望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

「芸人」濱田祐太郎さんの「ネタ」こと

はじめに

濱田さんの立場

 もし、彼が目の不自由な方を代表して、介助をする場合の注意点を、「お笑いの形式を借りて」世に広く知らせようという、「啓発」を目的として活動しているのだとしたら、以下のブログは全く無意味だ。

 ただ、「がんばってください」という言葉しかない。そして、日常生活で目の不自由な方へきちんとした介助をできるよう、心がけよう。と思うばかりである。

ネタのつまらなさ

 実際のところ、彼の「ネタ」は、「啓発活動」の範疇を一歩もでていない。にもかかわらず、彼はR1王者である。

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 久しぶりに服を着た人が優勝した。いわゆる「漫談」家の復活は、よろこばしいことではあるが、それと同時に「単なるエピソードトーク」が優勝してしまうことに、つまらなさも感じた。

 

mochizuki.hatenablog.jp

 「すべらない話」で「すべらんなぁ~」というフォロー付で語られることによって、かろうじて「芸人の話」として成立するかもしれないという、そんなつまらなさ。今回はその「つまらなさ」について考えたのである。

 繰り返すなら、私は彼を芸人ととらえ、その「芸人としてのネタ」のつまらなさについて、考えようとしているのである。「自らの境遇にまけずに、強靭な精神力で、それを笑いにかえる力」などという美談を私は共有できないからだ。

異者への差別・ハラスメント

「(程度の低い)笑い」を自虐に求めるという態度は残念ながら王道だ。

「チビ」「デブ」「ハゲ」「ブス」「偏見」。それらを、自ら、もしくは周囲があげつらい、激しく突っ込むこと。それはそのまま「イジめ」の構図と重なる。

 イジられる側の「笑ってもらって、深刻さから救われる」というカタルシスがどれほど真実かを推し量ることはできないが、上記の「異者性(普通よりも過剰もしくは欠如した部分が露呈していること)」を、容赦なく指摘する姿勢は、「お笑いとして」は認知されている。

 だが、私は「差別」を位置エネルギーとする考え方をとらない。

 そして、その意味で、「目の不自由なこと」も「異者性」の範疇であるととらえている。だから、「チビ」「デブ」「ハゲ」「ブス」を残酷にイジる現場で、「目が不自由なこと」を、あげつらい揶揄できない態度を「ダブルスタンダード」だと感じる。

 ハラスメントとは、イジラレた側の感じ方で決まり、その苦痛は「異者性」の性質に依拠しない。私たちは、アジアン住田さんが活動休止(現在復帰済み)に追い込まれた問題を、もっと重く受け止める必要があると思う。

と、ここまでが前置き。

くどいようだが、重ねて書く。

このブログは彼の「ネタ」のつまらなさについての私見である。

彼の限界

 濱田祐太郎さんは、ピン芸人だ。ピン芸人とは、基本的に「ツッコミ」であり、ツッコム相手は「世間」ということになる。(ケーシー高峰さんのような「ツッコミ待ち」もあるが一般的には、ということで)

 一方、「異者(前述の異者性を自ら現わす者)」は基本的に「ボケ」、つまりイジられる側に立つことで輝くといえる。

 現在の彼のつまらなさの根本は、この「立場の交錯」にあると考えた。

特性を生かすなら

 端的にいって、彼はコンビを組むべきなのだ。そして、相手に「見えないこと」を容赦なくイジってもらうべきなのだと思う。

 それには、絶妙なバランス感覚が要求される。弛緩してしまった「ハゲイジり」のような安易さでは、即座にかつ大々的に「人権問題」とされてしまうからだ。
 だが、そういう緊張感から、あらたな「差別漫才(とあえて言う)」を確立できるかもしれない。

 同様に、ひな壇や、芸人運動会などで、その特性を発揮するべきなのだと思う。例えば、古い話で恐縮だが、目隠しをした寺門ジモンさんと、壁ギリギリまで突進して止まるといった対決(「やりすぎコージー ネーチャー寺門」より)をして勝つとか。そういったバラエティーの現場に、どんどん参加していってもらいたい。

誰を笑うのか

 現在の彼のネタは、おもしろいおばちゃんに出会ったエピソードトークでしかない。そこでおもしろいのは、おばちゃんであって、彼ではない。その上、彼だからこそ出会えた、という個別性も皆無だ。

 彼が「笑い」として提供しているのは、目が見えている人間の「思いやりと、想像力の至らなさ」ばかりで、それは単に「注意喚起」にすぎない。

 その時、観客に対して「自分はそんな失礼で、ゆきとどかない介助なんてしないけど、世の中には考えの足りないおばさんがいるんだな。(おっと、自分はそういうふうに思われないようにしないとな」という屈折した自虐を要求するのである。

 このネタで、差別されているのは、彼ではない。彼を介助しようとして失敗するおばさんの方なのである。

 彼は全ての方面から「護られている」。

「折角、介助してくれたひとに、そんなこというなんて」という声も、「手助けしてもらう側は、有難迷惑でも、何も主張できないの?」という声によってあらかじめ禁じられている。

 アンタッチャブルの立場からの批判はフェアではない。したがって、彼のネタは閉塞感と不快感とを伴う。

目を忘れる

せいぜい……

 気のいいお節介なおばちゃんを笑う。などという安易な定番ネタをたどたどしく披露されたところで、おもしろくもなんともないのだ。かといって、安易な自虐なども聞きたくはない。ヒロシさんの自虐ネタくらい完成したものであればよいのだが。

 今のままでは、せいぜい、鉄拳さんの「こんな介助は、イヤダ」からの「涙という共通コードによるパラパラマンガ家」か、カラテカ矢部さんの「心温まるヒューマニティーコードによる下手くそがまたほっこりするよねマンガ」程度のつまらなさを旋回するばかりだろう。

「啓発」という観点からは、それで大成功といえる。だから、またしても繰り返さなければならない。

濱田さんは、そもそも、芸人なんですか。と。

個性とは

 私は彼にしかできないネタがあると信じている。それは、多分、彼が「視覚障害者」であるという事実をカッコに入れたところに現れるこの世界との関わりにおいてのみ、見いだされるネタだと思う。

gendai.ismedia.jp

 そういう芸人姿勢を貫いているのが、乙武さんだ。彼という先人がいることを忘れてはならない。彼は芸人ではないが、その芸人性は随一である。

「ならでは」の立場

 漫談芸人として生きていくのであれば、「長井秀和さん」とまではいわないが、せめて「スマイリーキクチさん」の水準を超える「独自の視点」を提供するネタを作ってもらいたい。私はそれを知りたいと、切に願っている。