望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

執拗な描写に憑かれる ――『カフカの父親』 トンマーゾ・ランドルフィ 雑感

はじめに

 本書を読んだ感想を以下のようにまとめた。

しかしそれにしても海外の短編小説のとくにこの修辞のたたみ掛けは苦手だ。まるで文学とは修辞である、というようなものだ。ドイツでもフランスでもロシアでもイタリアでもスペインでもアメリカでも同じだし、翻訳文体もまたみな似通っているように思われてならない。
 とはいえ、本書には、どこの国でもない言葉をペルシア語と偽って教えられそれで詩を三篇書いた男の芸術的苦悩(『無限大体系対話』)があり、私はこの話を目当てにこの本を借りたのだったが、それはあまり面白くはなかった。
 だがしかし、この作者の文学者、というか小説家としての「業」の深さは、まざまざと見せ付けられた気がする。
 それは「破滅に至る執拗な描写に憑かれた作家」だという印象だ。
 『マリーア・ジュゼッパ』のセクハラとパワハラの詳細、『手』における犬が鼠を嬲り殺すまでの細密な情景による残酷な抒情、『無限大体系対話』における「その」ペルシア語の詳細、『ゴキブリの海』での蛆虫が人間の女の官能を高めていく手管、『狼男のおはなし』の稲垣足穂ばりに繰り広げられる月との戦い、『剣』のすさまじい切れ味、『泥棒』の誰にも見られていないはずのところで繰り広げられる豊かすぎる独り言のあれこれ、『カフカの父親』での父親、『『通俗歌唱法教本』より』が示す「声」の特性。
 そして、読み終えたもののなかでもっとも好きな『ゴーゴリの妻』の、詳細な感情の描写。アンビバレンツと唯物的アニミズムの結末。
 描写。描写。描写。
 それは荒唐無稽ともおもわれる世界にリアリティーをあたえることにいささかも貢献することなく、むしろそのあまりの緻密さ、スーパースローによる律儀なまでの執拗さによってむしろより、幻惑低、悪夢的様相を呈する。
 だが、それこそがわれわれが普段、見過ごしている「現実」なのだということを、思い起こさせ、背筋が寒くなるのである。

以下に、本書収蔵の短編集の白眉とも思われる場面を引用する。ネタバレになるのでご注意を願う。

 具体的な引用

引用はすべて、白水Uブックス 海外小説 永遠の本棚 『カフカの父親』トンマーゾ・ランドルフィ 米川良夫 他=訳 2018年11月20日発行 による。

ともかく、その瞬間、わたしはマリーア・ジュゼッパの頭を抱きしめて、思い切りその口にキスをしたのです。彼女は叫んだでしょうか。激しくもがくのを片手で押さえつけ、もう一方の手で上掛を引き剥がし、分厚い服を脱がせました。それからどうなったのでしょう。わたしは何も覚えていませんし、皆さん、それに皆さんの軽蔑の眼差しも気になりません。覚えているのはその直後に――つまり空白の瞬間の後で――マリーア・ジュゼッパが床に倒れていたことです。わたしは身震いしました。引き裂かれたシュミーズと〈肩衣〉に掛る鎖の間、あらわになった萎えた乳房を見ると、ほとんど笑い出しそうになりました。すぐそこを立ち去りましたが、どこへ何をしに行ったのかは覚えていません。(『マリーア・ジュゼッパ』p.25)

 

このときフェデリーコの眼にとまったものがあった。ネズミは逃げようとあがくあいだずっと長い糸を後ろに引きずっていたのだ。糸にはくすんだ輝きがあり、ある時はネズミのからだに巻きつき、また引きずられ、長く引き延ばされる。中庭の埃にまみれて、かすかな輝きもすぐに消えていた。かれは腰をおろし、淡い月明かりのなかでたしかめようとした。腸だった。こんなにも細くて長い。かれは驚き、ぞっとするものを感じて、中庭の灯りを点けようと部屋に駆け込んだ。埃まみれで見分けもつけ難いが、たしかに腸だ。ネズミのからだから離れようとしない、まるでへその緒のようだ。しかし今は、逃げまどい藻掻くうちに尖った小石に絡まり、半ばで断ち切られている。それでも腸はさらに伸びて、最後の苦悶にあがく小さなからだにまで達していた。(『手』pp30-31) 

 

アガ・マジェラ・デイフラ・ナトゥン・グア・メシウン
サニトゥ・グッジェルニス・ソエヴァリ・トゥルッサン・ガリグル
 ・・・・・・・・・・・・・・・
サンムヤブ・ドヴァルヤブ・ミグェルチャ・ガッスタ・ミウスク
シウ・ムム・ルッストゥ・イウナスクル・グルルガ・ヴァスルスク
(『無限大体系対話』p.52)

