望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

善悪の此岸 ―神が隠すもの

はじめに

 救い(=福祉)を求めるなら神じゃなくて、国や企業に訴えよう。そして、福祉などもとめなくてもよい「神の(国のような)国」を建国すべく立ち上がろうではないかぁ~

存在に善悪などない

 これは当然のことだし、そもそも、存在するのに、善悪の区別など不要だ。

 存在の原理は「継続」のみで「継続」を妨げるものに対しては闘争するだけだ。この場合、同種間での争いは、普通、限定的だ。従って人間は普通じゃない。

人間が互いに争い続ける理由

①「我」によって「同種」意識が希薄となっているため

②生存に必要な物資の枯渇による極限状況にあるため

では逆に、なぜ争いは抑制されうるのか

 上記を調整するために「共同体」が営まれ、そこに「掟」が制定されたから。

ここにおいて初めて、「善悪」の区分が生じる。善悪は後天的に経験則によって学習されねば発効しない。

WHYこそが源

 現象の大半は「科学」が担当する。それはHOWを解明するものである。

 WHYは科学のタブーであり、ここを「哲学(形而上)」と「宗教(形而下)」が担当するというのが基本。

哲学の立ち位置

 哲学は帰納法(個⇒普遍)によらねばならない。哲学は未来を志向しない。哲学は存在の「理由」を探求する学問であり、「使命」を探る学問ではない。哲学によってのみ「普遍」に触れることができる。

宗教の立ち位置

 宗教は演繹法(一般⇒特殊)によって強化される。宗教は三世(過去・現在・未来)を包括する。宗教は存在の「使命」を掲げる律法であり、「理由」は問わない。宗教によってのみ「宗教団体」が設立できる。

人間の問題

 普遍的善悪が倫理で、特殊的善悪は道徳である。いづれも「人間関係」の問題であり、「神」とは無関係である。

[イエスが、硬貨のカエサルの肖像をさし、「神のものは神へ。カエサルのものはカエサルへ」と言ったのは、経済活動 (ここでは税金問題なので、政治は、といってもよい)は人間のものであるという意味である。また「まず罪の無きものが石を投げよ」といって人々が石を投げられなかったのは、倫理が律法に優先することを示す。そしてイエスが石を投げなかったのは、律法が「神」のものではなかったからである。]

※イエスは、彼女の罪を許す。この「罪」とは何か?

 イエスは人間の定めた律法上の罪を許せる立場にはない。イエスは旧約に規定された罪を犯したものを許す(新約)ため登場したのだ。がこれはまた別の話で)

損得の問題

 「損得」とは「貨幣価値」がもたらした価値観である。

 従って、現世利益を謳う「宗教」は全て「自己啓発教団」と同列である。両者の違いは「未生、死後」を扱うか否かのみである。

功徳の発生について

 まず「祟り」があった

 最初の人類が「誕生」についてどのような感慨を抱いたのかを想像することはあまりにも困難である。したがって、ここでは「死」「死体」からはじめる。(移住、定住の観点は省略)

生きていた者が死ぬ⇒意思疎通不能となる⇒原因不明⇒異臭・腐敗⇒不衛生⇒外観のおぞましさと、病気などの発生⇒「恐ろしいもの」=「祟り」⇒鎮めなければ⇒葬儀

「祟り」があるならその反対の「ご利益」もあるはず!

誰がもたらすのかは不明⇒ 生命を生んだ何か。大きなもの。自然。

天変地異、気象状況といった現象が、人間の言動に紐付けされていく。

悪い人(共同体のためにならない人)がご利益をもたらすとは考えにくい。

良い人(共同体のためになる人)が、死んだ後に、ご利益をもたらすのだ。

⇒良く生きればご利益をもたらす。良く生きるとは何か? 大きな何かの気に入るように生きることだ。

良い事をすれば幸せになれる。因果応報。

 人間関係においては、よい人はよい縁を得るということはあるだろう。そのよいことを「死後」に得られるというのが、「宗教」である。こうした宗教につきものの「戒律」とは「大きな何かの気に入るように生きるための「べからず集」」である。

 「宗教」が確立し、このような前提を蒸し返す必要がなくなったため「自己啓発集団」=「宗教団体」という図式が成立しやすくなる。現在の不遇の原因を自分のせいにするか、先祖のせいにするかの違いだけだ。

