望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

本性のXX  ー母性愛の非対称性

はじめに

 母性愛は、母ー子という絶対的非対称性においてのみ成立する。母の立場が被る不公平さを、「無私の愛」とか「無償の愛」とか「愛の原点」とか「もっとも尊い愛」という風に言い換える社会は、なにかおかしい。というところから、考え始めた。

注意:「遺伝子的考察」や「フェミニズム」に深入りしません。

注意:あくまでも、私見ですので、異論はうかがいますが、お叱りは不要ですし、お怒りは、当方の感知するところではありません。

計算高い本能の支配

 子供のためならばこの身を犠牲にすることを厭わない。母性愛はそういう激しいものである。それは子孫を残そうという生物の基本的戦略を体現している。より後まで生き延びる可能性の高い方のために尽力することは、そのコストに見合うと踏んだのである。このように算段したのは「本能」である。これは「自由の枷」ととらえることもできるだろう。
(「自由か不自由か」は「利己的か利他的か」という問題とは異なる。私は「自発的でない行為をなさねばならない状況を不自由であると考える。自発的か否かについての判断は困難だが、ここでは「本能」は非自発的行為であるとした)

本能と理性と感情の関係

 ところで、「本能」と「感情」とは区別されねばならない。「本能」は「感情」によって行動を御するが、「感情」は「感情そのもの(快不快原則)」や「理知」によっても御される。本能はブラックボックス化された感情として存在し、それを取り出してみたときに理性と間違えやすい。

(「快不快原則」は行動の大原則だが、「本能」または「理性」によって「不快」を選択する場合もある。その場合、身体は「脳内麻薬」という報酬を与え、自我は「自己充足感」を捏造し、社会は「good job!」や「いいね」をくれたり、くれなかったり、するのだが、それはまた別のお話で)

(人間は動物だ。だが、理性ある動物だという。だが「理性」とは、発情を抑制するため性器を隠蔽するパンツを発明し、猥褻を創造した、というだけのものでしかない。(cf.『パンツを履いた猿』栗本慎一郎 にはこんなことが書かれているのかな?)

十八世紀の自然学者リンネは能天気にも、人間を「ホモ・サピエンス」(叡知のヒト)と命名した。一方、スウィフトからアーサー・ケストラーに至るペシミストたちは、人間を出来損ないの危険な動物、「ホモ・デメンス」(錯乱したヒト)と規定している。それにたいしてエドガール・モランは、この楽天家と不平家によって提起された、まったく相反する二つの人間観の統合を試みて、人間を「ホモ・サピエンス・デメンス」(錯乱した叡知のヒト)と新たに名づけた。『読書の死と再生』 堀切直人

 父性愛?

母性というプログラム

 非対称性は、母ー子 のみならず 母ー父 にもみられる。なぜ、母だけが「母性愛」をもつのか?

 生物として筋力が強く、攻撃力や防衛力には相対的長けているはずの、父の、子に対する「愛」は、なぜメジャーになれなかったのか?

 十月十日が母性を育むのか? それもあるだろう。出産経験が母性を実感させるのか? それもあるだろう。

 だが、母性が一様に備わっているものでも、発達するものでもないことは、母による子殺しが発生することから明らかだ。母性愛は母である自分を受け入れられないとき失われるのだろう。(「自己保全のための子育ての放棄」が、動物界ではどのように起こるのか? 調べてみよう。)

 また、児童虐待は、「命」のとらえ方の問題でもある。これは教育(=環境)の問題だ。虐待された子は子を虐待する傾向があるとの調査結果もあったようだ。

『児童虐待における世代間連鎖の問題と援助的介入の方略:
発達臨床心理学的視点から』久保田 まり (pdf)

 つまり「母性愛」とは絶対的なプログラムではない。

他者としての父性

 思うに、父はどこまでも「外」の者なのだ。

 母ー子にある一体感を父が共有できないことは、自明である。外部からもたらされたものが父であり、その「庇護欲」とは「共同体を護ろうとする」使命感だ。未来への存続というよりも、「現在」あることを、護ろうという欲求なのだ。

 つまり、男性は「歴史」からも除外されているのである。

 だからこそ男性は「歴史ー社会」を作ろうとし、女性をそこに閉じ込めようとする。これは、自己保全欲と同根であり、その点からも男性は「除外された存在」であるということができる。(子供もまた、男性と同様の位置におり、保護者を求め、かつ、疎んじている)

※マリア信仰(後述)はあっても、ヨセフ信仰はないみたいだし…… ヨセフは人間イエスの育ての親だから。

アンケート

 妻と子が危機に瀕している場合の夫(父)と、夫と子が危機に瀕している場合の妻(母)とで、どちらか一方しか救えないという条件で、どのように迷い、どういう結論を下すかについてのアンケートなど、どこかにないだろうか?

