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望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

動態学 ―存在はとめどなく、とどめない

動態学とは

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始めにこの言葉をみつけたのは以下の雑誌

『リブラリア vol.0(1988年11月10日)』142p

【動態学】変化を動きのままにとらえる発想法 田中優子

一、社会や人類や文化や人間の動き(ダイナミズム)そのものの法則性を対象とする

一、ダイナミズムを形象化する文学や美術や音楽現象について考えるもの

意義と注意

こうしたダイナミズムの学を実行すると、様々な境界線を突破しながらの活動になるわけです。

(同記事より要約)

田中優子

 田中優子氏は、法政大学総長で江戸文化研究者とのこと。この雑誌の中では、「江戸アジア学」「無為学」「動態学」がテーマだと書いている。

田中優子 - Wikipedia

テーマについて

世界を動態としてとらえること。その点に異論はないし、そうあるべきだ。ただ、前述の二点を「動態学」のテーマとするには少々異論がある。

法則性は動態を切り刻む

まず、動態に法則性を求めることは、慎むべきだと考える。

氏は同記事に書かれている。

子規は俳諧のもっている変化という要素は文学ではないと、これを排除します。さらに俳諧の変化というのは、一貫した秩序と統一をもたない変化なのだ、と言っています。(同記事)

 

近世以前の物語や小説を読む場合、実際はただただ変化が連なっていくエピソードであったり、エピソードの組み合わせをコラージュのように楽しむ楽しみかたであったり、あるいは、ときには無秩序な突然の変化が人間をおそって人間を変えてしまったり、という場合が多々あるのです。が、西欧的な教養のありすぎる研究者は、それを「成長の過程を書いた教養小説」にしてしまったり、全体の構成を無理に考えて、なになに構造と名付けたりしてしまうわけです。(同記事)

上記の特徴は、私が小説の小説性と考えていることにとても近い、がそれはまた別のお話

法則性を切り出すことは、枠組みを与え、構造を見出すことである。だが、fpsに切り出された動態は、もはや動態ではない。

(前略)あなたがその(落ちている最中の葉や花の)そばにぼんやり立っていて、「ああ(葉、または花が)落ちているなあ」などと言いながら、地上に落ちてしまうまでぽかんとしているだけなら、それは動態学にはならないのです。なぜなら動きがおさまってしまえば、それはものが動いて活きている状態を、捉えることができないからです。運動の、さなかにその動きこそを見とめ、聞きとめるのが俳諧だと、芭蕉はいっているのです。(同記事 ( )内及び下線筆者)

「こと」と「もの」

ものが動いて活きている状態を「こと」ととらえる。そしてその「こと」を切り出した断面に「もの」が現れてくる。しかし、「こと」を切断することは本来不可能だ。つまり、「もの」というものが、そもそも「措定」なのである。

動中静

動きを止めず、動きの中の静に没入すること。その技法が「摩訶止観」であろうか。

kotobank.jp

「こと」とは「動き」であり、「動き」とは「移動」である。絶えず渦を巻き流動し泡立っている空間を透かして見ることは困難だ。

この濁りを脱したとき、動であった世界を「静中動」としてとらえることが可能となる。これは動態学の態度の裏返しであると同時に、達成であると考えられる。

あらゆる動きをそのまま把握する力。

ジオン・ズム・ダイクンが提唱した「ニュータイプ」の能力もここに含まれるだろう。

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無限分割パラドクス

変化する数量を計測する方法が微分である。だが、微分点は必ずベクトルを保持し、そこにはブレが生じているはずだ。

「こと」を分割(微分)によって取り扱うとき、我々は無限に直面する。世界を秒間一兆コマでとらえても、コマとコマとの間には必ず「間」がはさまっている。この「今」の薄さ。だが、その薄さこそち密で強固である。

葉層構造をしたこの多様体の上に、微分化された力が張りめぐらされ、微分相互間の対立や拮抗や支え合いの中から、力動感みなぎる「種的基体」の内包状態がつくりだされている。

(『フィロソフィア・ヤポニカ』中沢新一 講談社学術文庫 2011)

動きは動きのままで

とはいえ、ダイナミズムをとらえるに微分をもってすることは、やはり方便である。無限分割は早晩プランク単位において、身動きが取れなくなる。

動きは動きの中で動きのままにとらえねばならない。

相関関係

理事無礙法界

そこで重要なことは、「動きとは必ず相関関係である」という点である。

色即是空、諸行無常とは、このことを指す。すべてのものが相互に関係しあって留まるということはない。そこには因果関係はなく能動と受動の区別もない。

(「中動態」の本を注文したところなので、その本を読んだらまた、記事にしようと考えている。)

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自と他が相貫入し、透明と不透明とがランダムに混じり合い、ぐねぐねとうごめいている。流動体の濃度は常に変化し、個の境界もまた曖昧で、一貫性をもたない。

我を捨てて、個にこだわらず

そんな動態世界に「我」や「社会」が存続しうるのは、「薫習」によるものと、仏教では説いている。

薫習 - Wikipedia

事事無礙法界

だが、善悪とかは関係がない。「善悪」とは人間の道徳であるにすぎず、存在には何の影響も与えない。(ストレスによって周辺環境や自身の解体を早めるといった範疇では影響がある)

つまりは、ゲル状の流動体の距離の問題で、近い距離にあるものは影響を及ぼし合いやすい。動きが活発になれば変化が起こりやすい。

自と他との界面でおこる干渉の度合い。それが薫習であり、変化しながらも同一であるというアイデンティティーを担保するものが、これである。

共棲主義?

動態学は、膨大なパラメータのリアルタイムな変動を捉え、これまでの局所的見地による対症療法的、外科的、処方を脱し、全体的、根本的処方への転換を迫る学となるわけである。動態共棲学。動態環境学。相手の動きがこちらを変えて、こちらの動きが世界をかえる。

まずは、バタフライエフェクトを実感する感覚を研ぎ澄ますことから、始めるべきだと思う。

おわりに

この世界は有限だ。動態学はこの世のすべてを越境し関連付ける学である。スーパーコンピュータによる解析結果が、人間の予期せぬものであった、というSFは、動態学において如実となる。

各国の利害関係がいりみだれた世界にあって、それぞれがそれぞれの利害を動態学的にシミュレーションする世界は、早晩共倒れの結果を招くだろう。将棋の目的は相手の王を取ることだ。では、「存在」にとっての目的とは?

産まれたことに理由がない以上、天命も啓示も降っては来ない。シンプルに考えれば、生命体の目的はただ一つ、生き延びる事だけだ。それなら種のために個を犠牲とすることを是とするのが生命体だともいえる。地球のあした、人類のあしたはどっちだ?