望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

いくじなしのサディスト ―川端、芥川、太宰、啄木、島崎と、村上龍

はじめに

 君のぉ、そして僕とぉ、姉ェ~さんのことわ。とてもいいっ! とてもいい! とてもいい! とてもいい! お・も・い・でっ おもいでっ! おもいでっ! おもいでっつ! ぇだったぁ! よねぇ~~~~
 兄さん! 兄さん! いくぢなしの兄さん。 僕は、君と、姉さんを。「脳髄は人間の中の迷宮であるという観点から」敢えて赦そう。。。だから兄さん! どんなにたくさんの人が馬鹿にしてもっ! 君達にはフェチティストであり続けてほしい。兄さん聞いているのか! 兄さん聞いているのか! 兄さん聞いているのかっ!
〔しかしその後、兄はしがないアンテナ売りで一生を終えた〕
 こぉ~~~~~~~~~の いくぢなしがぁ~~~~~~~~~っっっ!!!
(筋肉少女隊「いくぢなし」 うろ覚え抜粋)

このブログの続きでもある

 以前、綴方教室に関する本を読んでいて思ったことを書いた。

 特に、後半の、川端康成さんについての記述が腑に落ちたのだ。

mochizuki.hatenablog.jp

 今回、上記内容を強力に補完する記述を他の本から見つけたので文末に抜粋した。
 そして改めて、いわゆる日本を代表する文豪達の「男尊女卑」についてまとめておきたいと思った。


越境を赦さない男達

川端康成の場合

 繰り返しになるが、私は川端康成の『掌の小説』を手本とするものである。同時に、彼の女性蔑視を心の底から軽蔑するものでもある。
『雪国』の駒子という少女に対する心情など、いやらしさしか感じない。その嫌らしさは、
①女を娼婦としてしか見ていないところ
②自分だけは好きなように行き来できる「トンネル」という安全装置完備
③圧倒的な経済格差にものをいわせた権威主義
④その上に成り立つ自己本位な「憐れみ」
 といったところだろうか。

芥川龍之介の場合

 このように挙げてみると、これらが完全に当てはまる作品がすぐに思い浮かぶ。
 芥川龍之介『南京のキリスト』だ。
 私はこれを映画でみた。もちろん、富田靖子さんが出ていたからだ。

www.allcinema.net

 この作品においては、国境の「トンネル」が「海」に変わっているだけで、あとは全て当てはまる。
 主人公は彼女の苦境に際して、手を差し伸べさえしない(知りもしないのだ)。事後、その哀れを思って落涙し、「 誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」(これは『歯車』からだが)と自己憐憫にすり替えてしまう。

越境を拒む男

 こちらの都合のよいときに、慰み者とするだけで、自分の生活へ越境してくることを断固として拒む。女性に人格をみとめていないのである。それは、単に玩具である。

石川啄木の場合

 女を娼婦としかみられず、妻は自分を圧迫するだけの邪魔者である。たしかに、石川啄木は、女と自分を「安全装置」によって隔てた越境者ではない。
 だが、そうしないことで、自分が人生に対して敗北を喫することを肯定することを赦すのである。
 そんな女、そんな社会、そんな自分に対してグチグチと出る恨み言が彼の短歌だ。そこには自己愛しかない。この自己愛は、自己嫌悪の仮面をかぶって、そんな自分ですら愛おしいという、手の込んだものである。

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太宰治の場合

  太宰にいたっては、心中ゴッコすら演じてみせる。彼は道化の仮面を被りながら、イヒヒとはいわないまでm、やはりニヤニヤ笑っていたのだと思う。

  玉川上水で心中するにいたるメンタリティーについて、私は、寺山修司さんの『さかさま文学史』の影響を色濃く受けている。石川啄木の項もあったかもしれない。

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島崎藤村の場合

 彼は、いとことの間に子供をつくって、困った挙句、親に始末を頼んで海外へ逃げ出した男である。

「新生」wikipedia
19歳の1912年半ば、藤村と関係を結び、藤村との子を妊娠する。
藤村は1913年4月にパリに留学。同年8月に藤村との子を出産するも養子に出された。この養子は1923年の関東大震災で行方不明となる。
藤村は1916年に帰国し、関係が再燃。「二人していとも静かに燃え居れば世のものみなはなべて眼を過ぐ」はその時のこま子の歌である。
その後で藤村は1918年、『新生』を発表し、この関係を清算しようとした。
1918年7月、こま子は家族会の決定により、台湾の伯父秀雄(藤村の長兄)のもとに身を寄せることになった。それ以来、藤村とは疎遠となる。

 藤村はその19年後の1937年に「こま子とは二十年前東と西に別れ、私は新生の途を歩いて来ました。当時の二人の関係は『新生』に書いていることでつきていますから今更何も申し上げられません、それ以来二人の関係はふっつりと切れ途は全く断たれてゐたのです。」とコメントしている。

一方、こま子は後の手記で「(小説「新生」は)殆んど真実を記述している。けれども叔父に都合の悪い場所は可及的に抹殺されている」と述べている。

 ※この件も、前述の寺山修司さんの本に書かれていたように記憶している。こうしてみると、私の作家感は、この本によるところが大きいようだ。


「目をかけてやる」という考え

 彼らの精神は女性に対して、「目をかけてやっている」という尊大さに膨れ上がっている。為したことについてこちらに「責任」が発生するなど、これっぽっちも考えてはいない。

いくじぢなしのはる虚勢

 川端は結局、こちらに対して働きかけてこない約束の、『眠れる美女』しか相手にできない。それは、自ら「巻き込まれることを望む男達」である、谷崎潤一郎さん、沼正三さんのように女に人格を認めることができず、『ロリータ』や『ナオミ』や『ナジャ』にように、自我を揺さぶるような体験を許容できない。
 この「揺さぶり」を恐れて逃げだす「いくじなし」の精神を「純粋」「繊細」などと呼ぶことを私はできないのである。