 年齢、結婚生活の状況、子供との関係性に大きく左右されるのだろうが、私の予想では、「母は子を救う」が圧倒的であるのに対し、「夫は妻を救う」「父は子を救う」は割れるのではないだろうか。(執着の問題でもある。子に執着するか、伴侶に執着するか)

母性愛という枷

 子を宿す役割を得なかったほうが、得たほうを助ける役割を担う。その助けが不要である環境では、男性の立場は俄然弱くなる。単体としてのチョウチンアンコウや、カマキリ。そして蜂や蟻の社会。

 男性は、そうなることを恐れ、「体力」にものをいわせて、「人間社会」=「人間の生活環境」を張り巡らせた。

 「男」が「力=暴力」によって形成した社会が「共同体的」となり「よそ者との対立」を生むのは、必然のことであった。そのような「暴力」から「内」を「護る」という方法でしか、「男」は「女」に対して優位に立てなかったからである。

 その中で、「動物的なもの=根源的なもの=本能」を抑圧しつつ「母性愛=本能⇒理知美」として崇めることとした。

「マリア信仰」はその最たるものである。

マリアに託された普遍的母性愛

 母性は「自分の子」⇒「他人の子」⇒「人間は全て母から生まれた」⇒「普遍的母性によって全人類を含む」∴「マリアは全人類の母(間接的)」という推論の結果「マリア信仰」があるのではない。

「イエスの母=人類の救い主を産んだ母=尊い」という比較的単純で理屈に合わない理由から起こっていると思う。子が偉いからといって、親も偉いというものでもないだろうに。(オリンピック選手とか、将棋が強いとか、ゴルフが上手いとか、子供がみんな東大合格したとかいうスーパーちびっこが出てくると、俄然その両親のキャラクターや、教育方針が、ありがたがられ、取りざたされる。子供にとって親は環境でしかない。それは一般化できない因果関係である)

 マリアは敬虔な信者だった。だから、神がイエスを身ごもらせた。それでもマリアはイエスの母なのであって、万民の母ではないし、神でもない。思うに、マリアは、男女双方から「理想の母親像」として崇められているのだろう。

 マリアをもって、母性愛=人類愛 を代表させるのは、無理があると私は思う。そもそも、母性愛=人類愛 そのものがミスリードなのであるから。

 マリアは単に「母親」の象徴であるにすぎず、その前では誰もが「子供」であるという点で、「神の子」である窮屈さからの一時的避難所として、機能しているのだと思う。

 母が子のためにする自己犠牲は、返礼不可能な恩である。そして母はその「恩」に条件も見返りも、求めなかった。

※イエス=キリストは十字架にかかった。それによって原罪はあらかじめ赦されることになったが、「神を信じ、神に従って生きること」という条件をつけた。

主イエスの十字架の犠牲は、新しい神との契約を造り出すものであり、
キリストを信じる者には、完全な罪の赦しがもたらされ、
聖霊が人の心の核心に宿られることによって律法の根本精神が心に刻まれるのです。
そして、神の御名による鮮やかな神との出会いによって神を深く知り、
神の命に生きるのです。これが新しい契約なのです。

www.saganochurch.org

 観音菩薩の慈悲

 マリアが母親の象徴である、ということは、その母親としての存在は「間接的」であることを意味する。母子関係の直接性を明示した仏教とは、この点で大きく異なっている。

 繰り返される輪廻転生において、森羅万物のあらゆるものはあらゆる関係性において結ばれている。その牛は前世でおまえの母だったかもしれず、生まれた子供は前世でお前の父だったかもしれぬ。そういう世界観をもつ仏教では、母性愛、などという限定的な愛は執着から苦を産む根源として、むしろ唾棄すべきものでしかない。

 そこでは慈悲のみが可能であるべきなのである。

母子関係≒共依存

 前述したように、子は母性愛に対して返礼することはできない。

「すくすくと成長してくれることがその返礼となる」と母は考えるかもしれない。子は母から実利を得て、母は子に頼られることで満足を得る。

 この関係性を母からみれば「依存に依存する(共依存)」状況だといえる。それは、本質的に非対称的な関係を、積極的に「対称的であると」誤認させる心理補償が生み出す幻想である。

感謝すること

 だから、返礼を求めるべきだ。というのではない。ただ、この歪んだ関係を解消させるには、「子の感謝」が不可欠だということだ。

 贈与には感謝をもって為すしかないのである。

 そのコストはストレスフルであるが、プライスレスだ。そして、この母性を、恩送りにおける「不可視の原資」とすべきなのである。(ちなみに、「恩」とは「この世」においてのみ有効な「因果」である。此の世とは「前世も現世も来世」という全ての他者との関係のことである。

そして、「慈悲」は「縁起」による。「縁起」は因果ではなく、隔たりのないことである)

 mochizuki.hatenablog.jp

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おわりに ―ダブルスタンダード

 計画的犯行と衝動的犯行とはどちらが人間的か? 綿密に計画し、理性的に遂行する犯罪が機械のようだと形容され、欲望のままに残虐な行為を行う犯罪を非人間的、けだもののようだ、と形容する。

 機械と人間とを対比する際には、「感情(欲望および本能)」をもってその優位性を示す一方、人間と動物とを対比する際には「理性(本能および感情の抑制規範)」をもってその優位性を示す。

 つまり、理性ー感情 の二項はダブルスタンダードなのである。そしてこのXXは、男女間においても適用され、この世界は未だにその呪縛から脱していない。例えば、「母性愛」である。

 母性愛をことさら敬うことはやめるべきだと思う。無論、子を愛するべからず、などといっているのではない。

 母性愛はたんに本能である。それは、女性の自由を制限する枷である。

 この本能を「尊く見せる社会」とは、妊娠出産子育てというコストを、当然のごとく女性に押し付ける社会なのである。

「それは、女性の本能だから、当然に、女性が行うべきものである」と。

 「育メン」が褒められるのは、その行為によるのではなく「社会との関係」においてのみである。

 母性という本能を崇めることは、その動物性を崇めることであり、その伝でいえば、猫や豚にだって、もちろん強い母性愛がある。

 理性が、本能を御する規範であるのならば、母性愛に縛られた女性を解放すべく、それを働かせるべきではないか。

「母である悦び」を奪うな。といわれるだろうか?

 だが、理性的であるとは、原初の快ー不快チャンネルを超越することなのである。なんというXXであろうか。(以上)