望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

笑いながら笑え ―肉体の怪談と論理の怪談

「君が言うのは頭の恐ろしさにすぎない、私が言うのは心臓の恐ろしさだ」
夏目漱石『行人』

 はじめに

 以下に挿入される「怪談」の断片は、人生というTLで見かけた「どなたかの話」です。本来ならば正確な出典を記して引用するべきですが、すべてがうろ覚えであるのみならず、私が見かけた場が、原典なのか、引用されたものであったのかを調査することも難しいため、「こんな感じの話しがあった」という漠然とした紹介にとどまることをお断りしておきます。

 「その話は、私に著作権があるもので、勝手に改変引用されては迷惑だ」との権利所有者の方におかれましては、コメント欄にてその旨ご連絡いただければと思います。その旨を記載のうえ、抹消いたします。

ツイッターで見かけた「AI怪談」なるもの

 近年の言語関連ソフトの進歩は目覚しく、スマホにお話をねだればお話を聞かせてくれるのだと聞いた。日本での将棋の勝負において、ディープラーニングという手法が知れ渡り、ビッグデータの処理なども大幅に進展したと聞く。
 そのうち、ブレードランナーでおなじみの、フォークト=カンプフテストが有用となるも近いのかもしれない。ただ、その診断をAIに任せてはいけないだろう。嘘発見器のような相対的にはローテクな方法によって、グラフに現われる動揺を精査するといった方法が妥当か、とこのあたりは蛇足で。

 私が見かけたAI怪談が、実際にこうしたプログラムで製作されたものであるかどうかは、知らない。ただ、どの怪談も「二番煎じ」だと感じた。

怪談の学習 

「怪談」というカテゴリーまたは「恐怖」をもたらしたと認められる物語群というカテゴリーを学習することによって、現段階ではその界隈の「文」を「起承転結」の枠に当てはめて提供しているといった感じだ。
 「恐怖」「怪談」だけでなく「奇妙な」「不思議な」「不安」「居心地が悪い」などのパラメーターを加えて、徹底的に学習させれば、AIは、人間が抱く本能的な恐怖を探り当てることになるのかもしれない。

 在り物ではない怪談をAIが作ってくれることを、私は楽しみにしている。

 しかし、AIは、その怪談に「恐怖」を感じるだろうか?

脳とゴーストと感情と

 知識として知っているだけの感情へ感情移入すれば、その感情を体感しているとみなしうるのか? これをつきつめれば、おそらく「クオリア」に行き着いてしまうので、ここで打ち切る。

 ただ、もし、そのような体感が可能であるのだとしたら、フォークト=カンプフテストは無効になる。いや、このテストは「画一的な管理社会における道徳観念への服従度」を測るものであるにすぎないのでないか? そのような共通性は、ユングの「集合的無意識」に依拠しているのだといえる。探偵が犯人の思考を辿れるのも、「同じ頭」を前提としているからだが、私には、そのことはそれほど、自明ではないと思われる。似た形の性質は似ている、という生物学的見解以外に「同じ頭」を肯定する論拠はないのではないか。

 さて、『攻殻機動隊』において、ゴーストの有無は脳の有無とほぼリンクするように描かれているが、チタン合金のケース内部は空っぽなのではないかとの危惧を、素子さんなどは常に抱いていた。彼女は件のテストは合格できるだろう。では、人形遣いの方はどうだろう?
 例えば、「人間を騙せれば合格」という「チューリング・テスト」であれば、双方ともにたやすく合格できるだろうし、siriなどでも、よいところまでいけるだろう。いや、「人工無能」でも合格できるのではないだろうか。

チューリング・テスト

 相手が人間であるか、機械であるか。
 実はこの二分法は誤りである。重要なことは、相手が同じ常識を共有しうるか否かである。
 多少会話があちこちしても、楽しい時間を過ごせて、「じゃあまた」「さよなら」と別れることができるのならそれでいい。だが、とても有意義な意見交換をしたのち、帰ろうとしたら、突然に拘束されて、殺害されたというのでは、会話の相手が人間だとわかればよいなどとはいえないのだから。
 アラン=チューリングさんが言いたかったのは、おそらくそういことなのだ。と私は考えている。

