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望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

外科医の詩情

はじめに 演出論なんちゃって

 手術、死体、暴行、処刑、事故。人体欠損の様子を、真正面から映し出す演出が増えてきました。小道具の製作技術や、CG合成の技術が進み、高解像度でも作り物っぽくない臓物などを提供できるようになったのですね。
 映像としてのインパクトは大きく、おもわず目を背けたくなる描写が多いのですが、このインパクトは諸刃の剣ではないかと感じています。

 演出というのは、結局「何を見せるのか」ではなく、「どう感じさせるのか」に尽きるのではないかと思うのです。
 そして、リアルな臓物のせいで、「どう感じさせるのか」をコントロールすることが、逆に難しくなっているのではないかと思いました。

見せる?見せない? 頼る?頼らない?

  白い巨塔

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 私の経験した作品の時系列で、もっとも古い「吐き気をもよおすようなリアルさを感じさせた作品」は、映画版『白い巨塔(田宮次郎さん版)』の、手術シーン、のようです。
 横臥姿勢の婦人のわきから背中にメスをいれる。切り開かれる皮膚と脂肪の層。黒色の血が、金属めい た光沢を放ちながらドロリとたれる。体内で内臓は、鮟鱇のようにくったりと折り重なっていて、身体内部に手をいれるが、患部が見つからない。
 「人体は、人体解剖図のように整然としてはいないのだ」ということを、私に刻み込んだ場面です。
 モノクロで、体内をそれほど克明に映していなかったはずなのに、人体というもののリアルさを、いやになるくらい感じましたし、この手術によってさまざまなものを失うであろう絶望に溢れる外科医達の描写が、胸にせまりました。

 眼はやめて欲しいの

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 古典洋画で、眼をそむけたくなる描写といえば、『アンダルシアの犬』とか、『時計仕掛けのオレンジ』でしょうか。眼は怖いですね。

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 分かってて、押し付けてくる感覚が、もう駄目です。そんなの、痛いし怖いと感じるに決まってます。安全牌ですね。

 海外、犯罪・医療ドラマ 日常の差異

 一方で、見せる演出路線を突き進むのは、海外ドラマの世界です。

 とかく、海外ドラマにおいては、人体損壊に関してはタブーは無いようです。そのリアルさは、逆に、作り物めいてみえるくらいです。もちろんそれは、私が日々、人体損壊や、露出した内臓などと出会うような状況におかれていないせいなのでしょう。

グレーズアナトミー

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 『グレーズアナトミー』では、 手足の切断面や、脳腫瘍摘出の様子、子宮内胎児を取り出して、再び子宮内へ戻す手術なども、全てを見せてくれます。それらは、医師の観点で映し出されてい ると感じます。つまりそれらは症例なのです。感情で、眼が曇っては、的確な処置ができません。だから、常に明晰な視覚を確保し、最大限人体を映し出す方法 を採用しているのだと思います。
 そのなかで、人間=物質 に帰着しないよう、医師、患者、患者の周りの人々の感情に中心を置いているのです。
 目を背けたくなるような描写であっても、そこに立ち向かう医師の姿勢に崇高を感じ、あくまでも、「人体」ではなく「命」がテーマなのだと納得できるのです。

 ボーンズ

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 『ボーンズ』においては、まず変死体の発見があります。この死体が何を語るのか、が主眼なので、遺体はひじょうにリアルに製作されなければなりません。そ して司法解剖の様子もまた、明瞭に示されなければならないのです。
 検視に関するドラマにおいては、痛みはさほど感じません。インパクトを補うためには、遺体をよりグロテスクにしなければならず、殺され方、遺棄のされ方のバリエーションは、他の追随を許さないのではないでしょうか。(CSIシリーズは物証メインなところがありますし)
 肉片や汚れをおとされた全 身骨格をみると、どこか、清浄さを憶えます。成長過程における様々な出来事を刻み込んでいる骨は、確かに率直で隠し事などしないのだろう という気になります。

