リュウは、ただのムービーカメラとして、現場を浮遊する。
時折ストロボを爆発させ、現場を活性化させるニコマートとは違って、
何も指示されぬまま漂い、気まぐれにズームインとズームアウトを繰り返す。
遠近法ははなから壊れている。そしてそれを記述する文章も破綻している。
時折リュウ自身も被写体となるが、自他の区別はない。それどころか、人間も虫も果物も、感情も行動も、全てが等価で、全てが窒息寸前だ。
窒息感
この現場には隙間が無い。全てが水滴のようなものでびっしりと覆いつくされ、飽和している。そして恐ろしい水圧。
そこでは感情さえもオブジェとして実在し、空間を閉塞させる。
『限りなく透明に近いブルー』とは、
「記録=叙事=加圧=凝縮」と「記憶=叙情=無圧=放散」のつぎはぎだ。
リュウは、赤ちゃんのようにただ見ている。そんな風に見ていると気が狂うから。
リュウは見ることに自覚的だと言っている。
頭の中に宮殿、都市を完成させるためだ。その描写は、空疎だ。リュウはそんなことはしない。記録はするが、記憶はしないはずだ。だから、リュウが想いを語る描写が下手になる。
現場で起きている事実の固有性が、彼らの内面を凌駕する。常軌を逸した行動と、保守的な内面などという対比は不要だ。
『海の向こうで戦争が始まる』
に連なるであろう場面の全てが、この作品においては、無駄だ。二つのことを同時にしようとした作者の問題だ。
この小説は傑作だ。
しかし、小説として傑作なのではない。
一編の映画として傑作なのである。
三田村邦彦(新人)主演の映画は、未見だが、おそらく評価はされていないだろう。
「限りなく透明に近いブルーだ」に帰結する。
この一文が全てだ。
この小説に描かれているのは、当時のごく一部の地域の特殊な風俗のひと時だが、時代の全てが入っている。だから、素晴らしいのである。
『限りなく透明に近いブルー』、30年ぶり文庫新装版
新装版
単行本、文庫旧版
作家村上龍さんのデビュー作『限りなく透明に近いブルー』が、講談社文庫で30年ぶりに新装版になった。デザインも、村上さん自身から、装丁家の鈴木成一さんに変わった。
物語の最後で「リュウ」は「もし本にできるならリリーの顔で表紙を飾ろうとずっと思っていた」と「手紙」を書いている。この通り、単行本、文庫旧版では村上さんが装丁を手がけ、自ら描いた女性の横顔が使われていた。
新装版は、カバー一面に長方形の青色を配置した。鈴木さんは「作品を改めて読んでみて、ドラッグやセックスの衝撃的な内容を描きながら、ゆるがない著者の視点を感じた。それをシンプルでスクエアな青色で表現しています」と話している。税込み420円。