望月の蠱惑

enchantMOONに魅了されたので、先人の功績を辿って、自分も月へ到達したい。

『少年は荒野をめざす』 アガペーと慈悲

吉野朔美さん4/20逝去

  2016年(平成28年)4月20日。病気のため亡くなった吉野朔美さん。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 私にとっては「月下の一群」「少年は荒野をめざす」の作者さん。特に後者の印象がとても強かった。そこには様々な「愛」の形が描かれていたと思います。

少年は荒野をめざす (1) (集英社文庫―コミック版) | 吉野 朔実 | 本 | Amazon.co.jp

愛の形

 古代ギリシアにおける愛の分類(『ピープルスキル』 p489 「無私の愛」)

  • フィリア=友情
  • エロス=情の深い愛。たんなる性愛を超えた包括的な愛
  • アガペー=他人の幸せを願う愛

 はじまりは、エロスであってもそれにフィリアが加わり、アガペーをも備えれば、重厚かつ深い愛となる。

仏教(wikipedia 愛)

  •  渇愛
    人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動
  • 愛着
    仏教における愛着は煩悩の一種であり、これに対応するインド古語はたくさんの種類があるが、基本的な働きとしての愛着をローバ(lobha)といい、伝統的に「貪」と漢訳される。 意味は、ある対象を気に入るという、原始的で単純な心の働きを指す。対象への拒絶である瞋(dveza)、無関心である痴(moha)とあわせて三毒とも よばれ、苦しみを生み出す原因として扱われる。
  • 性愛
     「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。「愛染」という語もある。
  • 慈悲
      他人に対する、隔てのない愛情を強調する。
    子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった 言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。          

  騎士道(wikipedia 騎士道)

 貴婦人への献身は多くの騎士道物語にも取上げられた。宮廷的愛(courtly love)とは騎士が貴婦人を崇拝し、奉仕を行うことであった。相手の貴婦人は主君の妻など既婚者の場合もあり、肉体的な愛ではなく、精神的な結びつきが重要とされた。騎士側の非姦通的崇拝は騎士道的愛だが、一方、貴婦人側からの導きを求めつつ崇拝するのが宮廷的至純愛である。

双子の共感について

 様々な作品のなかで、どうしようもなく魅かれあう理由として取り上げられるのが、「運命の人」というファンタジーです。

魂のかたはれ

 ガラスの仮面紅天女」において、梅の精である「紅天女」が仏師一真に言う言葉。梅の木の精と人間の悲恋。「自然界の過剰するエロス、カオスモス中沢新一『哲学の東北より)』)の具現化である紅天女とは【自然=魂=性】であり、恋情は迷いであった。
 また、この言葉は一蓮に対する千草の思いであり、この台詞によりマヤの心には真澄姿が横切るのである。「魅かれあう魂が裸となったとき、社会性を失ってまでも添い遂げようとする強い絆」が、魂のかたはれ、なのだ。
 この概念は、「プラトンの人間球体説」に遡ることができる。

 プラトン人間球体説

 『饗宴』に登場するミュートス「人間球体説」は、わたせせいぞうのコミック作品『菜』の中で使われるほど現代では知られるようになっている。プラトンが 『対話篇』において問答と並列させたりあるいは問答の代わりに神話を使う理由について、國方は著書の中で「対話の相手が、論理では納得できても情念ではま だ納得しきれていないとき、説得のためにミュートス(神話)が提起されるとしている」と述べている。國方栄二『プラトンのミュートス』、京都大学学術出版 会、2007。

 「人間球体説」は、プラトンが紀元前四世紀に書いた『饗宴』の中で、ギリシャ喜劇の作者アリストファーネスにエロスについて語らせる話の中に登場する。『饗宴』は、数人のソクラテスの弟子たちが「愛」について対話形式で議論する場面を描いている。
「人間球体説」のもとを辿ればギリシャ神話に端を発している。かつて人間は球体の形をしており、手足がそれぞれ二対、顔と局所も二対あった。この球体は、 アンドロ(男/男)、ギュロス(女/女)、アンドロギュロス(男/女)の三種類の組み合わせにより構成されていた。転がるようにして移動するこの球体人間 は、心臓も脳も二人分あったために極めて強力な生きものであるうえに、非常に高慢だった。これらのかつての人類は、反抗的でたびたび神々に歯向かった。こ の様子をみたゼウスは、球体人間を二つに切断してしまった。半身は本来の「完全」な姿になろうともう一方の半身を求める。この完全を求めることが「恋愛エ ロス」であり、完全無欠な愛が成立するのは、この分身同士が出会った時だとするのが人間球体説である。『饗宴』のミュートス「人間球体説」 - 西尾治子 のブログ Blog de Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

