はじめに
世界は「不思議」だが「謎」ではない。
だが人間は「問」として存在する。「問」は「不思議」を「謎」として探求したいという「業」の「渦」である。
南方曼荼羅
「人間」は「謎」に「答え」を求める。そして闇雲に突っ込んでいく。前のめりに、没入していこうとする。「よく見ること+肉薄すること=解明すること」と勘違いしている。
だから、「バックスキップ」なのだ。
貪欲に鼻先から世界の網目へつっこんでいき、早晩身動きがとれなくなる前に、我々は「バックスキップ」を思い出さねばならない。
「次のバンドは、このバンドだいっ!」
と叫んだあとでみせた、あの「バックスキップ」こそが、人間を業から解き放つ唯一の態度なのだから。
下記動画より抜粋
宣言1 あらゆる可能性を超えて遠ざかること
われらバックスキッパーズは、決して近づかない。だいたい、そんな近視的視野で何を見渡せるっていうんだい?
「針の穴から天を覗く」のもエロいけど、「群盲象を撫ず」のほうもエロい。だけどバックスキッパーズである我々は、その谷崎潤一郎さん的エロからだってビュンビュン遠ざかっていく。
残念だって?
だけど、バックスキップは「針の穴を駱駝が通る」よりも簡単なんだ。そうやって、「エロス=肉体=唯物器官」から、すばらしい速度と愉快なリズムとで、遠ざかり続けるときの、めくるめく体感を知れば、ちんけな「性欲」なんて吹っ飛んじゃう。「性欲」は開放ではなくて、抑圧だったんだって、すぐに分かるから。
僕らは、かろやかにスキップして遠ざかる。どこまでも、どこまでも、グーグルアースのロケーションバーのマイナスにむけて。すべてが光の束になってしまうほど、時間が解けてしまうほど永続的に。
宣言2 決して振り返らずにバックすること
背中に気をつけな。って脅し文句なんかに屈しちゃいけない。後ろを気にしたとたんに後ろは前になっちゃう。そこが「業」なんだ。
足元がおぼつかない? 何かに躓くかもしれない? 思い切り後頭部を打ち付けるかもしれない? そういう「恐怖」がいくつもいくつもがんじがらめにしているのが「自分」なんだ。「自分」を自分にとどめおくための保険。樽のタガみたいなものさ。
ジョルジュ=スーラ
いろんなタブーをあえて犯して、抑圧を取り除くっていう、安っぽい自己啓発みたいなこというようだけど、一理あるんだな。でも、そんなもんに金を払うようじゃ、バックスキッパー欠格だけどね。自己啓発が後ろ向きなんだってことくらい、分かってるよね。バックスキッパーは、決して振り返らない。バックすることは、過去に戻ることでも、当面の問題から逃げるってことでもない。振り向かずに遠ざかっていくこと。それは簡単だけど勇気がいる。だけど、金は一円もかからないんだ。
宣言2補足1 下がることと戻ることを混同してはいけないよ
バックするって、べつに過去に戻るってことじゃないし、家に帰るってわけでもない。むしろそういうパースペクティブそのものからバックスキップするってわけ。
なぜ、遠ざかるのか? それは「問」そのものを「無効」にするためだ。「問」は「集中」「肉薄」「凝視」「拘り」など、とっても「粘っこい」性質をもっている。ただ、「問」というのはある意味「無時間」だから、「問」そのものが困ったもの、というわけじゃあない。「問」に「答」えようとする姿勢において、「部分」がクローズアップされてしまって「空間」が生じ、それを順番に検分しようとして「時間」が発生してしまう。
バックスキップは「無時間」運動で、つまり、それは「運動」ですらない。僕たちは「集中」よりも「放散」を、「キャッチ」よりも「リリース」を、「緊縛」よりも「一糸纏わぬ裸」こそを求めている。
バックスキップというのは、時間と空間の発生以前(なんてパラドクス!)に還ろうという運動なんだ。
宣言2補足2 下がることと引き返すこととを混同してはいけないよ
バックスキップは、何にもとらわれない、軽やかなステップだ。前に進むのが恐ろしいから引き返す、というのとは違うし、これまでやってきたことが間違っていたから、省りみるってのとも、まるで違う。
バックスキッパーズは、反省なんてしない。後先考えずにバックスキップするんだ。
80年代、浅田彰さんは、時代の感性を信じて「逃走論」という宣言をした。主体が意味を離れた軽薄な記号として浮遊したバブルの時代。でも、そこには「方向性」がかけていた。(その「無方向性」こそが「戯れ」たる由縁だったわけだけどね)
