音という目にみえないものが、光を伝ってとどいたよ」というような事実のみを詠んでいるのではない。
重要なのは、この俳句は石原さんの身の回りの「現実」とは全く無関係である。ということだ。
では、この句を得たとき石原さんの観念は、どういったもやもやだったのだろうか?いや、正確を期するなら、こう問うべきだ。
「この句によって、八束さんが伝えたかった観念とは、どのような状態だったのか?」
ところで、そもそも、あかの他人が、ただ同じ人間であるというだけで、石原さんの「抽象X⇒観念写生⇒具象X'」として得られた俳句を読み、その「具象X’」から「抽象X」まで遡ることなど、可能なのか?
いやそもそも、その「抽象X」は、我々にとって「魅力あるもの」であったのだろうか?具象X'にさほどの魅力がなかった場合、そのようにこれらの俳句を鑑賞しようという気になれるとは思わない。誘い文句? 署名? 前書き? によって?
夢の作り方
あくまでも石原さんが伝えたいのは「観念」なのである。「観念」が、よく知っている具象物によって表現される例を、私たちはよく知っているはずだ。
「夢」
である。
心理学的、精神分析学的知見はおいといて、夢というのは、感情先行、場面後付で作成されていると、何かでよんだことがある。
嫌いな蛇が出てくるのは、まず、嫌い、という気持ちがあって、それが蛇に出演させるのだということだ。
つまり、石原さんの「河鹿」や「天の川」は、徹底した観照によりそれらが召還されるに値する「観念」の結果ということになる。(「因果律」である。私は「事物即応」を主張するので因果律を認めないが、石原さんにとっては、観念と事物(認識)の間には段階があり、因果律によって間接的にのみ結ばれる)
もちろん、石原さんの俳句の方法論は、より意識的なので、深層心理の機構とは異なる仕組み(つまり、エポケー、現象学的還元など)によって操作されている。(いかに、観照するといっても、主観的操作なくしては十七音+季語の表現は不可能だ)
公案としての俳句
石原さんの〈内観造型〉による俳句が「有季定型花鳥諷詠」に則っているのは、心の中の抽象的なもやもやを、それが何であるのかの判断を停止した上で、ありのままに観察した上で、他者へ伝達可能な形式をもたせるために最適な直喩によって表現しているからである。
つまり、ここにでてくる「河鹿」や「天の川」や「音」や「光」は、我々が知っている具象物としての「それ」ではなく、いわば「実存を往還したもの」として、投げ出された何かの「喩え」なのである。
物事の本質へ遡って彼の地に触れ、それを再び此の世に持ち帰る。
そのようにして得られた、一見タダゴト俳句でしかないが実はすさまじく難解な俳句を、我々は舌頭千転してその観念を掴まねばならないのである。
「公案」だ。
まさに、これは公案なのである。
石原さんの姿勢は、俳句を公案にかえた。
おわりに
そして私はそのような俳句を好まない。
そういう俳句を読むのなら、私は、チベットの密教僧の瞑想論や、『虹の階梯』を読んでいるほうがいい。
(以上)