望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

価値観は本当に多様化したといえるのか ―ダイバーシティへの違和感

はじめに

ダイバーシティ」という言葉が馴染まない。むしろ価値観は細分化されて互いに相容れないまま硬直化しているのではないか、と感じる。

価値観の多様化について、ここでは、人種や宗教に関して保留して「性の多様性」と「自己実現の多様性」を考えたところを書き留めておく。

 

性の多様性

性自認の不一致について社会は急速に対応しようしている。現在は過渡期であり、スポーツやトイレや風呂などの問題については、次第に整理されてくるだろうからここでは考えない。

わたしが気になっているのは「性自認」の「性」についてだ。

性自認において重要なのは「脳の性別」だという。ということは、「性」は絶対的な「型」として区別されているということだ。(ここでは「性対象」は保留している)

参考

www.life-cl.com

 現在は、「男らしさ」「女らしさ」という価値観は受け入れられない時代になっているが、脳の性別と考えるとき、この価値観がより強固に保持されるように感じられるという点が、気になっている。

 また、この件については「心」と「身体」という二分法を復活させているようにも思う。実際は別々にあるのではなく、心とは脳の働きであり、つまりは身体の問題に帰結すると私は考えている。

自己実現の多様性

 昭和のころ、「いい車」「いい時計」「広い庭」「海外旅行」「一流企業」など、「成功」のイメージ(これらが男性的なものに偏っている点も昭和感満載だが)は画一的だった。

 それが平成不況以降からか、車が売れなくなり、時計が売れなくなり、社会的な物差しで測った「一流」ではなく「自分らしい」幸せをゴールとする風潮が広まったとされる。それぞれの価値観でそれぞれが輝けて、それぞれが幸せだと感じることを称して、「価値観の多様化」と言うが、一方で「幸せの矮小化」に見えなくもない。他人がどう思おうと、自分が幸せならばいい、といえばそれはその通りなのだが、そこにある種の諦観が透けて見えるとき、「価値観の多様化」などと言って喜んでいる事態ではないように思われるのだ。

 もちろん、高い車が成功の証などとは思わないし、わたしにお金があっても自動車や時計にはつぎ込まないが、なんともいえない、閉塞感があるように思われてならない。

 「沼」にはまることが流行り、かつて「オタク」と呼ばれた者たちのように、ニッチな価値観を追求することに資源をつぎ込む推し事に勤しむこともまた、大文字の価値観を見失った者たちの滾る思いの受け皿であるように思われるのである。サブカルチャーとは、メインカルチャーなくしては成り立たない。そのメインが失われた今、雨が降れば出現し、短期間で干上がる幻の沼へ付和雷同して飛び込んでいるように見える。

 

「かわいい」の考察

 「かわいい」が流行っている。日本は「かわいい」の産地としてフランスなどに認知されている。「かわいい」を定義するのは難しいが、手軽さや扱いやすさなどの、すこし「見下した」価値観だと思う。「かわいい」とはマスコット化されることであり、庇護してあげるべきものだと認知されることである。

 だから我々は「かわいい」に逆らうことができない。「かわいい」に本気でむきあうことは「大人げない」からである。「かわいい」はわがままを言ってこそ「かわいい」のであり、すねたりいじけたりするから「かわいい」のであり、予測不能な言動をするからこそ「かわいい」のであり、危害を加えてこないから「かわいい」のであり、美的基準を逸脱するから「かわいい」のであり、「かわいい」から「かわいい」のである。

 このように現在の「かわいい」のカバー範囲は極端に広い。「キモかわいい」「怖かわいい」「グロかわいい」「ブスかわいい」など様々な接頭語を許し、「ヤバイ」と「かわいい」で大抵の価値判断が可能なほどだ。

「かわいい」を感じる本能はおそらく赤ちゃんの頭身に反応する本能から来ているものだろう。つまりは庇護すべきものという感情を起こさせるものが「かわいい」というのが本質だと思う。「かわいい」が発動するとき、庇護すべき立場の者にとっては目の前の「かわいい」存在だけが大切になり、それを「かわいい」と感じない者たちから護らなければならないと感じ、戦うことも厭わない。

 「かわいい」のカバー範囲が広がるとは、それを「かわいい」と感じるかどうかの「踏み絵」が増えるということに他ならない。

「かわいい」の多様化は、多様化した価値観を消化しきれない我々が、とりあえず敷居の低い「かわいい」に分類として、大雑把に肯定しているだけで、実際には受け入れていないという姿勢の表れであるような気がしているのだが、これはまだ粗雑すぎる感想である。

おわりに

 ダイバーシティ、というとわたしは、お台場の海に潜る提婆達多を想像する。多様性を認める世界は豊かな世界だとわたしは思う。もし本当にそれらを認め合うことができるのならば。「みんな違ってみんないい」と金子みすゞさんは言った。地球はそれほどに豊かだろうか。