はじめに
意識は身体感覚の総体から生じる。その総体とは「脳」に集約される。意識の痕跡が記憶となる。
『変身』
毒虫の脳
一夜にして毒虫となったグレゴリ=ザムザが、昨夜までの記憶を持っているということは、人間の脳の形が保存されていなければならない。しかも、これまでの知覚野や、運動野がそのまま変化後の器官に接続され、運動のための連動もスムーズにおこなわれているのは、奇跡的だ。
ただ、言葉を発する機能だけは、継承できなかったようだ。気管、声帯、舌、顎、歯などの変形によるのだろう。となれば、頭部は人間の頃に比して大きく変化していると考えられる。彼の記憶はどこに保存されていたのだろうか?
意識の座
意識というものが、身体を離れた、どこか中空に漂っているという漠然として印象、この世をとりまくエーテル界だとか、現次元にぴったりと寄り添っている裏の次元、高次存在体、遍満する超意識、磁性知性体モノリス的全知。
私はそういったものを導入するつもりがない。やはり、意識とは身体機能に含まれると考える。
昆虫や恐竜のように、身体をいくつかに分割して制御する神経網の塊があり、そこに記憶がうまく分散しているとすれば、人間の記憶をもったまま、虫に変わることも可能かもしれない。
脳の可塑性
しかし、彼にとって味覚や明暗の好みは確実に変化したし、体になじむにつれて、壁や天井なども這い回ることができるようになることから、毒虫独特の器官、脳の働きが付加されており、さらに脳の可塑性が発揮されていることが明らかだ。
つまり、毒虫への変化とは、身体の麻痺や欠損、または余剰など、いわばパーツの変動と、それによる脳の領域の仕様変更が行われているということとなる。つまり、時とともに人間+毒虫としてのリハビリの成果が現れているということになるのだろう。
『イグアナの娘』
思い込みという事実
一方、青島リカさんの場合、母からみて彼女がイグアナに見えるという事実が、彼女自身も自分がイグアナに見えるという状況を生んでいる。
これは、『変身』とは違う。グレゴリ=ザムザは誰がみても毒虫であり、人間であった頃の記憶が、本人と家族とを苦しめる。だが、青島リカさんは、母親と自分だけが、自分をイグアナとみており、他人から見るとイグアナには見えていない。しかし、本人は、周囲の人々もみな自分をイグアナと見ているはずだと思っている。
つまり、彼女にとっては人間であったころの記憶はない。だから、自分が、不幸なのは当然であり、幸せにはなれないのだと考えている。
不条理
グレゴリ=ザムザが、とまどい、悲しみながらも、毒虫としての身体を受け入れ、毒虫の外見であっても家族の一員なのだと思いたがる悲しみは、本人に何の非もないように思われるだけに、気の毒だ。その気の毒さを「不条理」とよぶのだろう。
一方、青島リカさんの場合は、母娘関係が気の毒でこそあれ、そこに不条理は無い。ただ、イグアナが人間世界で生活しているという奇妙さを受け入れることにおいてのみ、彼女はグレゴリ=ザムザの存在と響きあうことができる。
外見と触覚との齟齬
大事なことに思い至った。
青島リカさんは、思い込みで自分がイグアナに見えているだけで、実際には肉体は変容していないように見える。
だが、上図の絵を見ても明らかなように、イグアナとしての彼女は人間とはだいぶ違う。なんというか、イグアナはひじょうにイグアナらしい。それは、つまり、眼のつきかた、耳たぶの有無、髪の毛の生え方、口の大きさや開き方、鼻のつきかたが、人間とは全く異なっているということなのだ。ということは、
彼女が、髪をとかす、目薬をさす、箸を口に運ぶ、鼻をかむ、などすると、実際の人間としての形を、手は感じているはずなのだ。
にもかかわらず、彼女は自らの触覚と視覚とにズレを感じていない。つまり、彼女は外観的には変身していないが、「脳内の感覚野、運動野、それらを統合する機能」において、明らかに変化しているのである。
意識が、脳内マップを変更してしまっているのだ。
意識による身体の変容と身体による意識の変容
相関する意識と体
いずれの場合も、身体の変容と意識の変容とは相関関係にある。
健全なる精神は健全なる肉体に宿る。との古めかしい標語は、「健全さ」という前近代的な価値観さへ取り除けば、現在も有効だ。ただ、正確に書き換えるのであれば、精神は肉体に宿る…いや、違う。
精神は肉体である。
とするべきだろう。
宿る難しさ
「宿る」と考える場合、肉体から離れたところで働く「意識」を「肉体」とがなんらかの方法でリンクしており、肉体から意識を改変できるということになる。物質が意識を変革する場合、その伝達には物質が使われなければならないだろう。(物質に物質性以外の何かが含まれているとの観測がない限りは)では、どのような物質なら、意識と肉体とをつなげるのか? そして、物質が到達できる意識の座とはどこか? を望遠鏡か、顕微鏡で探索しなければならないだろう。
※意識が物質性を持つ、との観測があった場合は、その伝達には物質が用いられていることとなるので、問題は同じこととなる
「宿る」を入り込むと考える場合、意識の種子が肉体に飛び込んでくるということになる。それは飛び込んだ瞬間の肉体の状況に反応するのみならず、その後の肉体の変化に伴った成長を行うのだろう。肉体によって意識が変化するのなら、それはやはり物質が意識に働きかけているということになる。その場合、仲介は身体内で行われているということになるので、探索場所は限られるわけだ。いや、そもそもの意識の種子がどこからやってくるのかについての探索は、必要となる。やはり、望遠鏡か顕微鏡が必要となるわけだ。
この世に、物質以外のものが存在するのか?
私は、無いと考えている。もっといえば、「モノ」というものは、刻々と変化していく「コト」を、便宜的に「分断」した断面にのみ現れる観測結果でしかないと、考えている。つまり、「モノ」は無い。
この世にあるのは、というより
この世とはコトである。
というのが、最近考えていることである。
以上。