望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

ギャグとイリュージョンと水の関係 ―『「空気」の研究』 というギャグ論

 

『「空気」の研究』

 

以前、番組で、立川談志さんが言及していた本。褒めていたと思う。

books.bunshun.jp

この電子書籍版では1983年10月8日初版となっているが、私が図書館で借りたものは、1977年4月1日第一刷。

「空気」の研究 9-94

「水=通常性」の研究 95-190

日本的根本主義ファンダメンタリズム)について 191-244

あとがき 245-254

どの程度改訂されているか分らない。

 

アクチュアルなテーマ 

 この本は、取扱っている内容が「空気」という、現代においてなお、大きな関心をひくものであるため、レビューしているサイトはあまたある。

「空気」の研究 書評 - Google 検索

 ネットの普及は、「空気」の醸造を、迅速かつ拡大させたため、ほんのちょっとしたつぶやきで「空気」に「水をさす」という「自由」も、その「水」が新たな「空気」を醸造できなかった場合、「私刑」に処される。そうなったら、逃げ場は無い。

クレージーキャッツ

 

 人と人が対面する空間では、「空気を読む」のは、比較的簡単だったし、もし「空気を読めない言動」=「無作法な振る舞い」があったとしても、すぐにおかしな「空気」になり、気まずくなり、「オヨビでない? オヨビでないね… コリャマッタ失礼いたしましたっ!!!」で、なんとかなった。

「空気を読まないこと」は、「コント」の王道だ。

「ガッ! ちょ~~~~~ぉん」も、「谷ダ。青島ダ」も、固まった空気を強制的に攪拌するギャグであり、空気を壊すという意味の「水」を「自ら差す」という、超高等技術が披露されていたのである。

ドリフターズ

 

 ドリフターズは、空気を読めない相手に翻弄される視点でコントを作った。いかりや長介さんは、加藤さんや志村さんに、常識人(母親・父親・隊長・教師・牧師)の立場で、叱り、怒鳴り、殴る。
 その際に志村さんが言う、「怒っちゃやーよ」が、かろうじて、クレージーキャッツ路線を踏襲する所作だったが、これは単に「謝っているだけ」で、ギャグとしては弱い。
 荒井さんの「ナンダ馬鹿野郎」的な開き直りが無いため、いかりやさんも
「駄目だこりゃぁ」とさじを投げるしかなかったのだろう。

志村けんさん

 

 その後、志村さんは一人でコントを始めて、「ダッフンダ」に開眼し、

クレージキャッツ+ドリフターズ の境地に達したといえる。

ギャグとは

 

 空気を読まないことで、変な空気となり、その変な空気を感じた本人が、膠着した状況を一瞬で打開するために発する言葉。それがギャグだ。それ以外はギャグじゃない。断じてない。絶対にない。

コント55号

 

 コント55号とは、空気を読まない萩本さんの無茶振りに終始振り回され続ける真面目人間坂上さんから成る。そこには、変な空気も、「駄目だこりゃ」も無い。萩本さんの要求がいかにその場の空気にそぐわないものであったとしても、坂上さんが「へんだな」と考えることすらできない状況に追いやられているためだ。
 この思考停止の図式こそが、コント55号の空気であり、両者共に、この空気に支配されていたのだった。

 その意味で、コント55号のコントに、ギャグは無い。笑いは、二郎さんの馬鹿正直さに対する哀れみを含んでいたように思う。
 二郎さんの馬鹿正直さが、「時代の空気(=規範)」であり、それが無茶振りによって自己崩壊していく様が、コントをコントたらしめていたのである。(「何でそーーなるのかなっ」については保留。「飛びます・飛びます」は生真面目さが無茶振りのため、てんてこ舞いする流れ)

小松政夫さん

 

 小松さんは「シラけ鳥音頭」で、「水を差した者の悲哀」を訴え、私刑をまぬがれようとしたようにもみえる。が、当時は、「シラけ」こそが時代の「空気」であって、わざわざそれを歌い上げることによって、「シラけ」そのものに「水」を差そうとしていたのだといえる。だが、軽薄短小軽佻浮薄の時代では、「水」は「潤滑油」にしかならなかったようだ。

イリュージョン

 

 立川談志さんは、「空気」に迎合することを拒否し続けた。といって、単純に「常識という水」を差すような無粋なまねをするはずもなかった。だから、「空気」に対する批判はギャグ的になるのだが、その場を揺るがせて立ち去るだけの煙幕ギャグでやり逃げできると考えるほど、楽観的でもなかった。

 単なる現実認識としての「水」ではなく、それでいて「現実認識」を停止させるようなギャグでもない方法。それが、「イリュージョン」だったのだと思う。

立川談志さんと萩本欽一さん

 

 それは、ギャグとシュールの狭間の、メルヘン時空を斜め上に横滑りした位置にある「異相現実」でなければならなかった。そして、そこから見た「この世界」は、コント55号の舞台そのものだったのではないか。

 そんな世界に対して談志さんは「ナンダカワカナンナイ」といい続けていたような気がする。

 

オスカー・ワイルドの名言で最後を締めくくるのもよい。

 

「真実を聴衆に伝えるなら、笑わせないと殺されるぞ」

 

 

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以上