はじめに
ニュースで知り、記事をいくつか読んだ。
※特に朝日新聞を選んでリンクしたというわけではない。
40年前の副作用
ひどい話だと思う…… ○○菌という呼び名は、40年前からあった。
近くを通れば、飛びのくように避けられ、机に触れてしまったら、じゃんけんで負けた誰かが泣きそうな顔でそれをふき取りにきて、しばらく 「バリバ」「エンガチョ」大会が始まる。時には罰ゲームの道具にすらされないほど本気で避けられる。呼ばれるときは、「あの人」とか「イボ」とか「気持ち悪い人」とか言われる。半笑いでも、嘲笑でもなく、本気で「不潔なもの」として扱われる。対等に口を聞くことなど、ありえない。同じ人間と認められていないのだから。
学校には居場所がない。だから、自分のなかに閉じこもるだけだ。相手に無視されていることを、自分も無視するしかない。そうして自分のなかの何かを無視し続ける。
仕事上必要な会話は可能でも、雑談、懇親会では話せない。人見知りだから、他人と話せないのではなく、他人と話すというハードルが高すぎて、人見知りという状態でいるしかない。それは今でも引きずっている。
あだ名は愛称か蔑称か
今回の事件と、あだ名での呼称に関して、とても分かりやすくまとめてくださっているブログがあった。
~キンは愛称か、蔑称か
それを決められるのは、本人だけだ。
今回の新潟での件では、本人は ~キンとよばれることが、ひどい悪意に基づく蔑称だと感じるにいたった。それまでは、助けてくれる友人もいたし、教師も相談にのってくれているからと、気丈に振舞ってそうだ。だが、相談から5日後に、彼は担任に裏切られたと感じ、学校にこられなくなった。
担任がすべきだったと思われる理想的なこと
担任は、彼へのイジメをなくす努力をしなければならなかった。
彼がどのような境遇におかれ、どのような悲しみを背負って、ここにやってきて、ここで生きているのかを、示し、教え、諭さなければならなかった。
同時に、彼の辿ってきたその境遇こそが、いじめの原因となっているのだということを踏まえ、生徒達に、被災、恐怖、絶望、非難、別離といった傷を抱えた彼への共感を呼び覚まし、傷を癒す力になりたい、という心を起こさせ、行動に結びつけられるよう、尽力しなければならなかった。
意識の改革には時間が必要だ。それまでの時間、不登校となるのもいたしかたないのかもしれないが、教師のそうした取り組みがあると信じられるだけでも、彼にとって、救いとなったのかもしれない。
担任と学校が即効性を求めて行いそうなこと
だが、現場では、時間をかけることが、難しかったのかもしれない。だから、いじめなどという深刻なものではないというふうに取り繕いたかったのかもしれない。
そうなると、いじめている側より、いじめられている側を操作するほうが、手っ取り早いという、歪んだ考え方が頭をもたげてくるのではないか。
キンなんて、別にいじめじゃないよ。ヒカキンとか、アナキンとか、かわいいあだ名みたいなもんだと思えばいいんだよ。ばい菌? アンパンマンに出てくるばい菌マンだって人気者だし、ドキンちゃんだってかわいいじゃない。ね。~菌じゃなくて、~キン!って、あだ名にしちゃえばいいんだよ。ゴロもいいし。~クンとか、~ッチとか、~ポンとか。~キン。うん。かわいいかわいい。ね、○○キン!
強制? 矯正? 共生のために強いられる犠牲
いじめる側といじめられる側双方に意識の変革が必要なのは確かだが、その意味合いはまるっきり違う。ましてや、傷つき疲れた彼が、いじめを受けて絶望しかけているところに、「自分を変えて強くなれ」などという負担をさらに強制することなど、誰にできるというのだろう。
私が無視を無視するにいたったのは、自衛のためだった。教師や親から「無視されているのを無視すれば、楽になるよ」などといわれていたら、その場では「はい」とうなづいても、そんな方法しかないんだ……と俯いたまま残りの時を過ごしていたかもしれない。
単に「呼び方」の問題ではないこと
「『日本死ね』は比喩ですから」といいきれる精神
愛称と蔑称との区別とは、単に呼び方を変えればいいというものではないことは、当然のことだ。表面だけ取り繕ったところで、気持ちが変わらなければ、さらに陰湿になっていくだけだ。
意識の改革の第一歩として、呼び方に気をつける、というのなら分かる。言葉遣いは心にも影響を及ぼすからだ。
だから、自分が言ったことに、後付けで
「あれはこうこう、こういう意図でした。もちろん大多数の皆様には、私の意図を汲んでいただけていると思いますが、万が一にも誤解を招く余地がありましたとしたら、まことに遺憾であり、慙愧の念に堪えません」
とかなんとか言う奴は信用できないのだ。(脱線)
だが、単に呼び方だけ気をつければいいと、意識改革を行わないまま、言葉だけを取り繕い、慇懃無礼さを助長しておいて、「対応してあげましたけど、何か?」と開き直られるのは、たまったものではない。言葉と心との不一致は、人の心なんて信じられない、との思いを募らせるだけだ。
脳内変換
歪み
自己防衛のための脳内変換は、可能か不可能ではない。繰り返される自問自答の中で自らを歪め、世界を歪めて認識させる自己催眠のようなもので、逃れることのできない帰結として、それはなされる。自分のなかの、どこかを殺す作業なのだ。
前述したように、私は、「嫌悪され無視される」という状況を何とかするために、その状況を無視しようと努めた。その状況が、当然だと考えるため、逆に自分は他の連中よりも高尚だから理解されないのだと捉え、周囲を馬鹿にする考え方を培った。そういう気持ちは顔や態度に出ていたのだろう。それは、今だに言葉や態度の端々に現れているようで、結局、他人から敬遠されやすい状況は変わらず続いている。
いじめられる側の原因って?
人と会話をする方法が分からないまま、ここまできた。
吃音、発語障害、滑舌の悪さ。こうしたことが、「気持ち悪い人」の要因でもあっただろう。
いじめられる側にも原因がある。という。
だが、ありとあらゆる要素がいじめの原因となりうる。だからこの一般論は無力だ。そして、いじめの構造という普遍的な考察もまた、無力である。共同体が営まれるとき、そこには必ず生贄が捧げられる、と証明しているわけだから。
その弊害は、とてつもなく大きいが、あの場で命を絶つという選択よりは、マシだったと、今は思う。
ケース・バイ・ケース
あなたが受けていた仕打ちが、その程度ですむものだったのでしょう。私の場合はもっと深刻なんです。という意見を、私は否定しない。
教師の取り組みが、いじめを克服したとの朗報ががあることも、承知している。
いじめという問題のない、みなが共感しあえる共同体がつくられることを、期待してやまない。
今回取り上げられた彼と、横浜の同様の事件で苦しんでいる中学生の方と、繰り返されるいじめに苦しむ人々の傷が癒え、社会に居場所を得ることができますことを、祈っています。
おわりに
私は世界に存在しているが、居場所は用意されていない。それは社会において自ら獲得するしかない。共感し合い、譲り合う。居場所を奪い合わなくてもよい社会。そんな理想的な形態について、考える。