これは全て雑談

 と、AIと書いたとたんに、これだけの無駄話がズラズラとでてきてしまう。

思考は感情である

 ところで、私は思考もまた感情だと考えている。つまり、肉体がおかれている状況にたいする反応が全てであると。
 感情と思考とは切り離すことはできない。思考とは、「方法化した感情」である。従って、感情の有無をAIと人間との区別に用いるという手段は、「方法化できていない感情」の発現、いや非発現を検知するためのテストということになる。
 そして、この「方法化できていない感情」のうちで、私が今回着目したい感情が、かつて「伊集院光の深夜のバカ力」のコーナーにあった「普通のヘンな話」の類の「怪談」なのである。

伊集院さん・『新・耳袋』・伊藤潤二さん の界隈

 伊集院さんの怖い怪談は有名だ。「赤いドレスの女(自動証明写真機)」など絶品だ。伊集院さんは、「怪談」を作ろうとして作ることができる。それは、「怪談」には公式があるからである。そして、よく見かける怪談の大半が、その公式で成り立っている。それらはAIで容易に模倣できるだろう。
 一方、「くるぶしが汚れていた」話や、「塀の凹みにはまりにいく話」などがかもし出す「不穏さ」はどうだろう? 
 私が好きなのは、こういう「現在立っている地面が斜めになるような感覚」の怪談なのである。伊藤潤二さんの「落下」や「阿彌殻断層の怪」などを初めとする作品は素晴らしいものが多い。

 心霊は必ずしも必要ではない。むしろ、霊的なものが登場すると、怪談の公式の発動に抗うことが困難になるぶん、ハードルは上がる。
 そんななかでも、『新・耳袋』にあった、『スーパーカブにのったおじさんの胸に、女の人が斜めに突き刺さっていた』などは、同じく『自転車の前カゴに背広を来たおじさんが正座していた』と似ているが、前者のほうが断然おもしろい。だが、『タンスの中に小さなおばあさんが正座していた』となると、これはなかなか棄てがたくなる。『呼ばれたら必ず返事をしなければならない部屋』や、『鏡台から出てくる手』など、「霊」絡みでも、いわゆる公式を無視したエピソードであれば、おもしろいのだ。

霊・妖怪・人間・場

 霊的なものよりも妖怪的なものに秀作が多いのが『新・耳袋』の特徴といえるかもしれない。名前のついた妖怪というわけではなく、幽霊であっても、怨恨などを離れた、いわば「機械」のようになってしまった幽霊の様態がおもしろい。『ひたすらヘッドバンギングし続ける影』とか、『どこまでも伸びてくる手』とか。

 人間が奇妙になってしまう、という話には、三通りあって、
①知り合いがヘンだった。『母が壁に画鋲を刺しに来る話』『3歳になるとかならずおばあさんを見る家系』
②ヘンになっている人をみかけた。『鏡がなかった話(稲川順二さん)』『山から子供が走ってくる話』
③ヘンな人に関わった。『フグを勧めた男』『一緒に老ける掛け軸の女』といったものだ。

ヘン、というのは、「常識が通じない、通じなさそうな人」といえる。つまり、握手をしようと差し出した手を、いきなり肛門に突っ込もうとするとか、つばを吹きかけてくるとか。
しかし、唾を吹きかけるというのは、エスキモーの挨拶だと聞いたこともある。だから「所変われば品変わる」というようなモノを混同しないよう注意しなければならない。そこを大げさにすると、グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』になる。悪いものではない。土俗風習モノとしては、一ジャンルを画するものである。

 最後に「場」ということになると、「異世界に繋がるエレベーター」、つまみ枝豆さん(?)の『鏡があった話』などだが、そういう派手なものよりも、『壁の隙間に放置された携帯電話』とか、『屋根裏にある階段』とか、『書いた覚えのない日記の言葉』などのエピソードが好みである。

 異空間的な話は興ざめだ。「きさらぎ駅」などもどこが面白いのかわからない。それなら、『新・耳袋』の「つきあわせると時間が合わない話」くらいの仄かさが好みである。

 また、人間がヘンになる④「自分が自分ではなくなる」という分類を加えてもよいのかもしれないが、「自己言及」は語るハードルが上がるのが考え物だ。
 そういえば、幼稚園のこと読んでいた落語の中で、私は「頭山」と「粗忽長屋のアレンジらしき泥棒の落語」がとても怖かった。自分がいなくなってしまう話だったからかもしれない。

ないようである・あるかもしれない

 私が好きな「怪談」とは、一口でいえば「そんなの考え付かないよ」と思わせる話なのだ。
 そう考えると「ギャグ」「不条理」「シュール」「ナンセンス」などが、その範疇に属することになる。ただ、「そんな可能性の中心、思いつかないよ」という柄谷行人さんの批評も「怪談」なのかといわれると、これは外れるようだ。その理由は、文章が十分に明晰であるからだろうか。それとも、私の浅はかな読解では、その深遠の怖さを読み取れていないためなのかもしれない。

なにはともあれ、

これを最も端的に表した言葉が
「事実は小説よりも奇なり」である。

「おいおい。事実は、って、みんな作り話だろう?」 と、つっこんでいただけただろうか?

