望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

The layered suit ―禅と密教

The full-metal jacket

五感と仮説

 五感のいくつか、または全てを総合した現象を「体験」とよび、その体験を統合したときに現われるものが「世界」である。 「世界」は自明ではなく、仮説の検証によって見出された事実である。

文化と教育

 様々な仮説が採用され、様々な「事実」が存在する。 体験を統合する仮説を「文化」と呼ぶ。「文化」は時空的に限定された区域内において共有される。その共有の手段を「教育」といったり、「啓蒙」といったりする。

色眼鏡

 通常、人は無数の「フィルター」を通して「世界」を認識している。

 「五感」は、「身体」よって規定され、かつ「文化」によっても規制されているが、「世界」を仮構する際の唯一の根拠であるという点で、「文化」に対して超越的に振舞うことが可能なはずである。70年代アメリカにサイケと禅とドラッグが一括りであったのは、「五感の変性による世界の変成、または再編成への期待」に他ならなかった。

彼岸と無媒介

 「五感」が感受する「pre-現象(世界)」を、近代的自我は「彼岸」と位置づけた。そしてそこへ至るには、あらゆる先入観を棄てるべきであるとの認識で共通している。

 「彼岸」へは「無媒介」で通じなければならないという確信は、核心をついたものである。「無媒介=直接」の実現のための方便は大別すると二つ(※)ある。「禅」と「密教」だ。※) 実際は一つしかなく、ということは、一つもないのであるが

The neked body 禅=裸

只管打坐

 「禅」は、心を静かにし透徹させることで人が本来備えている仏性が顕れる、という考え方だ。つまり、禅とは坐禅の禅であり、仏性に至る(仏性を回復する)手段はただただ心静かに座ることである。「人はそのままで悟ることができる」、とはそういうことだ。

思案と自我存在

 しかし「心を静かにする」ことは至難である。 「世界」を認識する無数のレイヤーが振動し、干渉しあうとき「思案」が現象する。「思案」は「自我存在」と密接に結びつき、自分を「体と心」に分ける二分法仮説が浸透している。

不立文字と処方

 ひたすら坐る際の身体的不快感を紛らわせるため「思案」はいよいよ活発化する。 「思案」には「思案」をもって抗する。「不立文字」を立てていながら、「教」や「公案」を許すのは、禅の処方である。

公案と教

 「思案」はおおむね「文言」の形式をとる。「公案」は言葉という強固な鎧を砕くタガネとして処方される。

 言語は「矛盾」を嫌う。なぜならば、言語は緻密に折り合わされた差異の体系としてのみ存在するからだ。差異を差異として保持するために、言語は理路整然とした体系を保たなければならない。差異が機能しない言語とはもはや言語ではなく「自我存在」を「担保」する「思案」そのものの機能不全をもたらすことになるからである。

文言とレイヤー干渉

 「文言」が各種レイヤーに干渉しているからこそ、この「文言」の機能を麻痺させることは、レイヤー剥奪に有効なのである。

悟りの継承

 だが、予めセットされているはずの仏性とはどのようなものなのか?

 自分は坐禅によってどこまで裸に成り得たのかを、自ら判断する困難はどのように解消されるか?

 基本的に禅は、師の全人格の継承をもってのみ伝えられる。師の悟りと己の悟りとが同質であるか否かを判断することは難しく、ある種の答えが必要となる。「教」にはそういった意味合いがある。(その「教」という「文言」が新たなレイヤーを形成する危険は常に或る)

closed system

 一体、人が人の全てを理解するというようなことが可能であるのかどうか? 禅はそのような問を受け付けない。なぜならば、それが可能な位相こそが「彼岸」だからである。  迷わず行けよ、行けば分るさ。ありがとうっっ!(アントニオ猪木さん) それが「悟り」である。

The layedred suit 密教=熱狂

賑やかな密教

  「密教」に「静寂」という形容は似合わない。もちろん(比喩的に)ひたすら耳を澄まし目を凝らして世界の彼岸を感じ取ろうとするセッションもあるのだろうが、概して色彩や音響が過剰に響き、「生命」の躍動を最大限に愉しむ、という姿勢に溢れているように思われる。

レイヤーの取扱い方

 「禅」につきまとう、静謐、質素、簡素、節制、抑制、無欲、の対極にあると思われる「密教」も、「世界という仮構」を感覚において越えていこうという試みに他ならない。 「禅」が無数のレイヤーを、無視し、自壊させ、ときに暴力的に剥ぎ取っていく方法であったのに対して、「密教」は、レイヤーの振幅の可能性を極限まで引き出し、さらなるレイヤーをも重ねていくことによって、「そのままの世界に仏性を現象させてしまおう」という試みである。

身体に則して生命を超える

 身体の身体性を予め備えられている特性として捉え、その特性を「身体」による制限や「文化」による規制を超えて活用し尽くそうというメソッド。究極的には「生命」を極限まで膨張させて、予定調和的現実をバーストさせようというSTEP by STEPこそが「密教」である。

Full-Sence

 人は「現実」を半ば自動的に処理している。生活のスケールにぼかしている。それによって「存在」に関する疑問や矛盾を無視している。

隠されるべくして隠される

 五感は感知しているが、現象として総合する段階で捨てられている現象がある。捨てられているため、体験として認知されず、世界からは隠されているものがある。

類は"共"を呼ぶ

 また、存在するものを存在する類型としてとらえるよう教育された結果、「個」を感知する能力が著しく衰えてしまった。 「世界」はより過剰である。その過剰さに向き合い、「類型」に押し込められていた存在の本性を自在に捉えることができるようになったとき、その豊かさを満喫できるようになり、「型」を離れた流動する原存在と一体であることを、思い出すことが可能となる。

ロードマップ

 レイヤーの効果によって現実を変成させること。その変成の進捗は師との二人三脚によって、絶えず確認され、その都度必要な修養を提示されるのである。この方法では、師弟が到達すべき地点を共有し、師は弟子に対して、ロードマップを常に提示することができるという「禅」にはない利点がある。

減算の白と加算の白

 両者について、良い悪いを論じるつもりも、必要もない。

 この世界に生きる身として、問題とすべきは常にシンプルだ。

「どの仮説を採るか」

「禅」は、この世界から色を取り払っていき、無色としての白い光にあふれた彼岸へ出ようとし 「密教」は、この世界のあらゆる色を足した、全色としての白い光にあふれた彼岸へ出ようとする。

大乗とは

 そして、ひとたび悟ることができたなら、その悟りを他者へ継承していくべく活動しなければならない。大乗とはそういう姿勢においてのみ意義があると思う。

 

参考

こうした内容のブログは、中沢新一さんや井筒俊彦さんなどの著作の私なりの理解によって書いています。