  重要なことは、球体であった当初、人間はアンドロ(男/男)、ギュロス(女/女)、アンドロギュロス(男/女)の三種類があった。つまり、「愛(エロス)」は、性差に限定されないのである。
 「プラトニック」も、もともとは、少年愛(男色)において外見よりも精神性を愛することがより尊いというものであった。また、イデア論としてより尊いことは、個人に対するものではなく、「愛」というイデア(原型)そのものを求めることであるという。
  だが、二つの頭二つずつの手足、生殖器も二つ。パートナーは初めから決定しており、離れることなく、長く生きる生命体とは。なんだか、高慢で反抗的になる理由が分る気がする。 


 双子+1(かたはれ、または庇護者)との関係性

『空の色に似ている』と『エリオットひとり遊び』

空の色ににている (ぶーけコミックス) | 内田 善美 | 本 | Amazon.co.jp(ぶーけ1979年連載 内田善美さん) 

外観は似ていないが、同じ感性を持つ男女が出会う。(図書室の図書カードから、同じ読書履歴を持つ相手に興味を覚えるところから始まる)彼女には、画家で登山家の恋人がいる。彼女の恋人に、彼も魅かれる。恋人は彼に彼女を託し冬山へ消える。+1を失うことで、二人は互いに前を見て進む。

エリオットひとりあそび』(ぶーけ1982年10月号〜1983年7月号 水樹和佳子さん)

 エレーンはベトナム戦争から戻らない恋人を待つ。彼を庇護する写真家がいる。両親離婚後父はベトナム戦争で失う。エリオットはエレーンの心の声を聴く。だが写真家はエリオットの若さが、エレーンを傷つけるのではないかと、エリオットを責める。エリオットが成長することで、+1はエリオットにエレーンを託す。

 

『少年は荒野を目指す』において、+1は不在であった。

  二人の想いを理解する日夏は、+1の立場を放棄している。
 彼の姿勢は騎士道的愛でも、庇護者としての愛でもない。彼は単に評論家である。少年達の動向を(意図的に加速しつつ)見守り、事が成った後には、それを論評するだけである。


 定数としての+1があれば、その存在に対して働きかけさえすればよかった。
 だが、+1の不在は物語を複雑にした。夭逝した兄、いないことにされている父親、役者不足の庇護者、保護者として毅然としようとする恋人、ストーカーという愛執、家族、友人達の想いなどが、+1の位置に次々と現れて、二人を翻弄する。
 彼らは手放しに庇護されることはない。お節介と放任の両極のなかで、同じ形をした者同志が行き着く二つの結論のうちの一つに帰着し、その挫折によって復帰するのだ。

『荒野とは』

 少年達が目指す「荒野」とは、庇護者のいない一人で歩む世界である。
 だが、もともと彼らは庇護者の存在を見失っていたはずだ。互いが互いを映し合う鏡面球体の自閉的世界において、「守られている」と自ら錯覚することで、不安を紛らせていた。その意味で、彼らは「現実」とは一線を画した場にいたのである。
 だが「現実」は、時折、刃を閃かせ、生きるのに必要な傷を与えていった。この年代における「現実」とは、「家族」と「性」と「学校」だ。

二回の性の拒絶(狩野)

1回目「女だから一緒にいるんだ」

 鉄壁のトライアングル(フィリア=友愛)と自他ともに認めていた菅野に「女だから仲良くしている」といわれて、ショックをうける。(彼は狩野の内の少年をいかに大事にし ていたかを知りながら、騎士道精神を貫いていたが、狩野が黄味島にひかれているのを知り、「恋愛=性愛」を押さえきれなくなる。
 もちろん、彼にとっても、男女の差は重要ではなかったが、狩野を狩野として接するとは、つまり狩野が女性である事実をも引き受けるということなのである。あまりに正直な男だ)


 2回目「狩野相手にそんな気にならないよ」

 黄味島は、好きだといわれる相手とはほとんどみんなと恋愛(ごっこ)を行う。(彼は拒絶することができない)狩野は恋愛関係をもちたいわけではなかったが、恋愛(ごっこ)の相手が優先されるべきという周囲の圧力におされ、黄味島と遊ぶ機会を奪われる。(「その理屈なら、最終的には二人で無人島にすまなきゃならなくなる」)
 それなら自分もそういう関係になれば遊べると想い、そういう言うのだが、黄味島はそれを拒絶する。(「誰にでもいいよっていうくせに」)
 狩野は自らの女性性を否定していたが、それが残酷な形で実現してしまった瞬間である

二つの性の拒絶

狩野都の女性性の拒絶(前項と重複あり)
  •  夭逝した兄(翠)への依存
  •  スカートをはけない(女装しているみたいで恥ずかしい)
    ⇒最後には性を特別視しなくなり克服する
  • しかし、狩野は髪を長く伸ばしている。
    (ストーカーにハサミでおそわれ、髪を切られるが、「坊主にされればよかった」ということから、長髪に思い入れは無いもよう。この事件では、狩野をかばった黄味島が腹をさされ、予選1位だったインターハイ決勝を棄権する)
黄味島の中性性
  •  男に口説かれてOKしそうになる
  •    自分は自分だから、と性を問題にしない
  • だが、狩野にとっては黄味島が少年であることは重要である。ただしそれは兄としての存在の影なので、恋愛に変化しにくいものだ。