ウォーキング・デッド

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 『ウォーキング・デッド』のウォーカーの攻撃と撃退シーン。
 ウォーカーは、人間であって、人間でない。そんな位置にいましたが、シーズンが進むにつれ、人間ではなくモノだという捉え方が強くなります。なので、その処理の方法はひじょうに効率的で、顔をバットで粉砕する、槍で脳髄を突き刺す、刀で首をはねる、など、残酷になります。
 血が流れることも無いので、日 本の時代劇の殺陣から、様式美を除いたような感じになります。(脱線。チャンバラの様式美に慣れた日本人にとっては、本当に腕や肩が落ち、血が吹き出るリ アル系の殺陣は、ちょっと湿度高すぎって感じがします。香港映画のカンフーモノも同じです。『マッハ』みたいに、痛みがリアルになると、少々きつい。)

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ギニーピッグ

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 日本においては、映画館で封切った、「世界残酷物語」や「カランバ」などの体験に続き、ビデオ屋にならんだ「ギニーピッグ」シリーズにおいて、一ジャンルを確立したという印象があります。

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 物語などない。ただ生体を蹂躙する。そうした残虐嗜好者は一定数存在するでしょう。

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 かつて、異性人解剖ビデオのようなレベルものと比べて、そのリアリティは目を背けさせるに十分な出来栄えでした。

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 本当のスナッフビデオ!? との宣伝文句を関した映像作品が次々と発売されました。

情報提供の公平性と不公平性

 見たものから何を引き出すかは、見る者の知識、経験次第です。

 例えば、外科手術の様子を克明に見せる場合、それがどのような状態にあるのか、どういったことが考えられるのかを読み取ることのできる人は少数でしょう。
 それでも、皮膚を切り裂き、内臓をまさぐる描写がもたらす体験は、それが無い場合に比べて豊かだといえるでしょうか?

 かつて、爆笑問題太田光さんが、著作のなかでウディ・アレンの作品について語っていました。

「映画の中で、ものすごく難しい理屈を言う場面とかがあるけど、それは、『難しいことを言ってる』シーンってことで成り立っているわけで、意味なんてどーだっていいわけ。でもその意味まで分かる人にとっては、さらにおもしろみが足されるっていうふうになってる…」

 手元を詳細に写さなくても、ストーリーは成り立ちます。そのとき、傷や、臓器を見せてしまったほうが、説明的な演技やセリフを省くことができるように思えます。けれども、主眼は、リアルな臓器ではなく、その状況に携わっている登場人物が、そこで何を思い、どう行動するかです。だとすれば、現場を克明に写すことこそが、冗長な説明描写ということになるのではないでしょうか?

アニメの弱点?

 作品のリアリティーは、どこに求めるべきなのでしょうか?

 例えば、アニメーションと実写との違いは、画面内の情報を、作り手が完璧に調整できるか、否か、という点にあります。

 かつて、押井守さんは、この点を、アニメの弱点として指摘していました。

実写であれば、意図しない雑多なものが写りこむ。そこに偶然のもたらす豊かさが生じる。(庵野さんにも同様の発言があるようです) 

 しかし、作品とは、作り手の意図が隅々まで透徹しているべきだと、私は思います。押井守さんのアニメにしても、結局は全て描いているのですから、取捨選択が働いているのですし、実写にしても、フレーミングに関して、監督は全責任を負っています。
 その完璧にコントロールされた映像から偶然の奇跡を見出すのは、視聴者の特権です。

 リアルな臓物が、作品に必要ならばそれを用意すればいい。しかし、それが不要だと判断するなら、チャンバラでいいのです。作り手が何を求めるのかが、全てです。
 かつては、映せなかった。しかし、今は映せる。それは、選択の幅が広がったということでしかありません。

では、リアリティーはどこにあるのか?

