望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「則天去私」からの「執私側天」 ―現代俳句から思う

はじめに

 「現代俳句」と名のつく句集をいろいろと読み漁っております。「現代」とはだいたい、明治後期から昭和中期あたりを指すもののようで、「現代」とは随分とモダンなものだと感じております。作者存命中の「現在」については一体どのようにくくられるものか甚だ疑問に感じます。「古代」「中世」「近代」「現代」なんぞは「現在」から振り返ったパースペクティブの視座なのですから、「現在」をずるずると後ろへ引き延ばしているような按配なのではないかと思われます。すると、もっとも短いはずの「現在」がもっとも「発散」しておるという、奇妙な逆転が生じてまいります。

 あと、十年、百年、三百年を経た「現代」においては、平成の尻尾なんぞは「中世」かと思われるのではないかと思われます。

明治から始まる

 日本には文明開化があって、それまでとはガラリと変わりました。今私たちのあるのはまさに「明治から」と考えてよいのではないかと思われます。

 今の私のDNAに、「江戸文化」は刻み込まれているのかと考えれば、到底、そのようなものは見つからないものと思われます。浮世絵は良い。曲げ輪っぱは良い。びいどろは良い。そういった懐古趣味は、もはや異国情緒と同工異曲。たとえば明治村、大正村と、京都太秦映画村、日光江戸村の両者を訪れたとき、どちらに「懐かしさ」を覚えるかといえば、圧倒的に前者であろうと思われます。

 それは私が、江戸っ子ではなかったからかも知れず、たんに趣味の問題であると一蹴されうるものとも思われますが、少なくとも、建築、町並みに関しては、圧倒的に明治期の洋館がもつ様式に、私はノスタルジーを覚えます。

記憶から始まる

 とはいえ、郷愁が幼いころの記憶に始まるのだとすれば、真の個人ノスタルジーといえばやはり、幼い頃に経験した環境に二重写しとなる風景、風俗、物品に、ということになるようでございます。

 大林信彦監督の映画や、二階堂酒造のCMなどについては、以前ブログに書いたような気もいたしますので、手を止めようと思います。

本題へ

 近代的自我というやつに、文学は軒並みやられているぞ、というのが今回書こうとしていた事柄でした。そして、やられているのは文学のみならず「人間」そのものなのだと思われたのです。これは大きな問題になりそうなので、まずは「雑記」の形で書いておこうと、そう思ったしだいです。

現代俳句

 俳句は正岡子規さん、高浜虚子さんを源流とし、村上鬼城さんと高野素十さんを規範とするというのが私の位置づけでした。その上で、「現代」俳句に手を伸ばしているわけですけれども、ことごとく「我」を表に出しすぎていると思われて仕方がありません。

 そして、この「我」俳句は、「短歌」に接近しているように思われます。

短歌下げではないのです

 平安の頃の短歌には、心情を自然に添わせて伝えるという奥ゆかしさを感じられたものでした。私には「万葉集」と「一握の砂」や「乱れ髪」はまるで違う文学表現のように思われ、それらから「サラダ記念日」などはすんなりとつながっているように思われます。いづれも私は好きです。

 ただ、プロレタリア的気風が入り込むと、文学はどうにも茶褐色を帯びてくるように思われます。これは、小説も俳句も同様で、プロパガンダ臭の強いものは私は好きではありません。

 ちなみに、「現在」短歌に関しては、「現代芸術」「現代音楽」というように感覚をもっています。「現在」俳句についてもそう思われます。私は、文学は、フィネガンズウェイクのように「言葉」そのものに向かいあう必要はなかろうと考えております。それはもはや、コンセプチュアルアートのように思われるのです。「言葉が伝える意味」と対峙する方法は、別にあると思っております。無論、そうした試みがあったから、こういう意見も生じるのだということも承知しております。

 短歌は心情を表す器としてとても適していると思われます。「自然」というものを排しても問題なく、「我」よりも「私」を震える声で伝えるのにぴったりだと思われます。むしろ、短歌は「自然」を捨てて「心情」に振り切ったところに活路を見出したような気さえいたします。寺山修二さんの短歌論など読んでおりましても、それは納得できるところです。

執私側天

 俳句の十七音で「我」を主張すると、いかにも狭く小さく感じられるのが不思議です。その表現は「私小説」に遠く及ばないように思われます。文学ならざる「日記」程度。つまりは、表に出すようなものでもなかろうに、と思われます。

 したがって、前書を持つものも増えてきます。作者の生活を理解してもらわねばこの句は理解できないのだという部分で、それは弱いなと感じます。ならば、小説にすればよいではありませんか。季語という共通認識と、極端な省略による自在な詠みのバランスが俳句であるのだとすれば、「悲しき玩具」を「俳句」にしようなどという試みはナンセンスだと思われます。

俳句というのは「則天去私」からの「執私側天」を旨とするのではないかと思われます。

近代的自我

「我」を表に出した現代俳句の狭さは、結局「近代的自我」の狭さに帰着するのだと思われます。俳句が狭いのではなくて、「我」が狭いのです。

社会的生物の個

 社会と家族と個人、というくくりについては以前書いた気がします。「我」というのは結局「他」との境界の軋轢によってのみ感じられるものだと思います。なので、「我」のみを立てよう、ということが、そもそも無理なのだと思われます。共同体内に埋没して生きながら立つ「個」というものこそが正しいようにも思われます。その場合の「個」とは「全体」との関わりにおいてのみ存在できます。「全体」にとって「個」は入れ替えのきく「一般的」なものでしかなく「個」は単体では「全体」に抗することはできない。同じ不満、考えをもつ「個」同士が「団結」することで「全体」を変化させる可能性が生まれる。それが「個」の力なのだと思われます。

個と全体

 一人の幸せより十人の幸せ。百人の、千人の、一万人の幸せの方が大きな幸せだ、というのは本当でしょうか。人は自分の満足よりも人を満足させることに満足を得る生き物だという研究があったように記憶しています。えてして、そういう人は身内を不幸にするようですが、社会性を第一ととらえる場合は、やはり「家族」は解体されるべきなのかもしれないとも思われます。「家族」が「国家のため」の組織であるのだとするなら、「家族」とともに「国家」も解体しなければ「我」から逃れることは難しいように思われます。だから、「出家」があるわけでしょうが、それらについても以前に書いたように思われます。

さいごに

「近代的自我」にこだわりだしたから、人は小さく窮屈になり、「漠然とした不安」に苛まれて「自殺」とかするのではないかと思われます。

「我」というのはごく一部の「天才」の運命なのだ

 ということを雑記として書きとめておきます。

 一般庶民は「自己」を確立する必要もなく、働き蟻のように生きればいいのか!

 という点につきましては、今のところ、働き蟻という生き方の「意義」とその「私性」について考えてみようかなと思っているところでございます。