言われなくてもわかるから
作業中、休憩室から聞こえてくるバラエティー番組の音声。
ジャン! テケテケテケ ボョ~ンボョ~ン ポインポインポン、ギーィィィ ワァ~ォ まいぅ~ ケンケンケンチャッツチャッツケンケンケン かぁわぁいぃいぃ! パキューン パキューン シャラ~ン ビィヨォヨォヨォヨォ~~ン
などのSE音がとても耳障り。
動物・子供へのアフレコと動作への効果音
動物モノ、赤ちゃんモノ、いわゆるネット動画垂れ流し番組。これ最悪。
動物の感情を代弁する姿勢。人間に近づけておもしろがろうという姿勢。人間の勝手な視点。しゃべれないからこそかわいい動物と赤ん坊に言葉をあてるという逆効果。
そして、首を振る、手を振る、叩く、走る、よろける、首を傾げる、こける、抱きつく、しりもちをつく、追いかけっこするなどの動作のいちいちに附される電子音のうざったいこと。
「現実のままじゃ、どこがおもしろいか伝わらないかもしれないし、ぼんくら共は、ちゃんとくすぐってやらないと、笑いどころがわからないだろう」って思われているんだろうか。
誰得?
だいたい、他人の赤ちゃん口調って正視に耐えないし、猫なで声、子供をあやす態度と口調や、おどけてみせる感じって、目下、格下、自分より劣ったものに対して、「自分のレベルをおとしてあげている私、かわいいし気遣いできるんだよ」というアピールだ。この寒々しいのを、過剰なまでに供給するテレビ局の態度は何?
音で茶化すって、以前からあったけど
クレージーキャッツのころから、オチでは、トローンボーンが活躍していたし、チャンチャン♪ で落とす手法は普通にあった。ドリフはお化け笛で遊んだり、子供大好きの下ネタにチ~ンとか入れてたし、映画さながらの効果音は舞台を盛り上げるのに必要だった。効果音ってそういうもんだと思う。
歩くとキュッ、キュッと鳴る靴をはいて、抜き足差し足をするコントは王道だし、ラリー音だけで楽しむエアピンポンみたいなものだって定番中の定番だ。
音と感情とは親和性が高い。さらに、特撮では、リアリティを醸すためにSEは欠かせない存在だった。
ただ、昨今のバラエティにおいて極端なのだけど、テレビという伝達媒体においては、視覚と聴覚を虜にして、手足の運動を麻痺させなければならないから、SEと、テロップとを駆使して、二重三重に、視聴覚を負担をかけて、画一的な感情を催させることで、支配しようとしているのだろう、失敗してるけど。
古くは「野球 好プレー珍プレー」のみのもんた氏
番組を盛り上げるべく、ベタなコント台詞をアフレコしまくる、みのもんた氏。(ところで、この分野での名人はなんといっても、広川太一郎氏だけど、それはまた別の話。)
好プレーは、単に野球のプレイでしかない。だから名前を紹介して拍手すればよい。しかし、珍プレーは、その人のキャラクターが重要だ。失敗とは、最も身近な非日常=祝祭空間、いわばカーニバルの屠りものそのものなのだ。
珍プレーだけを取り出して笑いにすることは、当人にしてみれば、傷に塩を塗られるようなものかもしれないが、民俗学的にも、脳科学的にも、精神分析学的にも、社会学にも、茶化される理由には事欠かない。(この図式は「陰湿ないじめ」につながるけど、それはまた別の話)
だが、効果音やアフレコに関しては、うるさいという印象はなかった。ボールが転がる、キャッチャーの玉に球が当たる。乱闘のボカスカ音など、理解できる範囲。
スタードッキリまる秘報告での効果音
ポイントとなる部分にのみ、しかも感情に対する効果音が主流だった。
どっきりのシチュエーションで、「おかしいな」などと思うターゲットの心持ちに音をかぶせることが多かった。
行動については、ブーブークッションや、ジェットコースターの時の巻き戻し芸(これはあまり好きではなかった)が主で、どちらかというと、テロップ処理が多かったように思う。
どっきり仕掛け中は、世にも奇妙な物語的空間が展開している(こちらも非日常時空という)わけなので、臨場感、ライブ感が大事だ。
そのための隠し撮りであり、オフレコはあくまでも補助説明的で、そのバランスはよかった。
『トム&ジェリー』の素晴らしさ
ちょっとテーマを逸脱するけれど、このごろの『トム&ジェリー』のDVDには、吹き替え版があるらしく、そもそも台詞なんてほとんど必要ない『トム&ジェリー』を吹き替えできるはずがないと思いながら、聞いてみたら、まさに、今回のアフレコ問題そのものだった。
なんて、説明的な、冗長な、無駄な、不要な、邪魔な、ぶち壊しなことを言わせてるんだろう。作品が貧しくなるから、やめてほしい。
これは、洋画の日本語吹き替えのしゃべりすぎ問題に通ずるものでもある。
『トム&ジェリー』においては、まず素晴らしい作画で十分に成立しているところに、フルオーケストラによって、生気が漲る完璧な効果を上げている。まさに、言葉はいらないのだ。
ゲーム音なら気にならない
ところで、マリオのジャンプ音とか、パックマンの点を食べる音とか、格闘ゲームで飛び上がるときの気合声とか、ゲーム内で、その動作をすると必ず発せられる音があるが、それらは嫌味に感じない。だが、現実世界の動画でジャンプしている場面に、あの音がいちいちついていたら、多分嫌になるだろう。
つまりは、戯画化の問題なのかもしれない。アニメなら許せるけど、実写では許せないSEがあるとか。サマンサが唇を動かすときの音が、ギリギリのラインだろうか
それ必要?
