因果
原因とは、ある結果に至るまでに関係した膨大な事実を、偏向的に編集した結果である。
因果の効能
結果には原因があるという見方が広く受け入れられている理由は、
- 理論的整合性は、存在をカオスの恐怖から救い出してくれると感じられるから。
- 未来の不確定さに対して働きかけを行う余地があると思うことができ、未来に対する不安が多少軽減できるから。
①は空間的恐怖、②は時間的恐怖。つまり、「存在」に対する不安が「因果」を求めている。
このことから、存在は過去に縛られているとの認識が共有され、その結果、本末転倒である「運命論」が導入された。我々は、存在を安心するため、自らを「因果」に縛りつけ、不自由になっているのである。というのはまた別の話で。
因果の余地
「だけど、何かをしたからこそ、何かが変わるのではないか」という素朴な感想を、私は却下しない。
我々は世界を細切れにしか認識できない。その細切れの認識が、空間を感知させ、時間感覚を生み出し、因果関係を取りざたする余地を与えている。
科学の子
我々は、何をすればどのような変化が生じるのかを、経験則の蓄積と類推能力によってある程度、予測することができる。
物理化学において、この予測はおそろしいほどの精度を持つ。だが、我々が用いる意味での「因果(応報)関係」という言葉を、物理化学の分野において聞くことはない。
裁判における因果
かように、因果とは恣意的な関係でしかない。裁判において被告が罪をなした原因を説明する弁護士と、その弁明を受け入れる判決の恣意性が、その最たるものだと感じる。
かような犯行に及んだ要因は、幼い頃の貧しい生活環境、両親からの虐待、学校でのいじめ、就職口が見つからないこと、職場におけるパワハラ、などと理屈をつけて、「こうした原因が被告を犯行に追いやったのである」と、被告もまた、不幸な原因の被害者なのだといわんばかりの弁明が行われる。
原因の原因
では、その原因をつくった両親や学校とその関係者、職場においてそのようなパワハラを起こすにいたった原因をつくった上司や、会社、国家の責任を問わないのはなぜか?
また親の親、上司がパワハラを行使するにいたる学童期の悲惨な経験を形成した諸要因、関税障壁、国連についてはどうか?
生まれたのがわるい、この世界があるのが悪い、存在することがわるい。
この「存在することの悪」という極論こそが、「因果の根本」なのであるが、こうした議論が裁判において行われたことはないようである。
因果を、被告に情状酌量の及ぶ範囲のみにおいて、かつ犯罪の責任の所在を必要以上に広げない範囲のみに限定して用い、判決に影響を与えるという点に、違和感を禁じえない。
被害者の因果
一方、被害者を、年齢や能力、才能や財産などによって区別し、量刑を加減するといった方向性は、「差別的」とされてはいないだろうか? 遺失利益や慰謝料の算定などについては、考慮されているかもしれないが、子供だろうが、老人だろうが、高卒だろうが、大学院卒だろうが、同罪状でも量刑が大幅に左右されるということはなさそうだ。私の認識不足で、これらの要因によって量刑が左右されるのならこの部分は削除します。
応報
我々の日常生活における「因果関係」には、言外に「因果応報」の観念を含んでいる。
応報の感情
因果とは、物理法則に従い機械的に発動する変化の連鎖を、一連とみなしうる恣意的な部位において切り取ったときに生ずる始まりと終わりであり、そこには何らの価値判断も含まない。
だが、この一連の変化に「感情」が介在すると、「応報」が俄然問題となってくる。
「応報」とは、「不公平な扱いに対する苛立ち」を解消するための機構として発生した仕組みである。
良い事をすれば良い事が、悪いことをすれば悪いことがもたらされる。こういった意味の諺や故事来歴は枚挙に暇が無い。
善悪基準
善悪基準は、共同生活をいとなむ集落の「きまり」「掟」というローカルルールから、それらを一般化した世界宗教教義というグローバルスタンダードまで整備されている。それらは様々な違いを孕む。善悪基準には妥協はありえないので、互いに相容れない部分をもつ者がぶつかる場合には、殺し合いによって互いの殲滅を目指すしかないのであるが、それはまた別の話で。
懲らしめる主体
善悪が共同体に根ざした価値観である以上、物理的運動である「因果」との間に適正な連関が働くはずはない。
因果応報を実現するためには、因果を監視する機構が必要であり、悪い原因に良い結果がもたらされた場合には、その結果を剥奪し、さらに見せしめとして懲罰を与える機関が必須なのである。
因果応報
干渉する応報
「応報」は「因果」に干渉し、因果そのものを応報に沿わせるのである。
その基準となるのが、「ふつう」「あたりまえ」「一般的な」「常識」「公衆道徳」であり、その執行者は「お天道様」であり、「みんな」であり「世間」であり「民意」であり「社会」である。
お天道様の相互監視社会
因果応報が破られ続けると、「うまくやったもの勝ち」という気分が趨勢となり、共同体の維持が困難となる。だから、因果応報は確実に機能しなければならず、そのためには必罰主義が最適であった。
その土地を離れて暮らすことが難しいところでは、何をするにしても「お天道様」が見ており、悪い言動が見受けられれば、「因果に応じた疎外」が発動した。全ては当然の報いなのである。
法の網
そして、土地に執着しなくても暮らしていける者に対しては、各種法律が整備されているのである。こちらは、土着を離れて一般化されている分、懲罰は生ぬるいのであるが、その分「権威」を効かせるべく、民衆教育が施されている。
刑罰における応報
先述したように、法にあっては、その応報の度合いは一般的で、生ぬるい。
例えば、懲役三年よりも、屋根裏に隠してある秘蔵コレクションの破棄の方が、より因果応報的にマッチしているのだとすれば、そちらを採用すべきなのだろうが、現状では、個人に応じた因果応報の計測を行う方法が確立していないため、不平等感は拭えないのである。
国家は命令する
「国家」は「被告」と「被害者及びその関係者」にむかって、「法がもたらした応報で納得すべき」だと命令するのだ。
法の下の平等においては、個人は個人たりえない。個人を個人として一般化することが不可能だ。だから、法の下で個別対応はありえない。(因果応報アルゴリズムが実用化されれば変わるかもしれない)
不服があるなら大きな声を発せよ。それができなければ納得(泣き寝入り)せよ。それがいやなら出て行け。
その土地を離れることが難しいところで威力を発揮した「疎外措置」は、国家においてなお、働いているのである。