唯物主義的唯脳論の「マトリックス」
マトリックス世界における無限後退
胡蝶の夢から一歩たりとも出ていない問題意識
コンピューターシステムは人間を電源とするため、人間を捕獲し、一定の神経電位を確保するために、かつての暮らしをVRとして提供する。必要な電力量を供給できなくなった人間は処分される。
このシステム、随分と親切だ。人間にはリアルな夢と最低限の栄養素を。そして自らは電力を。win-winといってもいいシステムではないか。
願わくば、国境の無い平和な世界の夢をみせてくれればよかったのに。妙なところで、現実主義かつ厭世的なのだね、コンピューターっていうのは。
支配からの卒業
この世界がVRであるとの「気づき」は、プログラムのバグを収集分析し、それをハッキングすることによって確信にいたる。そして「目覚め」は、「気づき」に従おうという強い意思によって発動する。以後は、レジスタンスとして、劣悪な環境下での闘争が始まる。システム内部においては、バグを利用してプログラム自体の破壊を目論むのだが、果たして、人類は覚醒を望んだだろうか?
支配されることは、自由でいるよりも楽なのだが。
夢邪鬼
コンピュータシステムとの戦いが繰り広げられる従来の世界も、VRの可能性があるはずだが、この映画でVRを生み出したのは人間と敵対するコンピューターシステムであり、そのメタレベルまでは考慮していなかった。その意味でこの映画は徹頭徹尾、唯物的だ。
であるがゆえに、この世界で、ビューティフルドリーマーにおける夢邪鬼(1)の地位を占める最終審級は「唯一神」でなければならない。つまり、コンピューターは神に反逆する存在でもあったのだ。このVRは、かつての「バベルの塔」である。そこで神は、ネオを復活させ、「獏」として、お遣わしになったのだ。
唯物主義者は、根底において「神」に依存する。
「物」は、起源と終焉を問うことを禁じられている。宇宙の始まり以前と終わり以後は、無かったことにしなければならない。唯物主義者にとって最大の弱点は、「物」が存在するという奇跡なのである。
「神」によらない世界とは「物」によらない世界(=VR)である。そして神でない者が作る世界は、最終審級を常に保留する(目覚めは無限後退する)
マトリクス世界における唯物主義
リアルライフ=物質
マトリックス内で、コンピュータシステムが提供するVRは、体感する者にとって、現実としか思われない高度なセカンドライフ(3)であって、そこでは感覚、知覚、情動、意思が存在するように感じられる。
それらを「心の働き」と呼ぶなら、 「心」とは、身体を巡る電気と薬物刺激によって発生する物理作用ということになる。
セカンドライフがVRだと「気づく」ことは、「物質が実在していないと知る」ことだ。つまり、リアルライフとは「物が実在する世界のこと」だ。
我々は、「物質」によって現実を感知し、認識する。
VR世界の成立=唯脳論
コンピューターシステムによって、脳(身体)を適切に管理することで、そこに幻影としての世界が生じ、それが十分にリアルな物質性を生じさせるのであれば、
「唯(物=脳=心)論」
という読み替えが可能となり、根本にあるのは「唯物論」ということになる。つまり、この世界には「神」が存在する。
マトリックスとは、「精神に物質を奪還する物語」なのである。
多世界解釈としての「ウォンテッド」
意思が物質に作用する世界
この映画においては、現実世界は一つで、VRではない。
だが、こちらの現実世界は、意思の力が物質に作用しうる公理系に属する。
先天的才能(センス)は必要だが、人は意思によって、「いわゆる物理的常識」を覆す運動を起こすことができる。
ただし、それをPKとして描いてはいないのが特徴である。
銃弾は曲がるが、その他の物体を意のままに動かす描写は無い。動体視力と身体能力、自動車の運転技術などは、こちらの世界の物理をなるべく踏襲している。
その意味で、スターウォーズにおける「フォース」とは異なっている(4)。
双方とも、「信じること」が重要視されているが、ウォンテッドにおいては、銃弾を曲げることが、ブレークスルーであり、かつ卒業認定でもあった。
量子論的世界解釈
現在までの確認事項
現在までのところ、意思は、脳の可塑性を利用してその回路を変更することが可能であることが分っているが、マクロ的物理学の結果を直接、左右することはできない。
望む結果にむけて努力することは 可能だが、思い通りの結果を得られる保証はない。
ギャンブルと同じこと
量子論においては、あらゆる現象は、観測されるまでは、ありとあらゆる状況が、確率論的に分布し、それは波動関数として表される。そして観測によってそれらの可能性は一つの事実に収縮する。
量子的絡み合い
ウォンテッドにおいて重要なものとして、「自動織機の糸の絡まり」がある。ここに「絡まり」を持ち出したことは、「量子的絡みあい」を示唆する。
世界がただ一つの量子的霧から分裂し展開していったのだとしたら、この世のあらゆる事象は、相関性を保持し続けていることになる。
「絡み合い」においては、量子論は決定論となる。なにしろ、片方を観測すれば、どんなに離れていても、即座にもう片方のアイデンティティが決定するのだから。
観察者・観測・新たな知識
タペストリーを観察する者は、害悪をなすものの名前を観測しようとし、その結果を得るだけだ。波動関数がある名前に収縮したとき、それと相関関係をもつ当人のアイデンティティ(=排除すべきもの)が決定する。
観察者は、観測結果を受け取り、それが観察者にとっての現実となる。この映画における観測者の振舞いは、部下から裏切りとの評価をうけ、復讐の発端となった。
非局在性隠れた定数説による決定論的量子力学
映画冒頭と、終盤において、数時間後の標的の位置や姿勢、狙撃場所から標的までの障害物の状況などを計算しつくした上での狙撃が描写される。
これは、古典物理の記述による決定論的世界に似ている。だが、そこでは銃弾は曲げられない。だから、この映画は、非局在的隠れた定数下における決定論的量子論世界で起きたのだと推測できる。
その定数を知った者は、あらゆるギャンブルに勝ちまくるのみならず、予言者として権力を持つだろう。
重ね合わせの万能感?
多世界への分岐は、量子重ね合わせ状態から、ただ一つの観測事実に収斂した際、あとは消えるのではなく、全ての状態が展開していくことにより発生する。
量子重ね合わせによって網羅される可能世界には、どこまで(荒唐無稽な世界観まで)が含まれてるのか。
観測結果を持たない世界も、そのまま展開していくのだから、何でもありになりそうなのだが。
「量子」そのものが何に制限されるのか、何に従うのかについての知見を深めなければ憶測することすら難しい。
新たな知識を観測するごとに、網羅される可能世界は更新されていく。量子物理学が、新たな世界を拓く可能性は未知数だ。
(1)ビューティフルドリーマー いわずと知れた押井守監督作品。
(3)セカンドライフ どうなっているのでしょう