 

ルクレツィアが目蓋をかすかに開けると、うじ虫はまつげのつけ根を這い始め、それから目蓋をこじ開けて、目蓋と目の間にもぐりこまんばかりに強く押し戻した。娘の快感は地蔵子し、高まった。うじ虫は目を離れると、半開きの口にやって来た。中に姿を消したが、時々背中の端が見えたので、唇の内側を這いまわりながら歯茎に口づけしているのが分かった。時折動きを止め、柔らかな粘膜の上にくつろぐと、ルクレツィアは身もだえして、歩みを促すように指で虚空をつかんだ。(『ゴキブリの海』p.91)

 

彼女の顔に亀裂が走ったかと思うと、ゆっくりと崩れはじめる。最初は眼にも見えないくらいの赤い線がうっすらと現れ、金色の髪から首筋まで、徐々に下って胸そして絹の衣装に伸びていった。そしてこの傷跡は広がり、血が吹き出し、髪の間からどくどくと音を立てて流れはじめる。微笑みはすでに恐ろしい渋面、わけのわからない凄まじい嘲笑でしかなかった。ほっそりとした身体は急速に裂け、少女は仮借ない剣に断ち切られて真っ二つになった。裂け目の間から、遠くにまたたく夜の星が見えた。華奢な少女は一瞬のうちに殺人者の足元に倒れていた。異様な光景だった。静かに流れる血だけが、切り裂かれた四肢をつないでいた。(『剣』pp.112-113)

傑作『ゴーゴリの妻』

 この短編集のなかで、もっとも好きだったのがこの作品だ。ゴーゴリさんは、『挟み撃ち』のライトモチーフになっていたり、他にもさまざまな私好みの作品を書く作者に影響を与えまくっているらしい。その妻が、いわゆる「空気人形」で、という話なのだが、この「妻」が「空気で膨らんで」おり、その空気の各部位への入り方、つまり各部位の張り方や、しぼみかたや、くぼみかたやでっぱりかたが、その都度異なっていたり、瞳や髪色は自由に取替えができたりすることから、本当に好みの妻をしぼませてしまうと二度と会えないという点や、なによりもこの妻がゴーゴリを蔑んでいると感じている点(つまり、性の道具として存在する人形が、自らをそのような存在に貶めている、そのような関係しか結べない相手を蔑むという、いわば鏡像(なにしろ相手は人形なのだから)投影のような嫌悪感を、空気の入り方、抜け方によって現れる襞や皺や動きをスーパースローで捉える作者の目が、如実に描き出してしまうところが白眉なのである。

 ゴーゴリはこの悪妻に嫌気がさし、乱暴に空気を抜いては(喉の奥に栓がある)後悔し、謝罪しながら空気を注入する(肛門に逆止弁がある)。その繰り返しのなか、とうとう作者立会いのもと、ゴーゴリは妻を破裂させてしまうのであるが、その破裂にいたる過程を、当初は「そんな大胆なことできっこない」と蔑んでいた妻が、徐々に夫の本気を感じ始めて恐れ、戦き始める表情の描写を、空気人形が膨らんでいく描写のみで表す。ここに、崇高なアニミズムすら感じさせられる。

 そして、この短編のおそろしい「蛇足」もまた、「命」「魂」「狂気」「業」を悪夢の置き土産として残していく。

 おそろしい話である。妻を破裂させたゴーゴリが恐ろしいのではない。その破裂と破裂させるにいたるゴーゴリの感情を執拗に描く作者が恐ろしいのでも、その蛇足が恐ろしいのでもない。

 わたしは、『シートン動物記』が大嫌いだった。たとえ、シートンが、「わたしは動物が抱いている心情でないことは書いていない」(という言葉がたしかあったと記憶しているが定かではない)と書いたところで、そんなものは人間の主観でしかなく、ならば、「作中の動物の行動の理由、心情は作者の主観である」と書くべきだと思うからだ。だからわたしは『ファーブル昆虫記』が好きだ。こちらの自然観察描写のほうが、よほど昆虫の真実に迫っていると思うからだ。

 同じ理由で、『ゴーゴリの妻』は恐ろしいのである。

おわりに

 『ゴーゴリの妻』の後にも、作品は続いていたが、それらは斜め読みで終了してしまった。ただただ修辞の羅列につきあうことが疲れたのである。私はこのようにはかきたくない。だが、このように描写したいとは思うのだ、狂おしいほどに。