メモ:ストーリー上の狂言回しとして重要な日夏は、男女を問わず口説き、彼らのもつ夢を喰う。

※「親」は、黄味島にとっては、鳥子が、狩野にとっては、「病弱な父」が現実をつきつける。「学校」については省略する。

 

出会ってしまったら死ぬしかない関係

  同じ欠落を持つ者同士が引かれあい、互いに欠落を埋める事ができないことに気付いたとき、二人は出会いの理由を知る。その一方の極に「絶望」がある。

 欠落が欠落として固定し、傷をなめあう伴侶を捨てる踏ん切りもつかない。服毒、縊死、飛び降りを検討し、列車への飛込みを選んだ彼らが死ななかったのは、偶然でしかない。欠落を埋めるという完結と、死という完結は、彼らの中で等価なのである。

 だが、「死ねなかった」という事実は、新たな一歩を踏み出す理由になる。

 「人はもっと強いものだと思う」と、黄味島の長く続く恋人であり保護者でもある鳥子は、言った。
 逃げ道を断つことで、強くなってもらいたいという彼女の意思は、立派である。(彼女は、黄味島の一族のアンタッチャブルであった父を、呼び寄せる。まさに、それこそが、黄味島の欠落に他ならなかった。その存在を認めねばならなくなったとき、彼はようやく「他人=現実」と向き合うことになる) 
 ここには、盲目的な期待=信頼がある。それは黄味島にっても、鳥子にとってもプレッシャーだろう。しかし、それが鳥子が信じる「現実」なのである。
 黄味島には鳥子がいる。だが、狩野には、黄味島しかいなかった。だが、それは亡くなった兄の影=自分自身の中の少年なのであり、思い出にしてしまわなければならぬ存在なのであった。

そして少年は ぼく の次に ビッグ・オー を探して荒野をめざす

  互いが互いの中で完結する地獄を脱し、欠落をかかえながら生きることこそが、自由だ。そこで響きあう魂には二通りある。

  • 相補完的関係
  • 同形的関係

 今回取り上げている三冊の主人公たちのいづれもが、「同型的関係」に属する。そしてその一方と相補完的関係にあるはずの存在は、失われる。たしかに、相補完が成立してしまって安定すれば、物語が展開しない。だが、相補完的関係を是としない価値観は確かにあった。それが『ぼくを探しに』だ。

 前述したプラトンの「人間球体説」への批判としてこの絵本は書かれた。運命の人を求めるということは、運命でない人の存在は無意味だということに繋がる。そして、自分が誰かの部分でしかないかもしれない、という可能性をこの絵本は突きつけた。誰かの運命に従属することを運命づけられているなど、誰も、認めたくはないだろう。(もちろん、自らの意思で、従属を選択することは喜びである)

 では、人はどのように人と関わり合うべきなのか(どのように生きていくべきなのか)を書いたのが、続編、『ビッグ・オーとの出会い』だ。
 欠落を抱えたもの同士が、補完しうる相手を求めて出会い、完全となるのではなく、欠落を、自らの経験によって埋めていこうとする。その過程で、角はとれて円に近くなっていくのだと、ビッグ・オーは言う。そして、欠落のある似た二つは、同志として、ともに進んでいくのである。
 この結論は、実は何も言っていないに等しい。欠落を抱えたまま生きていく困難は全く変わらない。ただ、依存先を求めるのではなく、解決法を他に探すのではなく、自らつかむこと、その過程こそが、自分を作っていく。そのとき共に進むものがいるのだと示しているのである。

その場こそが、「荒野」なのである。

自我の保全

 この考え方は「アガペー」に到達するだろう。

「自分を愛するように隣人を愛せよ」により、周辺の人々に対する敬愛が生じる。だが、このときに課題とされるのは、「自我の完成」だ。自我は他者の疎外として(または、他者は自我の疎外として)あって、互いの抵抗となる。The love is a rub.であるこの形式は、やはり、キリスト教圏の考え方なのだ。

 アガペーから慈悲への隔たりは大きい。そこをつなぐものとして、『空の色に似ている』があるのだが、それはまた別の話だ。

なんてみんな忘れて

 ところで、こういった話は、個人的な駄弁だ。

『少年は荒野をめざす』は、青春群像として全く色褪せない、痛みと瑞々しさとを、いまなお与えてくれる傑作である。

因みに

この三作品の少年達はみんな「走る」。走る少年達についても考えてみたい。