村上龍『心はあなたのもとに』の位置づけ

ここまで書いてみて、思い出したのが、村上龍さんの『心はあなたのもとに』だ。この作品について私は、酷評のブログを残している。

 

mochizuki.hatenablog.jp

  この小説が、今回のブログに登場した男達の系譜上にあることがよく分った。
 そして、ここまで「いくじなし男の図式」に当てはまる以上、村上龍さんは、それを意図的に行ったのだと考えねばならない。

 主人公がどうしようもなくイヤな野郎のまま最後まで存在しつづけ、おそらくその後もそのまま存在し続けるであろう読後感を与えられたということは、パロディー小説としての大成功だったのだという風に受け取らねばならない。

二度と読む気にはなれないが。

さいごに

少女の綴方に対する意識(抜粋)

 川端康成太宰治の「女性に意識、知性、主体を認めず、たんに慰みもの、道具、としてしか見ていなかった」ことがわかる資料を、引用しておく。とくに川端については、女性の台頭を恐れるあまち、文壇の権威者と女性を抑圧していたのだということがよくわかる。まさに、いくぢなしである。

川端康成は少女雑誌の作文投稿の選者を長年勤めていた。その一つ『女性文章』の序文(1943〈昭和18〉年11月記。―)において、素人の女性の作文を評価する際には、「女流文学者を志望するものなど一人もない。さういふ才能のある者もない」といい、「いはゆる文学少女臭を極力排」し、「巧舞をしりぞけ稚拙を愛し」、「才女を閉め出」すことで、この選集の「純粋の声」を殺さないように努めたという。
 もっともこれは、素人女性が書いた作文には素材的価値はあるが、それは〈小説〉ではないという論理である。(『日記文化から近代日本を問う』田中祐介編 笠間書院 2017.12.25 p.213)

 

島崎藤村もまた(中略)『模範綴方全集』〈全六巻、中央公論社 1939〈昭和14〉年)の「序のことば」の中で、「年幼くして文章の門に入らうとするものは、すなほな心で物を書くことこそのぞましい。思ふことがすなほに書けたら、楽しいではあるまいか。それが濃くもなく、薄くもなく、まことに思つた通りの色に出て、そして正しく人に傳へられるやうに書けたら、実に楽しいではあるまいか。」と書いている。(中略)
 藤村の「序のことば」は、川端の「わが愛する文章」(『白鳥』1947〈昭和22〉年1月~1948〈昭和23〉年7月に断続的連載)に抜粋されて再録されており、川端はこれを成人にも通じるから再録したと書いている。
(同書 p.214)

 ここで、気になるのは、川端が島崎の文章を「抜粋」している点である。もしかしたら、「年幼くして文章の門に入らうとするものは」の部分は、外したのではないのかと、勘ぐりたくなる。川端はそれほどに、若い芽を摘むことに躍起になっていただろうか。

女性の日記は、本当のこと(田山花袋の言葉)、〈生の声〉を描いていて、素朴で純粋な価値観の反映がある(川端や堀や安吾)、という考え方は、もっと言うと、素材として素晴らしいが、素材にしかならないという発想にもつながっていってしまう危険を持っている。小平麻衣子が、『新女苑』(1937〈昭和12〉年創刊)における女性読者投稿欄に対する川端の選評を分析して、「書くこと自体を、花を活けるように慎ましい生活の色どり以上であってはならない、と述べているのをみれば、これは題材のみならず、書き手の職業化をも阻害するものである」と述べているように、川端の捉え方は女性を職業作家にすることを阻害するものである。そして川端は、中里恒子ら多くの女性を、「川端康成」という職業作家の下請けとして、代作者としていくのである。(同書 pp.214-215)

 女性が作家として立つことは難しい時代だった。(そうしていたのは文壇でもあったろう)そこで、作家たる自分が、その女性の心情を代弁してやる。といういやらしさを感じる。この男達に「純粋の声」を吸い上げられた彼女達に、はたして見返りはあったのだろうか。「採り上げてやっただけでもありがたく思え」とか考えてはいなかったか? リスペクトの念など微塵もなく、ただ嫉妬と、その反動からくる愚弄する心と、何かあれば権威と、金で解決すればいいという冷酷さはなかったか?

 

有明淑子の日記をもとにした太宰治『女生徒』(1939〈昭和14〉年初出)や、戦後のものになるが、太田静子『斜陽日記』をもとにした太宰『斜陽』(1947〈昭和22〉年初出)の文章は、原作女性の日記の文体にほとんどてを入れずにリライトしたものである。中沢恒子が書いた『乙女の港』が多少の手を入れて川端名義で刊行されるのも、同じリライトの理屈である。(同書 p.217)

 

川端は太宰治の『女生徒』について、
太宰氏の青春は「女生徒」に女性的なるものとして歌はれた。そこにこの作者としては珍しく多くの人にも通じる、素直な美しさを見せた。(中略)作者は「女生徒」にいはゆる「意識の流れ」風の手法を、程よい程度に用いている。(同書 pp.218-219)

 

この川端の「欲しがりな眼力の確かさ」に、私は吐き気がするほどのいやらしさを覚えるのである。

注意とお願い

このブログは「個人の感想」でしかなく「論文」の体裁には程遠い。今回とりあげた作家達について「そんなことはない」「こんなに女性をリスペクトしていた」などの異見があれば、ぜひお知らせいただきたい。作家のためにではない。抑圧された女性のために、である。