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望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

モーニング娘。に魂を捧げた人 ―譜久村さんの悲しみと覚悟

譜久村聖 モーニング娘。 佐藤優樹 小説

はじめに

―タイトルとは無関係の、要望を書き捨てる

モーニング娘'16 主演で『家畜人ヤプー』やってもらいたい。

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www.gentosha.co.jp

上々軍団さんや、タイムマシン3号さんなども出演で。

では、ここから今回のブログへ

1212武道館

 モーニング娘。'16 コンサートツアー秋~My Vision~ 北海道の振替公演のセトリなどがどうなるかわかりませんが、12月12日 武道館をもって終了しました。この様子はBSスカパーでも放送されていて、後半だけでしたが見ることができました。

 佐藤さんがとても楽しそうだったのが印象的でした。歌もダンスも異次元に滑り込んでいました。彼女自身のMy Visionが鮮明に見えているのだなと思いました。この先、もっと大きな景色の中へ、みんなを連れて行ってほしいです。

 13期発表については後追いで見ました。'17も引き続き眼が離せませんね。

譜久村聖さんを突き動かすもの

 さて、今回、というか、ずっと思っていたことがあります。リーダー譜久村さんのことです。歌にもダンスにも表情にも穴が無いパフォーマンスを支えているものと、つんくさんが評した「なんともいえない悲しみ」についてです。

例によって佐藤さんとの対比(読み飛ばしていいです)

 私は、「凄い」と思ったことを相対化するのに、佐藤さんを引き合いに出して考える癖があります。それは佐藤さんを基準として、佐藤さんとの違いを明らかにするという方法が、一番その「凄さ」を表しやすいからです。技術力などを評価する眼力は私にはないので、あくまでも私の中の佐藤さん像を通してみたとき、今回は譜久村さんの凄さを言葉にすることができ、それによって佐藤さんの凄さもまた再確認できる、という構造になっています

ステージ上での恍惚

 コンサート中の映像で、譜久村さんの表現力は群を抜いて光ります。『セクシーキャットの演説』での猫具合など、猫が憑依しているように見えます。ただし、その猫は、つんくさんの歌詞に生命を吹き込まれた猫であり、ファンの欲望を体現した(かわいい、いたずら、セクシー、エッチ、小悪魔、か弱い)猫です。譜久村さんがステージ上で変化(へんげ)する様子は、あたかも、シャーマンに神が降りたときのような、忘我の恍惚に輝いています。

 佐藤さんのパフォーマンスが異次元に滑り込んでいると、前述しました。歌唱はもちろん、動き、表情、マイク捌き。今回の佐藤さんはのびのびと、彼女が彼女自身に課している、彼女が体現すべき姿を、現すことができていたと思います。(もちろん、彼女の目指す所はもっとずっと高いところなのでしょうけれども)

 譜久村さんと佐藤さんとの違いを感じるのはここなのです。

佐藤さんの戦い

 佐藤さんは、あくまでも、佐藤さんと戦い、佐藤さんを叱咤激励し、佐藤さんに裏切られながらも、佐藤さんを完成させようとしています。
 モーニング娘。という場は、佐藤さんに課題を与えてくれる場であり、課題をより高い位置でクリアしていくことこそが、佐藤さんが佐藤さんである証なのだと考えているのではないかとい思っています。(ひじょうにややこしいですが、水木しげるさんが、自分のことを「水木さん」と呼んでいたように、佐藤さんは、理想と現実、原型と表出、原因と結果、などのように自身を二段階で捕らえているところがあるのです。彼女が、佐藤優樹さんになるための道のりとして、モーニング娘。があるのです)

譜久村さんの忘我

 譜久村さんは、依童です。彼女はモーニング娘。を愛してやみません。モーニング娘。を愛する人達を愛して止みません。彼女には理想のモーニング娘。があり、それは沢山の人の愛を受け、沢山の人に愛を返すという過程で、どんどん大きくなっていく贈与の関係を結ぶ存在です。

 譜久村さんがもともと持っていたモーニング娘。への愛に、ファンの人々の愛が感応するとき、譜久村さんは、個人を超えて「モーニング娘。という理想」を体現することができるのです。人々の想いを全て受け止めて、それを発散すること。そのためには、人々の想いを判断したり、無理だと諦めたりする心「自我」を棄てなければなりません。

 彼女がステージ上であれほどの表現力を見せられるのは、その身体的技能習得のための努力とその習熟はもちろんですが、なによりも「モーニング娘。愛への感応」だけを残して、自我を捨て去っているからなのではないかと、考えました。

