意味
世界は意味で溢れている。(谷川俊太郎さんは、意味と無意味との間には「意味ありげ」がある。とおっしゃていた。だが、「意味ありげ」とは、なんとも下品な在り方だと私は思う)
意味の構造
意味は「表現」されねば顕在化しない。「意味」は必ず別の「意味」と関連する。「意味」は階層性をもち、同時にリゾーム的でもある。「意味」は必ず事後的に他との差異において見出される。「意味」とは差異の比喩である。「知」とは「意味」を編むことであり、編んだものである。
歴史の単独性
意味は必ず「表現を受容する側」において現れる。
ポストモダンに浮かれていた時代、あらゆるものは表層を漂う「記号」とみなされた。柄谷行人さんは、そこに再度「歴史」という「単独性」を持ち込んだ。「歴史」は自立している。単独性とは、そういう意味である。
この場合「歴史」を受容する側に「意味」は現れず、「解釈」を行うことしかできない。単独性は侵されないからだ。つまり「歴史」とはプロトタイプであり、その受容とは「主体的に複製する」ことに他ならない。(だからこそ歴史は改編される)
歴史を意味に置き換えることはできない。「意味」は単独的ではないからだ。
言語ゲームというお約束
意味とはお約束である。お約束とはルールである。
ここでは、ヴィトゲンシュタインさんの言う、「言語ゲーム」(ルールを定めながら進めるゲーム)をもちだすつまでもなく、もっとずっとありふれた日常における意味について考えればよい。(むろん、そうした日常のありふれた意味のやりとりそのものこそが、「言語ゲームである」と、ヴィトゲンシュタインさんは言っている。だが、すでにある意味を選択するのみである場合、言語ゲームはその趣をかえる。端的にいえば、既存のルールの中で存分に戯れることができるのであれば、あえて新ルールを作る必要はないのだ)(という姿勢は堕落である。との論点はまた別のお話)
プロレス
意味は意味に依存する。意味は意味と緊密に結びつき、意味空間を織りなし、世界に線をひく。立ち入り禁止のライン。これより先は遭難のおそれ有り。何人タリトモ、立入リヲ禁ズと。
たとえばそれを、張り巡らされたロープとみる。我々はロープに囲われた四角いリング内において存在する。
人類のかがやかしい叡智が策定した、「意味」の世界。
その中で起る全てに適用されるルールがあり、そこからの逸脱可能性は、ことごとく、手当された、安全な、明るい世界。
ロープにふられたらロープに走り、そこで跳ね返って、相手に向かって走り、相手の技を受ける。それがルールである。
タイガーマスク
そこに、タイガーマスクさんが現れた。彼はあくまでもルールにのっとってプレイをする。彼はこのリングのルールを改変しなかったし、新たなルールを持ち込んだりもしなかった。それでいて、彼という「智」は、おおよそこれまでの意味世界には存在しない形状を現した。
プロレスは彼の出現で、大きく変化したといえる。だが、何がかわったというのか? ルールは何一つ変わっていないというのに……
四次元殺法
圧倒的な身体能力。タイガーマスクさんは、リング内を縦横無尽にかけまわり、ロープを最大限利用する。
重力に体を引かれたオールドタイプを、3D座標で攻撃できるオールドタイプ、つまり、シャーアズナブルなのである。(ニュータイプではないのです)
彼の戦い方を、四次元と呼ぶのは、もちろん誤りだ。だが、それは、
①ジャンプ、ロープからのダイブ、によって実現される「高さ方向」の移動の自在さが、他を圧倒していたことから、通常のオールドタイプが2Dで戦っていたところに、真の3Dを体現したことから、+1次元=4次元。
としたともいえるし、
②そのスピードから「時間軸」という次元を自在に操る者 +1次元=4次元 としたともいえる。
私はこの両方をあわせたところに、四次元殺法の真骨頂があると考える。つまり、高さ方向に加えて、素早く移動できる能力が、従来は想定し得ない方向へ素早く移動することを可能にした。
③縦横高さの空間の裏道を抜けるワームホールを自在に出入りしているかのような移動から繰り出される攻撃。これこそ、3D+1D=4D にふさわしいのではないかと思う。
むろん、それも疑似4Dであることに変わりはない。だが、このリング上に4D的な存在が可能であるなど、誰も想定していなかったはずだ。
リング上のルールは変わらない。だが、現在の意味体系はそうしたアクロバットを可能にする余地を残している。
意味は緊密に結びつくが、かならず網目が生じる。タイガーマスクはその網目を、リング上に示したのである。
未来派宣言
重要なのはスピードだ。
その意味で、未来派宣言はいまだに輝きを失わない。当時、流線型や4次元が流行したのも、従来のルールを打ち破るものがスピードであるとの認識の表われなのだ。
ストロングスタイル+リアルファイト
浮遊する記号と戯れる方法として、浅田彰さんが選んだのが「さらなる加速」であったとするなら、蓮實重彦さんは、むしろその場にとどまり、「意味」とがっぷり四つに組むことを選択した。
タイガーマスクさんも、相手の攻撃を受け切る姿勢を貫いていたので、ストロングスタイルではあった。だが、蓮實重彦さんは、もはやフットワークを用いることなく、グラバカの姿勢で意味をまさぐる。主客が一体となりながら、客を主の支配下におき、主客の共同作業において、客を自己矛盾(逆関節或いは窒息)に追い込む方法。
(「批評の対象に塗れて戯れる」というのなら、浅田彰さんも、蓮實重彦さんも、非常に近いところで、闘っていた。ただ、浅田さんは闘牛のスタイルににていたのだといえる)
(この文脈においては、柄谷行人さんは、ismを貫くアントニオ猪木さん的だ。中沢新一さんについては、『ブッダの方舟』において前田日明さんと並べて論じている例が紹介されている)
トペ
意味はリングを規定する。意味はリングからの逸脱から人を守る。意味は綿密に絡み合いリングという直方体を編み上げ、人はその網の上で生きる。ロープとは知識の限界点であった。
だが、そのリングの内部にも、無数の網目が口をあけていたしh、リングの外部には広大な暗黒が広がっている。知的好奇心は、その闇をも渉猟したいと思うはずだ。そのとき、世界を区画するロープが邪魔だと感じるかもしれない。
だが、知識こそが、広大な闇の彼方へと自らを発射するロイター板なのだ。意味を足かせにしてはならない。
さいごに
意味は緊縛ではなく、知識は去勢ではない。
それは、未知のフロンティアへ飛び出すための手がかりなのだ。そして、リングは拡大する。(と同時に「穴」も「外部」も拡大するわけだが、それはまた別のお話)
それは、イカロスの方法とは違う。ただ、勇気が必要だという点意外は。