『シン・ゴジラ』のレビューを見た
monkey1119.hatenablog.com 素晴らしいレビューです。どんなテイストのお話なのかがよく分かりました。なので、私はこの記事にとりかかることができました。感謝します。
え? 私は、テレビの宣伝でしか、見てないんです。シッポ長いなぁ~ って。
ゴジラだから成立する部分とゴジラでなくても成立する部分
大規模災害の暗喩として現れる「ゴジラ」
その出現の際の対応マニュアルは、緊急時災害マニュアルに転用できるだろう。となれば、それがゴジラである必要はどこにあるのか?
この疑問は早急すぎただろうか。
ゴジラの名を冠する意味は、「ゴジラのイメージ」を利用できる点だ。作中では存在すら知られていないのに、映画を見る人々の心にはひとつずつゴジラがいる。だから、映画を見る人々の興味は、今回のゴジラが自分の心のなかのゴジラと、どんな風に違うのか、どんな風にカッコイイのか、に集中する。
その期待度は、映画「ジョーズ」よりもキラキラしているが、身につまされる度は、「ジョーズ」よりも劣るだろう。
東京を怪獣に攻撃させたいのなら、ゴジラを出すのが自然なんだ。ガメラでもいいけど。いまさら、「新しい怪獣映画を撮る」といっても、お金集まらないだろうし。
でも、現代にゴジラが現れたら(しかも前より巨大化してる!って、別の映画の宣伝でみたな…)
どう対処するか。に焦点をあてるだけなら、防災啓発シミュレーションにしかならない。ただ名前にのっかるだけでは意味が無い。これまで、そういった意味の無い同じような映画が作られるきた中で、「本当のゴジラは、そんなものじゃない」という思いを募らせる人も多かったと思うよ。今度こそって。
例えば、「ルパン三世」だったり、「ガンダム」だったりも、そういう扱いを受けているような気がする。(「ガンダム」は例外的に、スピンオフの成功が多く、「オリジン」という「原点回帰」も成されていることから、くだらないシリーズ化、というだけに終わらない部分がある。「ルパン三世」については、最近のテレビシリーズがなかなか良かったと思うが、それをあのタイミングで製作する意味は、やはりネームバリューによって資金が集まったからだろう)
映画におけるパニックの原因といえば、宇宙からの侵略者だったり、世界に蔓延する病原体だったり、巨大隕石だったりする。
これら、大規模パニック映画は、パニックを引き起こす対象が異なるだけで、ストーリーはほぼ同じものとなる。
「事件は会議室で起きているんじゃない」とか「努力・友情・勝利」という定型。
これらのパニックに、人類の科学力のみで立ち向かうか、超人(「ヒーロー」)が関与するかによって、物語の方向は変わるが。いずれにせよ、状況に対して介入可能だという前提はあり、その点でストーリーはやはり似通ったものとなるだろう。
そうなると、『ウルトラQ 第一話 ゴメスを倒せ』 のように、人間と全く関係のない怪獣同士の古からの戦い。そこにたまたま人間がいただけで、介入は不可能、という視点が、今では新鮮だ。
ゴジラという虚構
『大怪獣東京に現る』
d.hatena.ne.jp こういった扱いは、ギリギリ押井守さんの虚構性に通ずるものがあるし、『近未来警察072』内の悪の組織ブラック・ダダーンのような存在の仕方で、ゴジラを作り上げてみるのも興味深い。
とんねるずのみなさんのおかげですのコーナー一覧 - Wikipedia
シリアスにすれば、集団心理の恐ろしさを描くことができるし、それが「妄想ではなかったのかも」というお約束の結末につなげたって、インパクトはある。
事態の後方における人々の生活と気持ちをきちんと書くことは、3.11における被災地以外に住む人々の描写となるだろうし、遠くの原爆の光を、それと知らずに見て「きれい!」と叫んでしまった女性の、それと知った後の気持ちについて考える機会にもなる(『NODA MAP オイル』 かな? なによりも、この平和が、遠くの戦争によって成り立っているのだ(『パトレーバー2』)との認識を提示する上でも、よい位置関係ではないのだろうか。(そして、唐突な破壊。死。この理不尽さ)
押井守氏の虚構(より過激に虚構であること)
押井守監督がゴジラを撮るなら、どうなるだろう。
東京に現れるゴジラ? 『パトレーバー 2』 をやった時点でその答えは出ていたなと思う。『WXIII機動警察パトレーバー』には携わらなかったわけだし。
ルパン三世に関する押井さんの考え方が、ゴジラにも当てはまる気がする。ルパン三世は、変装の名人でどれが本当の顔か分からないだけでなく、本当に存在しているのかさえ分からなくなる。そのルパン三世が盗んだものもまた、虚構なのだという。
参考 『太陽を盗んだ男』 本気で核を盗んで新宿で爆破させようとすると、菅原文太さんも不死身になるという話。
『beautiful dreamer』 も、当初の『OVA版パトレーバー』の考え方も、主人公なんて、寝かせとけばいい、だし。
このような、「物語上の虚構ではなく、物語を成立させている部分が虚構だとしたら」という虚構の取扱が好きなので。メタ小説的な視点は、あまり多用するのはイヤミだけど、上手にやれれば読者を宙吊りにできるの。それはとても愉快なこと。
村上龍さんのゴジラと村上春樹さんのゴジラ
何となく、お二人を並べて考えてしまった。お二人のスタイルがゴジラの二極性に対応しているような気がして。
村上龍さんの小説(シミュレーション)は親切で丁寧だ。そして投入された虚構が何を目指しているのかがよく分かる。ホラーなら犯人がはっきりしたスプラッタ映画となる。ゴジラは大抵こちら側の視点で映画化されている。
村上春樹さんの小説(シミュレーション)では、虚構が心霊現象のように入り込む。そして日常を変質させていくのだが、目指す場所は曖昧である。虚構自身、なぜそこに迷い出たのか分からないかのように。ホラー映画なら、日本的心霊映画となるだろう。こちらの視点で描いたゴジラが見てみたい。
ゴジラは巨大生物ではなく怪獣である『帝都大戦』における加藤保憲に近い存在である。
www.youtube.com ゴジラは、生物であってはならない。エイリアンとか、プレデターなかとは違うのである。どちらかというと、コメディー化する前の佐伯伽椰子(『呪音』)のようなものであてほしい。
つまり、念が固定化した、妖怪、妖精といった存在だ。(「ゴジラとは祈りである」 たしか、中沢新一氏)
案件としては、『ゲ・ゲ・ゲ・の鬼太郎』の出番なのである。