はじめに
蒟蒻問答について
ひじょうに印象深い落語。様々なところで採り上げられています。
こちらのブログではとても丁寧に分りやすく紹介なさっていますので、よく知らない方はまずはこちらをご参照ください。
大根問答について
私は多分、『蒟蒻問答』よりも、アニメ一休さんの第83話『大根問答と一日和尚』の方を最初に知ったと記憶しています。
問答のあと、まだお話は続いていて、吾作さんが少々増長し、結果凝らしめられる(?)ような展開があったような気もしますが、そのあたりは定かでは在りません。
アンジャッシュさんに絡めた話について
この『問答』に関して、『アンジャッシュ』さんのネタを思い起こす方も多く、私自身も、『蒟蒻問答』ってどんなの? と尋ねられたら、「アンジャッシュさんの、お互いがお互いの言葉を自分勝手に解釈するズレを楽しむネタみたいなもの」と答えるのではないかと思います。
ですが、今回のブログで採り上げるのはこの部分ではありません。
問答の勝敗
審判がいないこと
問答を挑んだ旅の僧が「参った」といって去る。私は、この点に納得がいかないのです。
通常、こうした問答においては、ジャッジとしてより高位の僧がおり、勝ち負けを決めることになっているはずだからです。
返答に詰まる、観衆がみて明らかに誤った答えをした、など優劣が明らかであれば、審判は不要かもしれません。しかし、こうした問答に負けた方は、六文銭を受け取って、笠一つで門をたたき出されるのだと読んだことがあります。(『ブッダの方舟』)
つまり、簡単に「負け」を認めることなどありえないのです。
必至をかけられたら
蒟蒻問答でも大根問答でも、僧が自ら負けを認め、逃げ出していきます。自らの負けを認めたということは、僧自身が相手の答えを理解できているということになります。 だから、本当は、この時点で僧は負けていません。将棋でいえば、「必至」の状態とよべるのではないかと思います。これで「投了」してしまった僧は、相手の底知れない大きさ、深さに恐れをなしたのです。
深みへの恐れ
ですが、そんな僧が恐れた深さとは、せいぜい僧が測ることのできる程度の深さであったにすぎません。これは、蒟蒻屋さんや農民が浅い、ということでは全くないことを明記しておきます。僧が自らの浅い深さを恐れ、「悟り」にいたる重要な契機を自ら捨て去ったということなのです。
虎穴に入らずんば虎子を得ず
負けを認め相手を称えるとは
僧の態度は、一件すると「潔さ」であり、「無知の知」に値するようにも見えます。 しかし、もちろんそうではなく、完全に追い込まれてしまう前で、勝負を途中で投げ出したことを誤魔化す「負け惜しみ」であり「自ら(の知)を保持するための姑息さ」だということは明らかです。僧は自ら「負け」を認め、相手の凄さを褒め称えることで、自らのプライドを保ち、自分という器を守ったのだと思います。
知識という網が織り成す世界
知識とは知識と知識との相関です。我々はそのような網で世界をすくいとり、世界を定着させています。一方、この網で掬い取れないものについては、世界として認識できないのだと思います。
知識を増し、網目が細かく複雑にすればするほど、世界を微細に捉えることができるようになるでしょう。そのように知識を織り続けてきたからこそ、僧は、身振り手振りから、仏法の知を読み取ることができたのです。
また、それが僧の業、知識の業ともいえました。知識は貪欲に、あらゆるものを網に絡ませて、複雑化していくのです。
知と智の区別
ここで便宜上、「知」は「知識」として、「智」は「究極の法、ダルマの知」と使い分けることにします。
「知」は基本的に削岩機によって砕かれ、網によって掬い取られます。「智」は部分をもたず、常在遍満していて、我々は「智」を「智」のまま捉えることは基本的には不可能です。
無意味と非意味
無意味
「知」は意味をもたねば「知」とはみなされません。「意味」とは「知識間の網目」のことです。この網目は、常に様々な「知」に引っ張られ、引っ付いて、その形を変化させています。
この変化し続ける網目の形状に引っかからない形状の知を「無意味」と呼びます。網目は変化しているので、今引っかからなかった知もいつかは引っかかり「意味」をもつかもしれませんし、その逆の場合もあるでしょう。
ともかく、「知」には「意味」と「無意味」とがあるということです。
非意味
「非―」という接頭語は「無―」とか「不―」とかに対応させるのに便利な言葉です。「智」は「意味」を持ちません。それは「無意味」という意味ではなく、我々が捉えることができないという点で「非意味」といえます。
そこに「意味」を見出してしまえば、それはもはや「智」ではありません。なぜならば「意味」とは常に「部分」として現れるからです。そして、何かの偶然で、我々が「智」に刹那に触れることがあったとしても、そこに「意味」を見出すことができないことから、「智の気配」を全くの「無意味」としか認知することはできないでしょう。
寄り道ー禅問答
この「智」に言葉によって迫ろうとするのが、「禅問答」なのです。禅問答とそれに関する考察も多数取り上げられていますので、そのなかから興味深いブログを一つ。
虎穴の在りか
僧は、みずからの知識を惜しみました。だいたい、問答に完全に負けて寺を追い出されたからといって、禅僧たる者、何を失うというのでしょうか? 失うことを惜しむなどという精神自体が、禅とは程遠いと思います。
「智」を求めるのであれば、「意味」の歪みや裂け目を抉って、ぶち壊していかねば嘘です。
虎穴にいらずんば虎子を得ず。ならば、非意味にいらずんば非意味を得ず。であるに決まっています。
自らの知識にアカンベエをされたことにも気付かず、用意していたクイズに簡単に答えられてしまったと勘違いして尻尾をまいて逃げ出すようでは、一生「意味」から逃れることなどできますまい。
知識は惜しみなく奪う
知識は貪欲です。その貪欲さは、多少の齟齬や居心地の悪さは、適当に誤魔化して、網に繰り込んでしまいます。
その違和感にこだわり、かつ意味で解決しようとしない態度で、綻びに指をつっこんで何となく、ぐりぐりと穴を押し広げて行くような態度。痛みも生じるでしょうが、そうやって「堅牢な意味の構造」を疑っていくことによってのみ、「智」とすれ違う機会が増すのではないか、などと思います。
さいごに
蒟蒻問答という落語。もっと荒唐無稽なジェスチャーのやり取りを延々と行って、その後、僧の種明かしについても、支離滅裂な公案そのものという、シュールへ突き抜けた演目として、どなたか演じてはもらえないでしょうか。