事実と創作

 イッセー尾形さんが、「タクシードライバー」というネタで、こんなようなことを話していたと記憶している。

「だからよ。作り話じゃねぇって。夢じゃねぇってばよ。いいか。夢ってのはな。こうだよ。カバンがあるだろ。習字道具が入っているようなカバン。な。それを持とうかな、って思うとだ。そうすると、取っ手が消えるんだよ。な? でな。あの金具のパチンっていう金具をあけようって思うんだよ。そうすると、金具がなくなるんだよ。もう、ツルッツルの箱になっちゃうんだ。なぁ? これが夢だよ。夢なんてのはだいたい、こんな風に想像がつくもんなんだよ。
 でもな、あれはおれ、結末が想像つかねえもん。奥多摩の崖の端っこのある家をだよ。ウンウン言って押してるんだぜ。男がよ。崖にむかって。家をさ。結末わかるか? 俺わかんねえ。これが現実だよ」

 事実はズルイ。それは事実であるというだけで、いかなる証明も必要とせず「事実」と認定されるからだ。
 創作でそんなことをすれば、「ありえない」「ご都合主義」「荒唐無稽」「リアリティーにかける」などと酷評される。だから言い訳をしたくなる。「公式」に囚われることになる。結果、つまらなくなる。大風呂敷を広げただけの尻すぼみになる。

 事実はいい。それは起こってしまえば歴史に刻まれるのだから。

思いつかないことを思いつける脳は現実的である

 科学は事実の検証によって、世界を広げていく。ニュートンからアインシュタイン、ハイゼンベルグへと、常識は事実によって書き換えられていく。私達はそのように書き換えられた世界の後塵を拝しているわけだ。 

 『新・耳袋』的な怪談とは、いわば世界を拡張しうるかもしれない可能性をもった仮説として、語られる。したがって「科学的でない」「非論理的」などの評定は的外れである。その意味でも、「霊」で片付けられてしまうようなありきたりな(常識的な)怪談には、なんの可能性も見出せないのである。

 「不思議」とはこういうときに用いるべき形容だ。

「そんな不思議なことに、自分も、いつか出くわすかもしれない」と思えるかどうか。また、そう思うことができる(または、そうした話を作ることができる)判断基準を、私は、一体どのように獲得してきたのか。そこに私は興味がある。

 この基準が、自分のこれまでの知見から得られるのだとすれば、AIにも、この感覚は学習させることができるだろう。その場合、肉体の有無はどのように影響するだろうか? 次に興味があるのはここだ。

 だからこそ、わたしはAIによる怪談を心待ちにするのである。

 かつて、ヘキサゴンで、天才的な間違い方をした、里田まいさんや、言語世界の混沌を生きる滝沢カレンさん。次第に言葉と世界との調停点を見出しつつある佐藤優樹さんの言動への興味と同じ方向に、「怪談」への興味はある。

さいごに

 今回のタイトル「笑いながら笑え」は、AIが知識として知りえた感情を自らの感情として表出することの困難を考え、肉体をもたないAIが感情(恐怖)を生み出しうるか、について考察しようとしたときに思いついたものだ。 当然、竹中直人さんの「笑いながら怒る人」が元ネタである。だが、例によって、到着地点は別の地点へとずれてしまった。

愚痴

 『世にも奇妙な物語』が、このところ全くつまらないのは、この「思いつかないこと」を思いつけないためである。ちなみに『ズンドコベロンチョ』は構造的に新しくも無くつまらないものだ。『奇妙』の名を冠するいじょう、公式通りの『怪談』や、「ちょっといい話」なんかで誤魔化すのはやめてもらいたいものだ。

 だが、難しいのだろうと思う。あの短い『新・耳袋』ですら、映像化された途端につまらなくなってしまうものも多かったのだから。

また、夏がくる。