まるごとの信仰

 先祖の供養から現世利益から死後の安寧まで。この「物欲」を支えているのは「物質に働きかける力をもった霊体」の実在という物語だ。それは自分ではどうしようもない現実を支配するモノとして想定された、いわば「人のせいにする」ための装置である。信仰とは「守護するもの」と同時にこの「悪しきもの」をも信じることである。

外科手術

「悪霊」は単体で人々に取りつくことが出来るが、それを祓えるのはごく一部の者に限られる。このイメージは「病巣」と「医者」の関係性と同じだ。こうした傾向は洋の東西を問わず見ることができる。

医王ブッダ

 ブッダは医王と呼ばれていた。だが、ブッダの方法は外科的でなく認知療法的であった。仏教においては、全ては「個」の問題なのである。そして、仏教においては「信仰」という姿勢はないと私は思う。

信仰とは個の問題である

 信仰とは、言動の規範であり、自らの存在意義となる。迷いを払拭するものであり、「悪」を正す動機となるものである。

 自分が何を信仰しているのかを、他人に宣言する必要はなく、信仰のために何らかの団体に所属する必要もない。そもそも特定の時間、特定の場所、足を運ぶ義務を課すことで信仰の度合いを試すようなモノを信仰する価値などない。

 例えば、神父や牧師や預言者や僧侶の言葉を聞き、「神」をより深くしるために集うのだという人がいれば、「六法全書の市民講座のほうがよほど、現世利得のためになるのに」と思う。

よく知りもしないものを信仰するから「狂信」が生ずるのである。

「信仰」は共同体の環境であってはならない。それは「個」に内面化された「倫理」であるべきだ。

布教(勧誘)の問題

「営業」が必要なのは「教団」であって神ではない。

 よいものを知ればリツイートしたくなる欲求は認めるが。無理強いはよくない。

あなたの幸せに、私をまきこまないでもらいたい。

 

では宗教の役割とは

 生きる理由を与えてくれるもの。(人任せだね)

 よりよく生きる指針を与えてくれるもの。(にんげんだもの

 神の国を実現するために闘争する。(この地上でやらないでもらいたい)

改めて宗教の役割とは

 宗教というのは(仏教以外は)比較的浅い段階での思考停止を要請し、後は「こうだからこうじゃ!」という力技の精神論となる。それを信仰するものにとっては、非常に強い杖となることだろう。その杖は時として人を打つことにもなるのだが。 

参考

TED 9/25(月) 9:52配信より
headlines.yahoo.co.jp

(前略)これは素晴らしい瞬間でした なぜなら 恐怖は伝染するものですが 信仰もまた伝染するからです 信仰は合理的でも 感情的でもありません 信仰は 意志を通すことです 信仰は意志を律することです 信仰で 自分のあらゆることを 変えられるようになります 私たちの弱さや 弱点を 強みや 力へと 真の変容です 恐怖に直面して 立ち上がり その先 その向こうを見る力を 与えてくれます 皆さんがそれを 覚えていてくれることを望みます 自分のボートの周りで 嵐が荒れ狂っているとき 私たちはみんな 内に持っているその力に 繋がる必要があるからです(後略)

2002年コロンビアのゲリラ組織コロンビア革命軍(FARC)が大統領選さなかのイングリッド・ベタンクールを拉致しました。その後6年間、ベタンクールはジャングルの収容所で人質として過ごし、コロンビア政府によって救出されるまで、マラリア、蚤、飢え、人間の残酷さに苛まれることになりました。政治家から作家となった彼女がこの深く個人的な講演で、絶えざる恐怖の中で生きるのがどのようなものなのか、そして信仰がいかに支えになったのかを語ります。 ( translated by Yasushi Aoki , reviewed by Yuko Yoshida )

 おわりに

 私は「宗教」は必要だと思う。だが「神」は不要だ。だから仏教が性に合っている。

「神なき神秘学」と鎌田東ニ氏は『身体の宇宙誌』に書いていた。

 私にとっての宗教は、「存在」に迫るための方法である。「存在」が「法」であり「存在」の「法」でもある。本尊は『「私=個」という存在そのもの』である。

 「存在」を「偶像」を離れてとらえるために「宗教」の方法論が有効と考える。

 だから私は「信仰」を生きている、などとはいえない。私は「ただ生きている」のである。