 リアリティー=史実 にこだわるなら、『黒い太陽731』などがあります。

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 しかし、現在では、事実が事実のまま、実際に人が斬首されたり、焼かれたり、溺死させたり、リンチしたりする映像が、ネット上にいくらも存在しています。それは、いうまでもなくリアルであるはずです。

 しかし、ディスプレイを通した、苦しみや、痛み、身体,生命は、とても即物的にみえます。私たちは、理不尽に蹂躙され失われていく生命を、どこか、空疎に感じてはいないでしょうか?

 「即物的」に見えるとは、①「唯物的」に見える、②「作り物のように見える」 の両方が考えられます。この両者の隔たりは、大きなものです。

 「唯物的」に見えるとは、「生命が物のように扱われているな」と感じることです。  「作り物のように見える」とは、生命にリアリティを感じないということです。

つまり両者は間逆な感覚です。そして、②の感じ方は、命の軽視に繋がる危険な感覚です。②から①へ至るのに不可欠なもの。それが想像力です。

 他人の痛み(自分の外側の痛み)を感じること、共感できることが、リアリティの本質です。それは、想像力によってしか、成立しません。リアリティとは主観なのです。奇妙に聞こえるかも知れませんが、それは真実です。(ちなみに、客観とは、主観的共感ですが、これらはまた別のお話し)

小野小町九相図

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 近年の日本では死体は隠されてきました。ですが、かつては死体のある風景は日常でした。(「死」が資本主義の商品とみなされたとき、隠されたのですが、それもまた別のお話)
 仏教では、この世が無常であることを示すため、率先して、死体が腐って風化していく様子を凝視することを推奨していました。その意味で、身体=物質 という認識は間違いではありませんし、生命もまた、即物的なものに違いないのです。


 唯物的な身体、生命を、病院と葬儀屋とに隠蔽し、「死のプロセス」を隠す時代が続いた結果、「自ら」が、損なわれ、失われるものだとの基本的な覚悟が薄れてきていたのだと思います。

 失われるからこそ尊い。無くなるからこそ、大事。との感覚を失うと、どこか、身体の永続性、というか、いつか老い、失われる生命に関する想像が働かなくなるのではないでしょうか。

 その状態で、今、即物的な臓物を映像化することで、「嘘っぽさ」が加速しているような気がします。
 「現実を見せるべき」という姿勢だけが空回りして、その現実を裏打ちする「命」から乖離しているように思われるのです。そのとき、人は、他人をゾンビとみなすようになります。

秘すれば花」のコード 共感の作法

 ああ、映像表現の話でしたね。

 表現の豊かさと、視覚的インパクトの大きさとを混同すべきではありません。

 過激な発言をウリにしたテレビ番組で、やたらと「ピー音」を連発して、スタジオの盛り上がりだけを放送するものがあります。それはピー音で消すことで、すごくおもしろそうなことを言っているらしいと、誤魔化しているだけです。
 映さないものを、想像させることができれば、効果は、現物を見せたときよりも、大きくなります。それは、送出する情報を最適化し、「受け手」がもっている材料で再構成させることができるからです。

 「秘すれば花」とは、意味ありげだとか、曖昧さとは真逆の、能動的な演出でなくてはなりません。

 その時、作り手は、観客にどこまで期待できるのでしょうか?

 幽玄を顕すとは、言葉以前の雰囲気を具現することです。そこでは、他人に対する言葉と感情とを、安易に結びつけることは禁じなければなりません。この世ならぬものと、この世をつなぐのですから、自分にも、相手にも、楽をさせてはならないのです。そして送り手が顕したいものへ、受け手の気付かぬうちに、誘わねばならないのです。

 日本人として、人間として、この世に存在する魂として、共感させること。それが、「秘すれば花」だと思います。その時、揺り動かされる根源的な何か(それはまた別のお話)を錯覚させることこそが、作品を作る意義であり、それが詩情なのです。

 そこに至るのに双方に必須なものが、想像力です。

おわりに

 想像力によって、他人の死と身体の物性=無常感を、自らのものと捕らえ、作り物に魂を与えること(詩情)。 想像と、空想とをはき違えてはなりません。想像とは、苛烈にリアリスティックなものなのですから。