ワイドショーの「フリップのめくり」をめくるときの音とか
まずはフリップの「めくり」そのものも必要なのか、という議論もあることは重々承知の上であります。おぉ~と、この分野の草分けに、またしてもみのもんた氏の黒い顔がいらっしゃることに、果たして何か意味があるのでありましょうか。それはさておき、あまりに画一的なSE添付には、強調すべきものが無いのにもかかわらず、あたかもそういったものがあるかのように誤魔化そうという姿勢が感じられてしまうのであります。それはまさに、「満漢全席味のふりかけ」にも似た、なんとも寒々しい、主客も本末も転倒してしまったあべこべもこもち氏が、一回の料理においてオリーブオイル一瓶を使い切ってしまったというほどの、強迫観念を、ひしひしと感じさせるのであります。
完パケってそういうものなの?
盗んだバイクで走り出すのは恥ずかしいから、ごてごて飾り立てて、仲間を金で集めて、大勢で空騒ぎして、裏切り者は粛清しちゃえって。
この動作にはこの音だと、機械的にただただはめ込んでいくことがプロの仕事なのか。隙間を全部、安っぽい電子音で埋めていって、過剰だとか、邪魔だとか、感じないのか。「素人の映像なんて、このくらい盛ってやらないとつかえねぇよ」って思ってるのか。結果的に、ネット配信時よりも断然劣化してるって気付いていないのか?
BBC製作とか、ナショジオとかの、動物モノとか、ビヨンビヨンなんて、言わせてる? せっかくのノンフィクションを、定番のフィクションに改悪しないと、安心できない、という病がはびこっている。そのために、SE素材集を工夫なく用いている。
みんな同じじゃないと困るのか
私だって、動物、かわいいと思ってるのに、そのままで十分かわいい動物を、珍プレーをはやし立てるかのようにカリカチュアライズする残酷さ、笑いものにしている冷酷さに鈍感すぎると思う。
みんながなるべく同じ感想をもってくれるように、ワイプとテロップとSEとで誘導するのは、クレーム対策かもしれない。音楽は感情にリンクしやすい。だけど、感情の閾値って十人十色だから、そう簡単には、懐柔できない。その場合、SEはたんなる雑音だ。
ついでにうるせぇー奴ら
あと、ほんとこれはついでだけど、ボビー・オゴロンの、たどたどしい、一本調子に声を張った ナレーションが嫌い。こんなものを聞かされる(休憩室から流れてくるのである)のは屈辱的ですらある。
あと、もうひとつ今回のテーマとあんまり関係ないけど、ワイドショーで、どんな事件にでも、視聴者の最大公約数的当たり障りのない一般論だけを、したり顔でコメントし続けるガダルカナル・タカ氏の芸もすごいなと思う、けどわざわざ聞かされたくない。ビートたけしさんの横にいるときだけは好きなんだけど。
あと、いまだに、「かぁわぁいぃいぃ」を連発している久本雅美さん、うるせぇよ。
テレビ局からのメッセージか?
『アオイホノオ』作中で庵野さんが体現したように、また、攻殻機動隊のハリウッド版を製作中の押井さんが語っていたように、「迫力=音」っていう点も重要なんだけど、それはまた別の話。
頭の中でしゃべって考えるタイプの私にとっては、この「迫力」が邪魔だったりするし、洗い物や掃除機をかけているときには、そもそもテレビの音は聞こえてこない。
だから、いちいち書き起こしてくれる芸のないテロップが、聴覚障害者への配慮的な扱いとしてとても役立つから、現実世界を漫画に変えようとするSEだって、ある種のタイプの人には有用なんやろうなぁ。どんなタイプか判らんけど。
結局、テロップもSEも、「テレビなんて、真剣にみなくてもええんやで」という、テレビ局からのメッセージだったんやな。そうそう、「うたばん」のテロップとCG、SEはおもしろかったな。内Pとか、お笑い向上委員会とかには、この手の問題はなかった気がするな。もう、後戻りはでけへんねやろうけど。