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望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

1+1=3を証明した佐藤優樹さんの発言から 勝手に考えたこと

書籍 社会 佐藤優樹 モーニング娘。

 「物ならできるんですよ!」

 

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モーニング娘。'16のモーニング女学院」(1)のいつかの放送で(佐藤優樹さんが日直だったと記憶していますが)飯窪さん(?)が話していたエピソードです。

(正しい書き起こしができないのが恐縮ですが)

 或る日、楽屋で、佐藤さんが、「1+1=3を証明できた!」と言って、ホワイトボードに図で説明してくれたけれど、全然分らなかったそうです。その話を受けて、佐藤さんが、「いえ、できるんです。豆腐とかだと一番分かるんですけど、これを割れば……」と改めて説明を始めたのですが、「割る」というところで他のメンバー(譜久村さん?)から、「それ、0.5だから」と指摘されました。笑いと総つっこみの中、佐藤優樹さんはなおも、叫びました

「違うんです。物ならできるんですよ。物なら!」

 

世界は物からできている

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1+1=1+1/2+1/2=3は、数式上は成立しません。(2)

 けれども、「二項」であったものが「三項」になっていることに着目すると「物ならできる」といった佐藤さんの発言の意味が見えてくるような気がしました。

 世界には実在しない「数字」のことを言っているのではなく、みんなで分かち合える「物」のことを、佐藤さんは考えていたのではないかと。

 1+1/2+1/2=1+1+1を感受する気持ちを持っているかどうか。これは非常に大きな問いを孕んでいたと思います。

 二つに割った豆腐を、「0.5+0.5」と捉える考え方が、「妬み」と「傲慢」を生み「差別」と「争い」を招くからです。

ももの話

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 明石家さんまさんが言います。

「ジミーちゃん。桃が一個あります。あっちに桃が三個あります。ももは何個ありますか?」

ジミー大西さん。「もももももももも」

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 このやりとりを聞いたとき、私はたいへんに感銘をうけました。その頃、柄谷行人さんの『探究Ⅱ』(3)で「単独性」と「特殊性」の違いを知り、中沢新一さんの『緑の資本論』(4)で、イスラム文化のもつ「個対個の関係性」、既製品ではなく、オーダーメードする意味を知ったからかもしれません。

 ジミー大西さんは、一個一個の独立した単独の「もも」を見ています。そこへ、「三つのもも」という謎の言葉で指し示されたももが出現しました。「ももは幾つあるか?」

 「四つのもも」などというものは存在しません。あるのは「もも、もも、もも、もも」だったのです。

無限の呪縛

 1+1=2と考えるところから、有限世界内に無限が組み込まれました。生まれて死ぬのが定めのこの世で、「無限」が可能だと思い込んだとき、人は「限られた命」の内部に、「無限」を求めずにはいられなくなりました。その「無限」とは、御伽噺における「いつまでも幸せに暮らしました」であり、「人生には夢を持たねばならない」という強迫観念だったと思います。

 「有限な世界で無限を求める心」は、「限りある資源を我が物にしなければ幸福になれない」という欲望となって、人類を追い込んでいきました。

 因みに、華厳経では、この「有限内無限の意識」を、徹底的に巨大な数詞を駆使することで内部崩壊させようとしていました。(第四十五、阿僧祇品第三十など)(5)

パンの奇跡

 そういう世界だからこそ、イエス=キリストが行ったとされる「パンの奇跡」は意義深いのです。「五個」のパンと「二匹」の魚を、「五千」人に配って、みんなお腹一杯になって、くずは「十二の」かご一杯になった。(6)そうです。

 部分が全体よりも大きくなる(7)この奇跡が、1+1=3の考え方の原型だと思いました。

 しかし、辺りを見渡してみれば、生物を構成している細胞は細胞分裂で増えますから、1=2が実践されているといえます。また、一粒万倍といわれる、農作物の増え方は、1=10,000です。

 数字じゃなく、生物になら、普通にありうることだったのです。

0.5という心  ―三輪空寂

 「寄付」「ボランティア」「カフェ・ソスペーゾ」「無料食堂」「見守り」こういった行為は、仏教の「布施」(8)として一括りにできます。「布施」は「施す人」「施される人」「施すもの、こと」の三つによって成り立ちます。

 重要なことは、この三つ(三輪)が、「空寂」でなければならないという点です(9)。

 仏教は、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆空」「涅槃寂静」を旗印としていますので、「布施する」という行為もまた、「無常」「無我」「空」でなければならなかったのです。それなら、布施する必要もない、と考えてしまうかもしれませんが、それでもなお、それを行うことが「慈悲」なのでしょう。

 世俗的にとらえるならば、「余っているから施してやった」とか「譲ってあげたのに、お礼も言わない」とか「もらったのだから、文句はいえない」とか、「布施の行為をひきずらないこと」というくらいにとらえておけばいいのでしょう。

 けれども、1を0.5ずつにして、布施をした。と考えるとき、「本来は1だったものが半分になった」と思いはしないでしょうか?「全部くれればいいのに、半分しかくれなかった」と考えはしないでしょうか? 「全部」の存在をしらなければそれが「半分」なのか、「三分の一」なのか、「千分の一」なのかは分らないでしょう。だから、それは全て「一」だ! ととらえていればいい。全部を渡すから、「分けてあげた」などとは考えない。全部をもらうから、「もっともらえる」とも思わない。「分け与える」「余剰を再配分する」では、わだかまりは消えないのです。それは、本来分割できないものを、無理やり分割しているせいなのです。

 ということが、佐藤優樹さんの「1+1=3の証明」から、私が勝手に考え付いたことでした。

 (1)

twitter.com

(2)  1=2 - アンサイクロペディア

(3)  探究2 (講談社学術文庫) | 柄谷 行人 | 本 | Amazon.co.jp

(4)  緑の資本論 (ちくま学芸文庫) | 中沢 新一 | 本 | Amazon.co.jp

(5) 

仏典の数詞 命数法 - Wikipedia

www.philosophyguides.org

(6) パンの奇跡の詳細な記述

http://christ-ch.or.jp/3_sekkyou/koukai/mark/mark_34.html

 

(7)  全体は部分の総和より大きい ユークリッドの原論

 

(8)  経済至上主義の現代における仏教徒の布施行為とは?

(9)  三輪空寂 経済至上主義の現代における仏教徒の布施行為とは?