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望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

フィロソィア・ヤポニカ 1 p.81

はじめに

 しばらく前からこの本を読んでいます。中沢新一さんの著作としてはかなり硬質な文体で、読み進めるのに苦労しています。

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 しかし、とにかく、読んでいて興奮を禁じ得ない本なので、読書メモとして気が付いたことを書き留めて、読書の指針としようと思います。

今回はこの部分。

「個体と個体とをつなぐ絆が考えられるためには、個体性を超越したものの分有ということがなければならないからだ」

(「同書」 第三章 構造主義と種の論理 p.81)

個体と種

「個体性を超越したもの」はどこに存在しうるでしょうか?

 とりあえず、近代的自我の探求において発見された、フロイトの深層心理、ユング集合的無意識吉本隆明共同幻想などが思い起こされます。

 また、民族意識、同国、同郷の交感、同じ釜の飯を食うなどの連帯感なども、個体性を超越したものの分有であるといえるかもしれません。

トーテム

 同書では、アボリジニーの「トーテム」を例として、通常の生活における名前と帰属の他の、「カンガルー」や「フクロネズミ」といったそれぞれの集団内での強い絆と、それら集団間の神話的調和によって世界と融和している例をあげます。

 絆というのは、交感によって結ばれた強い一体感ではないかと思います。しかし、この一体感はアンビバレンツです。なぜなら、個人である我々は、決して他人と一心同体にはならないからです。

 「個」でありながら「一体」でありたいと願い、その一心から、絆で結ばれた他人のために自らを犠牲にすることも厭わない態度。そういうものが絆ではなかろうかと思います。

慈悲

 ところで、仏教においては「輪廻」という機構により、繰り返される前世においては、父であり、母であり、また子であったかもしれない存在として絆を説きました。

 輪廻においては、すでに自分という個体が存在として分かたれてしまっているために、他者が「自分自身であったかもしれない」とは言えないわけですが、あらゆる他者が近親者であった可能性において、慈悲を説くのです。

 慈悲は「分かたれた者の哀しみ」から生じます。そして分かたれているのは、単に個人としてだけではなく、かつて一体であったはずの「真如」から分かたれた哀しみでもあるのだと思います。

楽園追放

 キリスト教における「自分自身を愛するように隣人を愛せよ」は、仏教や、トーテムに比べると、ずっと教育的に感じられます。そこには愛する理由がなく、ただ命令しているのです。これは分有とは呼べませんし、規則であって絆ではありません。

 思うに、キリスト教個人主義を拭うことができなかったのでしょう。仏教における「分かたれた哀しみ」は、キリスト教においては罪を犯したことによる楽園追放のモチーフとなります。悲しくはあっても、哀しみとはいえません。

 だから、キリスト教圏において、慈悲は慈善として遂行されるのだろうと思います。

分かたれたもの

分有

 分有とは一つのものを分けて持っている、ということですが、杯を割って二人で持つというように、一つの物を壊して分けているのではありません。「一つの物」は完璧な状態であり、それぞれが保持する「一つの物」もまた完璧な状態なのです。

 なぜ、「一」を「多」が保持できるのかについて、イスラム教のタウヒードスピノザの流出、仏教如来蔵思想などの理論が考えられてきました。プラトンイデアもまた、共有された認識機構であるといえるでしょう。
キリスト教は三位一体で、分有という考え方は聖霊においてわずかに残りますが、もっぱら「証拠なく信じること」によって成立するものであり、ライプニッツモナドは多が一となる状態を説明するものと思います。

個体と種

 「同種」のものを保持しながらそれぞれが「個別」であることは、同一性を阻害しているといえます。アボリジニーにおいても、通常の生活とトーテムの集まりとは区別されていました。これは、普段は母国のことをあまり考えない人が、オリンピックになると国旗を振って応援しているのと似ています。

 「他種」のものとの闘いの場では「国家」「民族」「種族」の団結心が発動するのです。

 普段は、「個」が「種」に優先していますが、有事の際には「種」が「個」に優先する。これは、ごく当たり前に思われるかもしれませんが、このことから、「種」は「個」の否定において存在するということがわかります。

 そして「個」もまた「種」への回帰を常に志向しています。(分かたれた哀しみを完全に解消するには「種」へ回帰するしかないからです)

 つまり、「個」は「個」を否定し「種」へ回帰しようとする主体であるといえます。デカルトの「我思うゆえにわれあり」とは、この「個体は個体を否定する主体的存在である」ということを指しています。

不完全な回帰

 残念ながら、「個」を完全に解消し「種」へ回帰するのはおそろしく困難ですし、現状では「働き蟻のような回帰」ぐらいしか思い浮かびません。

 かといって、「種」への不完全な回帰は、数多くの「多種」を生み出し、それらが競合する世界にしか生まないでしょう。現に今の世界は、この不完全な回帰による闘争が絶えないのです。

 「絆」は全人類をつながねばなりません。「種」が不完全であり「多種」が生じるのなら、やはりそれらをつなぐ「神話」が不可欠なのです。

おわりに

さて、この後どんな「神話」が提示されるのでしょうか。どんな世界が提唱されるのでしょうか。楽しみです。