そして、譜久村さんの悲しみ

亀井絵里さん

 私は以前、コンサートDVDを見ていて、それ以外のDVDやバラエティからの豹変に驚いた人がいました。

亀井絵里さんです。

 普段のPPPな様子からは想像もつかないパフォーマンス、表情を画面の中に見たとき、思わず動画をとめて、「これは誰なんだろう」としばし見入ったことを思い出します。

 例えば、高橋さんのパフォーマンスは全て素晴らしい。それはどこを切っても高橋さんです。佐藤さんもそうです。見違えるほどの姿であっても、それは「佐藤さん凄い」と感動させてくれるのです。しかし、亀井さん、譜久村さんは、違います。そこでは、ステージ上以外では絶対にあられないある種の「妖しさ」を発散しているのです。

リーダー譜久村さん

 亀井さんも、モーニング娘。に魂を奪われ、ファンの夢、欲望に突き動かされていた人だと思うのです。(亀井さんと新垣さんとのラジオを聴き返していると、亀井さんの自由奔放さに、佐藤さんが重なることがよくあります。この三人の作る三角形をどのように捉えるべきかは、また別のお話で。)

 自我を捨て去らねば体現できないパフォーマンスで愛を貫く譜久村さんの苦悩は、彼女が同時にリーダーでもあるという点にあります。
 ただ、好きなだけでは、リーダーは務まらないし、好きという気持ちも、きちんと他に伝えていかなければ、グループはバラバラになってしまう。
 工藤さんが「譜久村さんは、変わりましたね。恐くなった」とDVDMAGZINEで言っていましたが、大好きなモーニング娘。を「絶対リーダーの道重さん」から引継ぐ重責を担うのは、譜久村さんの自我において他にありません。

 譜久村さんには、ステージ外では強い自我によって、ステージ上では、忘我によってモーニング娘。に尽くし尽くすことが、架せられていたのです。

宿命に出会った女

 譜久村さんは、その全存在をもともと大好きだったモーニング娘。に捧げ尽くすことを求められ、それに応えています。それはとてつもない喜びだと、手放しでいえるものではないと思うのです。宿命に殉ずる心は、必ず他の多くを諦めねばならないものだと思います。譜久村さんは、それを覚悟して受け入れた、いわば人身御供として、ステージに立っています。つんく♂さんの言った、「彼女の悲しみ」とは、この宿命をを見越した言葉だったのでしょうか。

さらなる悲しみへ

 武道館公演のごく一部を見ただけの私が判断するのはおこがましいのですが、譜久村さんのパフォーマンスは、これまでのものから、また一段、抜け出していたように思えます。セットリストの良さもあったのかもしれませんが、ステージ上での彼女に、「忘我の恍惚」の他に、「妖艶な笑み」が浮かんでいたように見えたのです。

 ファンからの愛と欲望を一心に受け止め、その想いに自らの身体をあけわたしてパフォーマンスを繰り広げる、巫女譜久村さん。リーダーとしての自信が、自我を強くしステージ上での憑依に際して、自らの知らぬところで、エゴが発動していたとしたら…

鬼子母神の悲しみ

 佐藤さんは、佐藤さんの成長とともに、佐藤さん自身が大きくなっていくので、佐藤さんのままいられるのです。しかし、譜久村さんは、もともと自分を棄て、全てを明け渡してしまっているのです。それは譜久村さんでなければ体現できないという意味で譜久村さんなのですが、実体としてはおびただしい思念の集合体と化しています。 

それを彼女自身のエゴが喰らう…
 そのエゴにしても「モーニング娘。愛」に変わりは無いのですが、沢山の愛をたらふくつめこんだ依童ごと、彼女のエゴが喰らいつくそうとし、譜久村さんという存在を超えたものに、変化(へんげ)しかけているのではないのか? その妖怪への変化(へんげ)もまた、彼女は受け入ようとしているのではないのか。彼女もいつか、このグループを卒業するでしょう。その時、彼女に何が残るというのでしょうか。

 彼女の悲しみの行き着く果が、鬼子母神の悲しみとならないことを、祈るより他ありません。

 

捕捉

 譜久村さんが、まるで何も努力しないで、突き動かされるままにパフォーマンスをしているんだと思っているかのような誤解を与えるかもしれない書き方になってしまいました。

 譜久村さんが、メンバーが、スタッフの方々が、コンサートを創っていく苦悩、努力、絶え間ない鍛錬と自問自答、試行錯誤を、無視しているわけではありません。どうすれば、大勢の方に伝わるか、伝えられるか、自分の理想を実現するためにはどうすればいいのかを、考えつづけ、試し続け、厳しい評価に晒され続ける立場の苦しさの中で、出来上がっていくものだと思っています。

今回のブログでは、そうした一人一人の思い、努力があって、さらに、その先に相乗効果として現われているかもしれないステージ上での現象を、想像してかきました。

もし、不快に思う方がいらしたら、もうしわけがありませんでした。