さんま御殿でのアドリブ
2018年7月12日放送の『さんま御殿』において以下のような流れがあった。
- 出演者の紹介の中で、女性タレントの祖父が「ぞうさん」を作曲した團伊玖磨というすごい人だという話になる。その息子(タレントの父親)も著名な建築家だ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E4%BC%8A%E7%8E%96%E7%A3%A8
- さんまさんが、永野さんに「でもぞうさんより好きなもんあるもんなぁ」とふる。(「ぞうが好きだ」という流れはなかったが、永野さんのための万全なフリ。さんまさんの愛)
- 永野さんは当然受ける。が、苦しむ。(オンエア上では5~10秒ほど考えている)
- 「象よりも、普通に シャム猫がすっき~」
- すべる
さんまさんには、はまっているらしい
私には、永野さんのネタがおもしろいとは思えないのですが、さんまさんにははまっているようで、以前「向上委員会」で
「永野のネタはな、AよりもBの、この、AとBの並びが全てなんや」
というような説明をなさっていました。
でも、収集するほど好きじゃない
となると、永野さんのネタを可能な限り集めて、AとBとを列挙し、どこに「笑い」が生じているのかを検証してみたくもなるのですが、ともかく、これまで漏れ聞いた永野さんのネタのなかに、このAとBとが噛み合った成功例を聞いたことがないので、拾い漁る作業自体が苦痛なのです。
だから、「Aよりも普通にBが好き」の形式がどのように笑いとなりうるのかを、勝手に考えてみよう!
というのが、今回の趣旨です。
中居正広さんに似てない?
ところで、永野さんをみるたびに、私は「スマップも中居さんにそっくりだな。声もしゃべりかたも、表情も」と思うのですが、今のところ、誰にも賛同いただけません。
ともあれ、さんま御殿でのアドリブの検証
とはいえ、今回、象⇒シャム猫 は気になりました。
なぜ、シャム猫だったのか。
そこを検証しながら、永野さんの脳内におけるAとBとのあるべき理想型について、考えてみたいと思います。
ぞうさん⇒シャム猫 への四要素
- 有名作曲家、有名建築家を輩出している名家、セレブである。
- 象は、ぞうさんという童謡から出たお題。
- 「○○が好き」という形式上、動物=ペット的な関連性がわかりやすい。
- 童謡といえば、ねこふんじゃったがある。
- 猫、少し古いセレブ感。
- ぞうはタイなどで神聖な動物である。
- タイの旧国名はシャム=シャム猫。
- シャム猫ならふつうにかわいいし、ゴロも合う。
- よって、象とシャム猫との繋がりが成立する
突然のお題に、短時間で、与えられた手がかりを、自らの記憶に照らしてフル活用した結果がシャム猫だったのです。問題は、笑いにならなかったという点だけです。(これは、Aに「象」を代入した時点で、負けが決まっていたような気もするのですが、それは後述します)
結論 童謡+ペット+セレブ+タイ によって成立
もちろんこれが永野さんの思考のトレースになっているとは思いませんが、他人でも、このように導き出せてしまうというところに、ネタの弱さがあったと思うのです。
たとえば、IPPON選手権における、ホリケンの「ベロに輪ゴムを巻かれたら変身」とか、宇宙パトロールルル子での「万引きされた荻窪を探して星から星へ」とか、楳図かずお 『14歳』での「グレート・チキン・ジョージ」のような、もう、全くどうしようもないという破壊力か、
もしくは、さんまさんの「じゃあさぁ、チーズケーキに喩えると? …… 喩えられへんわ!」という、かわいいナンセンスが、必要なのではないでしょうか。
形式の検証
Aは、トレンド感 キレイごと感、これが好きってかっこいいだろぉ感があるもの
意識高い系、きれいごと、精神論、セレブ感、格式高めなど。ちょっと気取って「イイ」っていってれば安心でしょ。流行ってるし。流行とか関係ないし。みたいな感じのものがはまるような気がします。
例 スタバ 太宰治 エグザイル 断捨離 ディズニー
但し、あまりに定番なものは、逆にBにもはまるのかもしれない。
フツウに~
フツウに、といってしまうことで、実際にフツウ(本音。気取らない態度。現実的)であっても、自分にとってのフツウ(=ふつうじゃないも)のでも、どちらでもはまるようになる。