なんの保険もなく遊びほうけ続けることに、僕らは不安になって、年をとって疲れてきた。やっぱり、拠り所となる「I]が必要だ、なんて話が蒸し返されて、軽やかだった世界に、ヒッグス粒子が発見された。そんな時代になって、「感性」は「費用対効果」に取って代わられてしまったのさ。
僕らは、東浩紀さん達に言い訳する浅田さんなんてみたくもなかったわけだし、そんな風に、時代を「思想」という狭いところで性急に総括しようという連中には、ひとつも魅力を感じない。
いわばみんな「答」をもとめて、狭い穴に臍まで突っ込んでもがいている「問」の専門家だ。彼らはみんな近眼なんだ。そんな彼らを僕らは前方に置き去りにしていっちゃうってわけ。
宣言3 バックスキップは、ステージを空けるためのものではない
宣言だか、注意事項だかわからなくなってきたけど、まあいいよね。
バックスキップは、次にくるバンドにステージを空けるために行われるわけじゃない。バックスキップは、そんなステージから降りて別のステージへ向かうために行われるんだ。
そう。「逃走論」は生きている。
ただ、かつてのそれは「平行移動」もしくは「斜め移動」だったのにたいして、バックスキップは「急速後退」だってところが大きく違うところなんだ。
今いるステージは、バックスキップによってたくさんある小さなステージの一つにすぎないんだってことが明らかになるし、そのたくさんある小さなステージもまた、大きなステージの一部だったんだというのが明らかになる。それが、バックスキップなんだからね。
宣言4 バックスキップは笑顔で前のめりに行われる
あくまでも原点は「逃走論」だから、軽やかでリズミカルだ。とくに「リズム」が重要だ。16ビートを刻め、休符を感じろ、とかいわないけど。これまでに経験したことがあるリズムじゃ、「世界」に取り込まれてしまうから、こいつを裏切る「リズム」を体得しなけりゃいけないんだ。だけど、前例はある。なにしろ存在は「リズム」なんだから。
通常は「世界」「人間」「社会」を「安定存続」させるためのリズムが、「恒常性のリズム」が世界に響いている。スキップは、そこから逃れる手段なんだ。そして、世界中に残っている「スキップのステップ」には、この「日常」を切り離す装置になる「リズム」がある。
お祭りだよ。
郡上踊りでも、風の盆でも、阿波踊りでも、アフリカでも、南米でも、どこにだって、ステップは続いている。
我を忘れて踊り狂う恍惚の笑顔。この世界に来ている別の回路に接続され、「自我」から「踊りの輪」から「村」から「島」から「大陸」から「地球」から「宇宙」から「時間」から「空間」から、ビュンビュン遠ざかっていく、バックスキップ。そのときこの世界はまるで違って感じられるはずだ。
さいごに 分け入っても分け入っても依他起性
この世界は「点描的」である。それは、そのように成り立っている、というわけではなく、人間にとってはそのように「在る」のだという意味で、「点描的」だというのである。たとえばミミズにとって、世界が点描的であるかどうかは分からない。だから、ユクスキュルは重要なのであるが、それはまた別の話。
点描画を鑑賞するにあたり、カンバスに鼻をこすりつけんばかりに、接近したところで、微細な色の線や点が見えるだけだ。そこに何が描かれているのかは、カンバスから遠ざからなければ明らかにはならない。
現代の科学や、知識は近視的すぎると思う。カンバスに何が描かれているのかを研究するために、さまざまな測定機器をもちいて、その成分やら、分布やらを、専門的に、事細かに分析しているのだ。その成果を統合して、この絵に何が描かれているのかを明らかにしようというのが、科学である。
それは「分析結果をどのように統合するのか」において、多様な考え方、主義、仮説を生み、それぞれが、それぞれの仮説を実証するのに必要な、さらに細かな分析検証を行い、どんどんミクロな部分へ入り込んでいくのである。
その絵に、何が絵が描かれているのか?
始めにこの問いをおく態度を、科学は許さないのだ。それを許しているのは「宗教」だけである。
だから、その立場からズームアップしていくことができる中沢新一さんは、有効なのであり、愚直に、そしてアクロバティックに、バックスキップを続けた結果、全体像をつかむことができた柄谷行人さんは、有効なのである。
バックスキップ宣言は、そのようなものとして現れた。あとは、実践あるのみである。