Bは拝金主義。物欲主義。エロ。つまり、煩悩むき出し感のあるもの。または
ざわちん、だったり、ラッセンだったり。というネタの記憶が断片的にありますが、懐かしいところでは、「同情するなら、金をくれ」の価値観でしょうか。それをいっちゃぁ~身も蓋もないね。という。
または、本当にフツウに、マスコミやトレンドにずるずるべったりなモノでも、逆に純朴な、純粋な、正当なものでも、はまったります。
当たり前のことですが、Aとのふり幅が重要なので、Aがとんがった映画とかならBではユーチューバーの投稿などをはめれば成立するのではないでしょうか。
「ぞうよりもフツウにミッキーがすっき~」×「ミッキーよりもフツウに沢尻エリカがすっき~」笑いには遠いな
最終審級としての「現ナマ」
この形式における、ジョーカーとして、Aに何がきてもBに「現ナマがすっき~」をはめればおさまってしまいます。あたかも、新右衛門さんが、歌を詠むに当たって、すべての下の句に「それにつけても姫の愛しさ」がはまっていたように。「セックス」も同様でしょうか。
だから、これは禁じ手です。おもしろくないし。
たとえば、Aに「現ナマ」がはいったら、今度は逆に精神主義に満ちた、きれいごとをはめるしかないのかもしれません。「ジャックスカード」「仕手株」「思いやり」「冒険」などはどうでしょう? 駄目ですね。これじゃ。
それでは正解は?
笑いの図式にはまらない?
Aが好き、という姿勢に対して、Bを好きだということでAが好きという姿勢と、Aそのものを茶化そうとするのが永野さんの形式だと思います。
私の数少ないネタ体験をふまえると、永野さんが考えるAとBとの対応関係は、とても真面目だと感じます。芸能人同志、版画どうし、動物どうし。同じカテゴリー内における、高尚と、低俗、との対比、というのが基本になっているようです。舌をかみそうなフランス料理が好きだっていったって、結局は白飯に味噌汁じゃねぇの? というスタンスでしょうか。これもくだらない。
Aが凝っていれば凝っているほど、Bとの間に落差が生まれます。この落差を無視してAとBを並べたときのおもしろさ、を狙っているのかしれませんが、それ、笑いどころが難しいです。
全く無関係、関係性の斜め上があれば、シュールな笑いとなるか?
たとえば、無関係の関係を想像させるとか、なんとなくその並べ方は、おもしろいぞ、っていうものを探るほうが、可能性がありそうなのです。
「ぞうよりもフツウに沖縄がすっき~」……ムヅカシイデス
そういうものがネタ帳にぎっしりなら、無敵ですね。それは、シュールレアリスト達が求めた夢です。
究極の選択
永野さんの形式は、「喩え」芸ではないし、一般的な「あるある」とも違います。
AとBとは主従関係をもたず、A<Bにはまりすぎていてはならず、二つの言葉の併置が即、笑いとならねばならないし、AとBとが全く無関係であってはならない。
AとBとをつなぐCが大事という観点に立てば、「なぞかけ」に近いともいえるのかもしれません。ただ「なぞかけ」において、Cは、きちんと種明かしされ、そのおおくは、駄洒落、地口に頼ることが多いです。
永野さんのネタにおけるCは、人々に知らず知らずのうちに刷り込まれたマス・イメージに依拠する何か、ということになるのかもしれません。とするなら、これもまた、広義の「あるある」へと回収されるのですが、「あるある」を成立させる共通理念Cは、永野さんがAとBとを並べてみせないかぎり、決して発見できなかったCである必要があります。
お笑いにおいて、この形式を選ぶということは、格闘技における「相撲」よりも縛りがきついのではないでしょうか。まさに、究極の選択芸です。
蛇足 新たな形式のパイオニアとして
あるあるのパイオニア ふかわりょうさん「○○じゃない?」。そのバリエーションとして、つぶやきシローのぼやきネタ。レギュラーの「あるある探検隊」。天津木村の「エロ詩吟」、ヒロシの「自虐ネタ」、スギちゃんの「ワイルドネタ」。
その他、笑い飯の「ボケ合戦」、ナイツの「やほー検索シリーズ」、ハライチの「ナンセンスフリ」などは、つい書き留めておきたくなるネタでした。
これまでの笑いの形式を変えてきた数々の名作たちのなかで、永野さんの形式はその尖り方からいって、ダウンタウンさんの漫才変革に匹敵する射程をもっていると思います。
永野さん、 新たな形式の教祖となれるでしょうか。